――――翌朝。
爽やかなピーンと張りつめた冬の空気におひさまの光がコロコロ零れている。
皐月は雨でなければ自転車通学。雨だとバスを使う。今日は自転車。
結莉と皐月、一緒に出発時刻を迎え同時にマンションを出た。
自転車置き場にて、制服姿でボブヘアーがこけしみたいに可愛い皐月が「ママ、いってきまーす!」と自転車にまたがった。
「ええ、いってらっしゃい! 気を付けてね、皐月」
「はーい!」
元気いっぱい、チラとだけ振り返り、皐月が風のように通学路を自転車で行った。
結莉は最寄り駅まで約15分歩く。2月の空を見上げる。
(この水色が好きなんだよなー)
白い息を吐きつつロングブーツの歩を進める結莉。もちろんいつもの赤い手袋も忘れずに。今日のファッションは黒いフリルのミニスカ。ブーツの中は靴下なので生足が覗いている。白いモコモコニットを着、上着はピンクのダッフルコートだ。
――――午前8時。出勤時間で込み合う駅。
いつものことだ。
結莉が通っているクリニックは人気の病院であるがゆえ、待ち時間がかなり長い。だから結莉はなるべく早くクリニックへ到着するようにしている。
降りる駅は3つ目。電車に乗っている時間は20分もかからない。
ホームにやって来た電車へとみな、押しくらまんじゅう状態で入って行く。窓ガラスが真っ白に曇っている。
結莉に異変が起きたのは、乗車し3分もしないうちから。
痴漢だ!
後ろから伸びて来る悪魔の手。ミニスカートに手を入れおしりを触られている!
怖くて、怖くて、青ざめつつ冷や汗をかくばかりの結莉。
その手が下着をまさぐった時、こらえきれず黙ったまま結莉は泣いた。
その時だ!
「こっら! 痴漢野郎!」
見知らぬ男性の怒声が響き渡るとともに、悪の手が結莉からやっと離れた。
涙をぬぐいつつ振り返ると、金髪ツーブロックヘアーの超怖そうだけど、色気のあるカッコいい男性が、気の弱そうなメガネをかけたサラリーマン風のおじさんの手首をひねり上げていた。
「どなたか! 110番か、駅員さんに声をかけて下さい!」
結莉は、このイケメン男性の親切を無駄にするものかと勇気を振り絞り叫んだ。
「ごめんなさい、すみませんでした、許して、許してください……」
繰り返す痴漢の手をずっとその助けてくれた男性は離さず居た。
誰かが駅に電話でも掛けたのだろうか、駅員が混雑する車内の乗客を、かき分け、かき分け、結莉のもとへやって来た。
結莉と、痴漢と、助けたヒーローの所はぽっかりと穴が開いたように3人だけまとまり、人々が電車の隅へ寄って行っている。
駅員が、しょんぼりとバツが悪そうにしている痴漢を捕らえたし、その痴漢は項垂れ気弱に謝り続けるので、金髪の男性はやっと痴漢の手を掴んでいた手を離した。
「お客様、大丈夫ですか?」
「はい、こちらの方が助けて下さったので」と結莉。
「ああ、恐れ入ります。お客様もお怪我などございませんか?」
すると、その金髪の男性が言った。
「ええ。僕に怪我はありませんよ。しかし彼女が心に負った怪我は計り知れませんね!」
加害者は周りから好奇の目にさらされ項垂れたままだ。
もうすぐ隣駅に到着する。
駅員が「警察を呼んであります。お客様、警察の方にお話しされてください」
結莉は、クリニックへ行くのを午後にしようと決め、駅員の言葉に従うこととした。
次に駅員は、助けてくれた金髪の素敵な男性にも問うた。
「警察の方に話して戴けますか?」
「はい。会社に電話を一本入れ、そういたします」
すぐに次の駅に到着し、痴漢と共に、結莉とヒーローの男性もホームに降りた。
警察官は既に待ち構えていた。
金髪の男性は、カジュアルに黒いスーツを着こなしている。カッターシャツは薄桃色でさりげなくおしゃれだ。年齢は30代かな?
(自営業の方なのかしら。それとも、洋服かなにかの店員さんかな……)
こんな大変な時に、そのお兄さんに対して結莉の目はハートになっていた。のんきな女だ。だから人から好かれるのかも知れぬが。
話は駅の事務室で、順番に被害者である結莉・助けたお兄さん・加害者、と個別に訊かれた。
結莉は被害届を出すことに決めたので、先ずは警察へ行く必要がある。
警察官が、3人全員の話を聴き終わってから、結莉は警察へ行くように話された。無論、加害者も連れて行かれるし、参考人としてお兄さんも行く必要がある。
警察官が無線でなにやらしゃべっている音を聴いたり、警察官に囲まれている加害者の横顔を見た瞬間、先ほどまで感じ得なかったじわじわと真綿で首を絞められるような恐怖が結莉を襲い始めた。
その様子に警察官より先に気づいた、金髪男性は「大丈夫ですか?!」と即座に結莉に声をかけた。
「え、ええ」
返事はしたものの、こらえきれず涙が出てきた。
警察官が「園河さん、捜査のため、なるべく早い聞き取りが望ましいです。しかし体調がお辛いようでしたらどうぞご無理はなさらず、日程調整をしましょう。どうされますか」と訊いて来た。
結莉は、先延ばしになるほうが悪いことが起こりそうだという、なにか迷信じみた恐ろしさを感じ「いえ、これから警察へ行きます」と答えた。
結莉や警察官から少し離れた場所で金髪男性が電話を掛けていた。おそらく仕事を休むか遅れる、と職場へ伝えたのであろう。
先に加害者は別の警察官に連れて行かれた。
「どうされますか? 園河さん、戸川さん、加害者とは別のパトカーがあります。お嫌でなければ署までお連れいたしますが……」
(戸川さんって言うんだ~)
非常事態にまたまた結莉の抜け作な所が顔を出す。
しかし、もちろん警察官には即答した。
「はい、わたし、はっきりさせなきゃ不安なのでこれから警察へ連れて行って下さい」
金髪の紳士も「先ほど会社に事情を話したので、僕もパトカーに乗せてもらっても良いですか」と答えた。
結莉と、戸川という助けてくれた男性はパトカーの後部座席に乗り込み警察署へ向かった。
緊張と、やはり、痴漢に遭った波のように押し寄せて来る怖さで結莉は泣きそうだ。
戸川は結莉のその気配を感じ取ったのだろうか、さらに神妙で苦しげな表情をし、結莉の隣に座っていた。
警察に到着し、再び1人ずつの事情聴取。
すっかり警察を出る頃にはもう、結莉はくたびれ果てていた。
(今日は精神科へ行くの、やめよう。お薬はもう少しあるし、明日にでも行こう……)
警察から最寄り駅までは歩いて10分ぐらいで助かった。
玄関を出、伸びをしつつ外の空気を「うーん」と吸い込んだ結莉。さっきまで窮屈な部屋で警察官と話をしていたので、余計に空の美しさが清々しく気持ち良い。
それにしても、さっきの今で……電車が怖い結莉。
(痴漢、怖いな……!)
空を仰いでいた結莉の顔は次第に下を向いた。
(でも、電車に乗らなきゃ帰れない。これからもクリニックへは通うわけだし、タクシーなんてお金が持たない)
「お疲れさまです。大丈夫ですか」
結莉のもとへ、戸川がやって来た。助けてくれたイケメンだ。
そして彼は付け加えた。
「私は戸川羽矢斗と申します」
胸ポケットから名刺を差し出した戸川。
両手で受け取る結莉。
社名にキョトンとする結莉。『株式会社うちわ金魚』
(ン?)
「可愛いお名前の会社ですね!」
さっきまで曇り空だった結莉の表情が日向のように笑顔になった。
「ああ、ありがとうございます。社員5名の小さな広告代理店です。僕はここでWEBデザイナーをしています」
「そうなんですね。……本当に、今日はありがとうございました」
結莉は真顔でペコリとお辞儀をした。艶やかなポニーテールも一緒に垂れた。
「いえ! 当たり前なことをしたまでです。全く、ああいう輩は赦せませんね」
戸川は苦々しい表情となった。
「はい……。わたし、また電車に乗らなきゃいけません、帰るために。トラウマになってしまいました、どうしよう」
優しい戸川の声掛けに、素直な自分が出てしまう結莉。眉間にしわが寄り、涙目だ。
「あの、もし差し支えなければ園河さんのお家の最寄り駅まで、電車でご一緒いたしましょうか? 初対面の女性に対してぶしつけと言いますか、怪しまれるかもしれませんが、園河さんは脅えられて当然です。僕で良かったら力になりたいです」
結莉は彼から発せられる誠実な言動と優しさにボロボロ涙をこぼした。
「ありがとうございます。本当に厚かましいお願いですが、甘えさせてください」
娘の皐月に迎えに来てもらおうにも、まだ帰宅していない時間帯だろうし、わが子にこの狼狽を見せるのは忍びない気分だった。
「わかりました。では駅へ向かいましょう、園河さん」
「はい。あ、わたしは園河結莉と申します。この街の駅からですと40分ぐらい、3つ目の駅になります」
「そうですか。お名前を教えてくださりありがとう。結莉さん、素敵なお名前ですね!」
全く下心を感じさせない、朗らかな物言いで結莉は嬉しくなった。……超カッコいい男性だし、それに名前まで教えてくださった。
(戸川さんは、大らかな雰囲気でセクシーさがある。線の細い感じじゃなく、獣っぽい男性という感じ。あたし、好きになっちゃいそう……)
そう、彼は結莉にとってドストライクだったわけだ。
二人は住宅街を歩いた。
「あの、戸川さん、お仕事……大丈夫なのですか?」
道々二人は、ポツリポツリと話をした。
「ああ、事情を伝え、今日は休むと電話をしました。大丈夫です」
「そうですか。わたしのために本当にすみません」
「いいえ、園河さん、なにも謝ることはありません。お気になさらないで! ね」
なんだかホッとする。結莉は戸川のことを赤の他人とは思えない気がした。赤の他人なのにね。
「あ! 越前水仙だっ」
心リラックスし、よその庭先のお花に目が行った結莉。
「ン。どれ?」と戸川が尋ねる。
「あそこ。固まってお星様みたいな形の白い花が咲いているでしょう?」
「ああ、越前水仙、ですか」
「はい。冬のお花です。とても濃厚な甘い香りがするんですよ」
「へ~。園河さん、お花が好きでいらっしゃるんですね」
「ええ」
結莉の微笑んだ横顔を戸川がドキドキした表情で見つめていることに、結莉は気づかなかった。
駅に着き電車に乗る。
朝ほどではないが、沢山の人が乗っている。1つだけ座席が空いていた。
「座って」
即、結莉に譲る戸川。
(あ、戸川さんって優しい……)
彼が居てくれたおかげで結莉は、安心して電車に乗って居られた。
車窓から外を眺める戸川は、凄くナチュラルな雰囲気……それでいて色っぽい。
結莉は座席からチラチラ見上げていたのだ。
そうこうしていると、あっと言う間に結莉の家の最寄り駅に着いた。
「僕は、まだ先の駅です。お気をつけて!」
「本当にありがとうございました……。では失礼します」
結莉はペコリと頭を垂れお礼をし、電車を降りた。
なんだか……戸川さんと別れることに名残り惜しさを感じちゃった結莉である。
彼を乗せた電車はやがて発車し、ホームから去って行った。
駅からの帰り道、素敵な戸川さんへのときめきと……(今後電車に乗るの、怖いな)という思いが結莉の中で交錯した。どちらかと言えば電車に乗ることへの不安感が勝つ。
帰宅すると娘の皐月が学校から帰って来ていた。
「ママ、おかえり~」
「ただいま、皐月」
「あれ、ママ……なんか元気ないよ? なにかあったの? 大丈夫?」
部屋着に着替えている皐月。時計を見るともう15時だった。
(警察での時間が長かったもんな)
結莉は、自分の心細さもだが、可愛い娘にも今回のようなことが万が一あったら……と思い、話そうと決めた。
「うん。皐月、話したいことがあるの。今、良い?」
皐月はバリボリ食べていたスナック菓子をテーブルに置き、手を洗いつつ「うん、もちろん良いよ」と答えた。
リビングのソファーで向かい合わせに腰かける親子。
自分もだが、こんな話を聴かせるのは皐月が可哀相だ、と思いながらも意を決した結莉。



