今年は異常気象だ。
まだ初夏とも言えない季節に、灼熱の太陽が連日顔を出している。
大して興味のないニュースでは、毎日のようにいい加減な天気予報が言い渡され、人々を翻弄していく。
「暑い……」
じっとりとした汗を漆黒のハンカチで拭いながら、彼女はその言葉を口にしたことを、心底後悔した。
本当ならばいらないのだが、人間という設定上、ランチには食事を摂らればならない。
今日は、厚い雲に覆われているからと気を許し、外出したのが裏目に出てしまった。
「もう……早く冬になってよ…」
そんな無茶苦茶な願いを吐いてみるが、叶うはずはない。
彼女は早くも焦げ付いてしまいそうな肌を隠しつつ、急ぎ足で近場の洋食店に入り込んだ。
軽快なラテンを思わせる音楽の流れる店内。
…それは、彼女とはとても似つかわしくない音楽だ、と本人も嫌と言う程分かっている。
それでも、"人間らしいランチ"をする為に、彼女は案内されるがまま窓辺の二人がけの席に座った。
不機嫌な表情にならないよう、それでも…あくまでも地味に店内の人々の間に溶け込む。
ウエイトレスが水滴のしたたるコップに入った水をテーブルに運び、張り付いたマンネリな笑みと共に同じくマンネリな台詞を口にする。
「お決まりになりまりましたら、ボタンでお呼びくだ〜い」
そのなんとも間延びした口ぶりに、ふぅっと息を吐いて彼女は、ニュースと同じく然程興味のないメニューを開いてから肩肘をついた。
さて…何を食べるか…。
ペラペラと、ただ品数の多いだけの(人間的に言えば、品数豊富と言うべきなのだろうが)ページを捲っていく。
そこに、目にも鮮やかなドリンクが視界に入った。
この前まで、こんなメニューがあっただろうか?と思い、しみじみとそのページを見ると端の方に『今年も入りました!』という吹き出しが出ていた。
「ブラッドオレンジ、ジュース……」
確かに血のしたたるような色に似ている気がする。
ごくり…
自然と喉が鳴った。
味も"気"も全く異なるが、今日はこれを飲み干して少しでも喉を潤した気分に浸ろう…。
彼女はそう思い付き、先程言われたように呼び付けのボタンを押した。
ぴんぽん
これまた間抜けた音。
それと一緒にまた同じウエイトレスが現れた。
「これを…」
「ブラッドオレンジですね〜。少々お待ち下さぁい」
全く緊張感のない応答に、半ば呆れつつそのまま窓から流れる景色を見ることにする。
すると、自分と向き合う形で男性が着席した。
この暑さに耐え切れず会社側から早々にお達しのあったクールビズ。
それをきっちり守っている、その人は…紛れもなくあの時のジュンイチで…。
少し間隔のある距離にいるので、笑みしか見て取れないが嬉しそうに彼女を見つめる瞳には再会できた喜びが滲み出ていた。
そうだ…名前は教えたけれど、その他の情報は何1つ話さなかったではないか。
そこで初めて、本当は自分も再会できたことを心の何処かで嬉しく思っていたのかもしれないと、そう感じた。
彼女はすっかり氷の溶けた水のグラスに少しだけ口をつけて口唇を湿らせた。
そうすることで、なんとなく自分の中に走った緊張感を和らげる為に…。
「お待たせしましたぁー。ブラッドオレンジジュースでーす」
此処にはこのウエイトレスしかいないのか…?と思う程、今日は同じウエイトレスに当たる。
かちゃりと置かれたグラスはメニューに載せられていたものよりも少し大きく、量もそこそこあった。
「ありがとう」
そう返して、ストローの袋をぷち、っと切ってからグラスに差し込む。
喉にダイレクトに当たる感覚は、少しだけ"その気"になれた。
ただ、やはり味の方は予想以上に素っ気なく、名前負けしているな…と落胆する。
まぁ…人の生気に上回る味なんて、この世に存在しないことは重々承知の上での、摂食だから仕方がない。
そんな渋った顔をしている私が可笑しかったのか、向こうの席で、彼が苦笑していた。
それに対してほんの少しむっとすると、ジェスチャーで「ごめん」と返された。
そんなことでは誤魔化されないとばかりに、彼女は彼の顔を見つめた。
そこに、何か言い様のない感情の交差が生まれた気がする。
それでも…彼女にはまだそれがなんなのかを見極めることが出来ずに、下を向いて残りのジュースを飲み干すと、会計を済ませる為に席を立った。
勿論、彼へのお辞儀も忘れずに…。
「まだ、昼休み半分以上あるけど…まぁいいか」
生気で体力を得ること以外では、全く空腹は感じないのだから、ジュース1杯でも十分足りた。
けれど、そんな私の後ろからたったったっとリズムよく走ってくる足音がする。
「夏織ちゃん!待ってっ!」
その声にびくりと肩が揺れた。
まさか、この状況で追い掛けてくるとは思わなかったので、彼女は反射的に足を早めてやって来るのを拒む行動をする。
それでも、彼の腹が立つ程長い足は、私の歩調にすぐに追い付いてしまった。
「相変わらず歩くの早いなぁ…ってはい、これ」
「……コレ?」
「ん?これはミックスサンド。彼処の店の1番人気なんだって」
なんでもないことのように説明してくるが、彼女には彼の意図が丸きり読めない。
「ほら、さっき店でジュースだけだったでしょ?この暑さにあれだけじゃ負けちゃうかなーって」
何処まで人の観察をしていたんだか…彼女は彼の行動にくすりと苦笑すると、返事をする。
「食欲なかったから……でも、ありがとう…ございます」
なんとなく敬語になってしまったのは、会社のお偉いさんだと認知したからだろうか。
でも、彼はお構いなしにそのサンドウィッチが入った袋を、私に手渡してくる。
「夏織ちゃん、細いんだからもっと食べないとね」
「…それ、立派なセクハラ発言ですけどね」
「えー…本当のことなのになぁ…」
なんとなく、彼のペースに嵌っていく自分に彼女は戸惑った。
こんな気持ちになったのは、初めてだ。
いつもいつも、敵か味方かの2択しかなかったのに…。
でも…。
油断は禁物だ。
この人には、何か重大なことが隠されている気がしてならない。
「川瀬常務…」
「ジュンイチでいいよ」
「でも…それは」
「だって、俺は今更君を間宮さん呼びするつもりさらさらないしね」
まるで、悪戯好きの子供のような発言に、彼女はくらくらと目眩がした。
地味ーなOLを一貫して貫い抜いてきた私に、会社の、それも皆が騒ぐほどのイケメン上司が突然「夏織ちゃん!」なんてフランクにして来たら……どうなるか、それはどうでもいいけれど、その前に色々面倒くさいに決まっているじゃないか。
彼女は、暫く考える。
そして、諦めて声で「二人きりの時なら許す」と条件付きで承諾した。
不思議な空間を作り出すヒト。
それは、第一印象から変わっていない。
でも、いつも思うのだ。
彼の笑みの裏側には何かあるのではないかと。
何処か妖艶で、それでも爽やかさを醸し出す二面のオーラ。
彼女は、彼のほんのりと茶色掛かった瞳をじっと見つめてみる。
すると、彼ははにかんだ様子で頭を掻いた。
「夏織ちゃんて、いつもそう?」
「え…?」
「人を射抜くような目で見つめられると、ドキッとする」
なんだ…と彼女はその言葉に対して落胆する。
自分がどういう言葉を与えて欲しかったのかは、漠然としていたけれど、その瞬間彼女の彼への興味は完全に失せた。
所詮は、人間。
此方側の欲する台詞なんてそう容易く出てくるわけが無い。
もしかして…と期待をした自分が馬鹿馬鹿しくなり、彼女はぺこりと頭を下げる。
「あの…ジュン、イチ?もう昼休みも終わりそうだから」
社に戻る、と言いたくてもう一度彼の瞳を見つめて、今度は彼女がドキッとする番だった…。
…片目が緩く…紺碧に染まって、いる?
まさか……。
「あ、そうだね!じゃあ戻ろうか…ん?大丈夫?夏織ちゃん?」
「え…あ…うん。大丈夫…」
そっと、肩に手を回され、ビクリと反応してしまった。
紺碧の瞳は…ハンターの証…。
勿論、今見たのは、何かが反射しただけの偶然かもしれない。
けれど…やっぱり…油断は出来ない、そう彼女は口唇をキュッと結んだ。
その日を境に、何かと理由を付けては彼は彼女の元へとやって来るようになった。
お陰で、社内では一目置かれる程の存在になってしまっている。
『川瀬常務と間宮さんって一体どんな関係なのー?』
『何もあんな地味な人相手にすることないのにねー?』
『あ、可哀想とか思われてるんじゃない?』
『やーだー。それ間宮さんに失礼よー』
部署から遠く離れた給湯室で、人の事をなんだかんだと言っている彼の取り巻き…というよりただの好奇心の塊共に何を言うつもりは無いけれど…。
キャーキャーピーピー、まるで朝を告げる憎き小鳥のさえずりが、壊れたスピーカーから聴こえてくるようなうんざりする耳障りな声が、無性に彼女の気持ちを掻き乱す。
「夏織ちゃん…今日は元気ないね?」
「…っ!そんなこと、ない…」
あまりにも周囲の視線が突き刺さり、痛いくらいの雑音を遮断することに集中していたら、彼が不意に彼女の顔をぐいっと覗き込んできた。
その突然の至近距離に、彼女の鼓動が跳ねた。
……熱を持たないはずの、鼓動が。
「ジュンイチ…そんなことより…今日は何…?」
「いや…ただ顔が見たくなったんだ。実は会議が立て込んでるんだけど…夏織ちゃんの顔を見てパワーチャージしようかなって」
「ふぅん…」
毎日毎日、よくもまぁ飽きずに会いに来れるな…と思う。
そして、本当に常務としての仕事を全うしているのかさえも疑問だった。
「もういいでしょう?さっさと仕事に戻って…」
彼女は冷たく言い放つ。
けれど、その言葉に棘はない。
何故なら、こんなやり取りはずっと変わらないからだ。
「相変わらずつれないなぁ…でも、そういう夏織ちゃんが俺は好きだよ」
「……!」
何事も不意打ちされれば、誰だって驚く。
それは私だって同じだ。
「ははっ、赤くなってる。可愛いね」
「…っ!早く仕事に戻って!」
「はいはい…じゃあ、またね。夏織ちゃん」
どうも彼と関わると調子が狂う。
薄っぺらい氷の上で、ダンスをするような危機感と、それと背中合わせの陶酔感。
彼女は瞳をそっと閉じて深呼吸をした。
それは、深海よりも濃い呼吸。
刹那…の間だけれど、その時だけ周りの全てのものが時間を失くしたように無に帰る。
川瀬准一…基、ジュンイチは…本当にしつこいくらい彼女に執着を示していた。
彼女は疑問を抱くようになる。
あの夜彼と出逢ったことは、もしかしたら宿命だったのだろうか…とさえ思う程で、気付けば彼女の視線はいつも彼の姿を追うようになっていった。
…この不思議な距離感は、危うい。
彼女はそう思うも、彼の姿を視界から外す事が出来なかった…。
そんな自分にはぁ…っと短い溜息を吐きながら、パソコンを打ち込む指に力を込めて、彼女は残りの仕事を早々に片付けると、そそくさとタイムカードを押して会社を出る。
今夜は新月…。
闇に溶け込むには丁度いい。
そろそろ体力も落ちてきたことだし、霧と化して夜の波に飲み込まれよう。
彼女は、瞳を細めて誰に向けるでもなく、ひっそりと笑みを浮かべた。
まだ初夏とも言えない季節に、灼熱の太陽が連日顔を出している。
大して興味のないニュースでは、毎日のようにいい加減な天気予報が言い渡され、人々を翻弄していく。
「暑い……」
じっとりとした汗を漆黒のハンカチで拭いながら、彼女はその言葉を口にしたことを、心底後悔した。
本当ならばいらないのだが、人間という設定上、ランチには食事を摂らればならない。
今日は、厚い雲に覆われているからと気を許し、外出したのが裏目に出てしまった。
「もう……早く冬になってよ…」
そんな無茶苦茶な願いを吐いてみるが、叶うはずはない。
彼女は早くも焦げ付いてしまいそうな肌を隠しつつ、急ぎ足で近場の洋食店に入り込んだ。
軽快なラテンを思わせる音楽の流れる店内。
…それは、彼女とはとても似つかわしくない音楽だ、と本人も嫌と言う程分かっている。
それでも、"人間らしいランチ"をする為に、彼女は案内されるがまま窓辺の二人がけの席に座った。
不機嫌な表情にならないよう、それでも…あくまでも地味に店内の人々の間に溶け込む。
ウエイトレスが水滴のしたたるコップに入った水をテーブルに運び、張り付いたマンネリな笑みと共に同じくマンネリな台詞を口にする。
「お決まりになりまりましたら、ボタンでお呼びくだ〜い」
そのなんとも間延びした口ぶりに、ふぅっと息を吐いて彼女は、ニュースと同じく然程興味のないメニューを開いてから肩肘をついた。
さて…何を食べるか…。
ペラペラと、ただ品数の多いだけの(人間的に言えば、品数豊富と言うべきなのだろうが)ページを捲っていく。
そこに、目にも鮮やかなドリンクが視界に入った。
この前まで、こんなメニューがあっただろうか?と思い、しみじみとそのページを見ると端の方に『今年も入りました!』という吹き出しが出ていた。
「ブラッドオレンジ、ジュース……」
確かに血のしたたるような色に似ている気がする。
ごくり…
自然と喉が鳴った。
味も"気"も全く異なるが、今日はこれを飲み干して少しでも喉を潤した気分に浸ろう…。
彼女はそう思い付き、先程言われたように呼び付けのボタンを押した。
ぴんぽん
これまた間抜けた音。
それと一緒にまた同じウエイトレスが現れた。
「これを…」
「ブラッドオレンジですね〜。少々お待ち下さぁい」
全く緊張感のない応答に、半ば呆れつつそのまま窓から流れる景色を見ることにする。
すると、自分と向き合う形で男性が着席した。
この暑さに耐え切れず会社側から早々にお達しのあったクールビズ。
それをきっちり守っている、その人は…紛れもなくあの時のジュンイチで…。
少し間隔のある距離にいるので、笑みしか見て取れないが嬉しそうに彼女を見つめる瞳には再会できた喜びが滲み出ていた。
そうだ…名前は教えたけれど、その他の情報は何1つ話さなかったではないか。
そこで初めて、本当は自分も再会できたことを心の何処かで嬉しく思っていたのかもしれないと、そう感じた。
彼女はすっかり氷の溶けた水のグラスに少しだけ口をつけて口唇を湿らせた。
そうすることで、なんとなく自分の中に走った緊張感を和らげる為に…。
「お待たせしましたぁー。ブラッドオレンジジュースでーす」
此処にはこのウエイトレスしかいないのか…?と思う程、今日は同じウエイトレスに当たる。
かちゃりと置かれたグラスはメニューに載せられていたものよりも少し大きく、量もそこそこあった。
「ありがとう」
そう返して、ストローの袋をぷち、っと切ってからグラスに差し込む。
喉にダイレクトに当たる感覚は、少しだけ"その気"になれた。
ただ、やはり味の方は予想以上に素っ気なく、名前負けしているな…と落胆する。
まぁ…人の生気に上回る味なんて、この世に存在しないことは重々承知の上での、摂食だから仕方がない。
そんな渋った顔をしている私が可笑しかったのか、向こうの席で、彼が苦笑していた。
それに対してほんの少しむっとすると、ジェスチャーで「ごめん」と返された。
そんなことでは誤魔化されないとばかりに、彼女は彼の顔を見つめた。
そこに、何か言い様のない感情の交差が生まれた気がする。
それでも…彼女にはまだそれがなんなのかを見極めることが出来ずに、下を向いて残りのジュースを飲み干すと、会計を済ませる為に席を立った。
勿論、彼へのお辞儀も忘れずに…。
「まだ、昼休み半分以上あるけど…まぁいいか」
生気で体力を得ること以外では、全く空腹は感じないのだから、ジュース1杯でも十分足りた。
けれど、そんな私の後ろからたったったっとリズムよく走ってくる足音がする。
「夏織ちゃん!待ってっ!」
その声にびくりと肩が揺れた。
まさか、この状況で追い掛けてくるとは思わなかったので、彼女は反射的に足を早めてやって来るのを拒む行動をする。
それでも、彼の腹が立つ程長い足は、私の歩調にすぐに追い付いてしまった。
「相変わらず歩くの早いなぁ…ってはい、これ」
「……コレ?」
「ん?これはミックスサンド。彼処の店の1番人気なんだって」
なんでもないことのように説明してくるが、彼女には彼の意図が丸きり読めない。
「ほら、さっき店でジュースだけだったでしょ?この暑さにあれだけじゃ負けちゃうかなーって」
何処まで人の観察をしていたんだか…彼女は彼の行動にくすりと苦笑すると、返事をする。
「食欲なかったから……でも、ありがとう…ございます」
なんとなく敬語になってしまったのは、会社のお偉いさんだと認知したからだろうか。
でも、彼はお構いなしにそのサンドウィッチが入った袋を、私に手渡してくる。
「夏織ちゃん、細いんだからもっと食べないとね」
「…それ、立派なセクハラ発言ですけどね」
「えー…本当のことなのになぁ…」
なんとなく、彼のペースに嵌っていく自分に彼女は戸惑った。
こんな気持ちになったのは、初めてだ。
いつもいつも、敵か味方かの2択しかなかったのに…。
でも…。
油断は禁物だ。
この人には、何か重大なことが隠されている気がしてならない。
「川瀬常務…」
「ジュンイチでいいよ」
「でも…それは」
「だって、俺は今更君を間宮さん呼びするつもりさらさらないしね」
まるで、悪戯好きの子供のような発言に、彼女はくらくらと目眩がした。
地味ーなOLを一貫して貫い抜いてきた私に、会社の、それも皆が騒ぐほどのイケメン上司が突然「夏織ちゃん!」なんてフランクにして来たら……どうなるか、それはどうでもいいけれど、その前に色々面倒くさいに決まっているじゃないか。
彼女は、暫く考える。
そして、諦めて声で「二人きりの時なら許す」と条件付きで承諾した。
不思議な空間を作り出すヒト。
それは、第一印象から変わっていない。
でも、いつも思うのだ。
彼の笑みの裏側には何かあるのではないかと。
何処か妖艶で、それでも爽やかさを醸し出す二面のオーラ。
彼女は、彼のほんのりと茶色掛かった瞳をじっと見つめてみる。
すると、彼ははにかんだ様子で頭を掻いた。
「夏織ちゃんて、いつもそう?」
「え…?」
「人を射抜くような目で見つめられると、ドキッとする」
なんだ…と彼女はその言葉に対して落胆する。
自分がどういう言葉を与えて欲しかったのかは、漠然としていたけれど、その瞬間彼女の彼への興味は完全に失せた。
所詮は、人間。
此方側の欲する台詞なんてそう容易く出てくるわけが無い。
もしかして…と期待をした自分が馬鹿馬鹿しくなり、彼女はぺこりと頭を下げる。
「あの…ジュン、イチ?もう昼休みも終わりそうだから」
社に戻る、と言いたくてもう一度彼の瞳を見つめて、今度は彼女がドキッとする番だった…。
…片目が緩く…紺碧に染まって、いる?
まさか……。
「あ、そうだね!じゃあ戻ろうか…ん?大丈夫?夏織ちゃん?」
「え…あ…うん。大丈夫…」
そっと、肩に手を回され、ビクリと反応してしまった。
紺碧の瞳は…ハンターの証…。
勿論、今見たのは、何かが反射しただけの偶然かもしれない。
けれど…やっぱり…油断は出来ない、そう彼女は口唇をキュッと結んだ。
その日を境に、何かと理由を付けては彼は彼女の元へとやって来るようになった。
お陰で、社内では一目置かれる程の存在になってしまっている。
『川瀬常務と間宮さんって一体どんな関係なのー?』
『何もあんな地味な人相手にすることないのにねー?』
『あ、可哀想とか思われてるんじゃない?』
『やーだー。それ間宮さんに失礼よー』
部署から遠く離れた給湯室で、人の事をなんだかんだと言っている彼の取り巻き…というよりただの好奇心の塊共に何を言うつもりは無いけれど…。
キャーキャーピーピー、まるで朝を告げる憎き小鳥のさえずりが、壊れたスピーカーから聴こえてくるようなうんざりする耳障りな声が、無性に彼女の気持ちを掻き乱す。
「夏織ちゃん…今日は元気ないね?」
「…っ!そんなこと、ない…」
あまりにも周囲の視線が突き刺さり、痛いくらいの雑音を遮断することに集中していたら、彼が不意に彼女の顔をぐいっと覗き込んできた。
その突然の至近距離に、彼女の鼓動が跳ねた。
……熱を持たないはずの、鼓動が。
「ジュンイチ…そんなことより…今日は何…?」
「いや…ただ顔が見たくなったんだ。実は会議が立て込んでるんだけど…夏織ちゃんの顔を見てパワーチャージしようかなって」
「ふぅん…」
毎日毎日、よくもまぁ飽きずに会いに来れるな…と思う。
そして、本当に常務としての仕事を全うしているのかさえも疑問だった。
「もういいでしょう?さっさと仕事に戻って…」
彼女は冷たく言い放つ。
けれど、その言葉に棘はない。
何故なら、こんなやり取りはずっと変わらないからだ。
「相変わらずつれないなぁ…でも、そういう夏織ちゃんが俺は好きだよ」
「……!」
何事も不意打ちされれば、誰だって驚く。
それは私だって同じだ。
「ははっ、赤くなってる。可愛いね」
「…っ!早く仕事に戻って!」
「はいはい…じゃあ、またね。夏織ちゃん」
どうも彼と関わると調子が狂う。
薄っぺらい氷の上で、ダンスをするような危機感と、それと背中合わせの陶酔感。
彼女は瞳をそっと閉じて深呼吸をした。
それは、深海よりも濃い呼吸。
刹那…の間だけれど、その時だけ周りの全てのものが時間を失くしたように無に帰る。
川瀬准一…基、ジュンイチは…本当にしつこいくらい彼女に執着を示していた。
彼女は疑問を抱くようになる。
あの夜彼と出逢ったことは、もしかしたら宿命だったのだろうか…とさえ思う程で、気付けば彼女の視線はいつも彼の姿を追うようになっていった。
…この不思議な距離感は、危うい。
彼女はそう思うも、彼の姿を視界から外す事が出来なかった…。
そんな自分にはぁ…っと短い溜息を吐きながら、パソコンを打ち込む指に力を込めて、彼女は残りの仕事を早々に片付けると、そそくさとタイムカードを押して会社を出る。
今夜は新月…。
闇に溶け込むには丁度いい。
そろそろ体力も落ちてきたことだし、霧と化して夜の波に飲み込まれよう。
彼女は、瞳を細めて誰に向けるでもなく、ひっそりと笑みを浮かべた。



