さわさわと、夜の生温かい風が身に纏わり付く。
こんな中途半端な季節は本当に苦手だ。
午前中降りしきっていた雨のせいで、地面は泥濘んでいるし…何よりなんとも言えない生き物の匂いが、気分を害した。
誰しも自分以外の匂いには敏感になるし、どちらかと言えば第一印象はそんなに良くないものだろう。
だから、彼女…間宮夏織(まみやかおる)は、告別式の帰りかと思う程の真っ黒なスーツと高めのパンプスに身を包み、眉間にシワを寄せながら薄暗い道を歩いていた。
いや。
歩いて見えるが、その背中には漆黒の翼が見え隠れするのだ。
しかも、片翼のみの……。
だから、普通に歩いているように見えても、少しだけ不自然なのである。
「はぁ…暑い…喉渇いたなぁ…」
誰に言う訳でもなく呟いた言葉に、彼女は心の底から自嘲の笑みを零した。
この喉は、何を飲んでも満たされない。
たとえ、それが聖水であったとしても、自分の喉にはどんな影響も及ぼさないのだ。
滴る純血が欲しい…。
そう思い夜な夜な霧に包まれ彷徨った事もあったけれど…それでも渇き行く全身は、ベッタリと張り付くような闇を払拭すらできなかった。
「いっそのこと太陽の光でこの身が滅びても構わないのに…」
そうまたぽつりと呟いて、彼女は暗がりの闇に溶け込んだ。
彷徨えば彷徨うほど、喉の奥がヒリヒリするように灼けていく。
闇は果てなく重くて、全身が麻痺するほど淀めいている。
いつからだろうか…こんな風な世界に佇むようになったのは?
少し前までは、なんの躊躇もなく夜を舞った。
新月の夜に誰かの生気(想い)を求め続けた。
なのに…。
今は呼吸もままならぬほど、時間が惜しい。
恋しくて、愛しくて…堪らない。
いっそ時計を止めてしまいたいくらいに…。
彼…ジュンイチとの出逢いは容易い。
夜な夜な闇を彷徨っていて、生気の力が足らなくなり公園のベンチで1人ぐったりしている所に声を掛けられた。
「大丈夫ですか?」
耳に入り込んできた、凛とした声が冷えたココロをどうしようもなく掻き乱した。
本能が叫ぶ。
コノ人二近ヅイテハナラナイ…。
それなのに、私はその叫びを無視して、彼の胸に飛び込み意識を失った。
気が付いた時、彼女は低く少しだけ茶色く焼けた天井を見上げていた。
一瞬…彼女は自分がどんな状況にいるのか把握出来ない…。
「……、此処は?」
「…あ。起きた?身体はどう?」
掠れた呟きに対してすぐに反応があり、彼女は無意識にガバッと起き上がり、ザッと声の主を見やった。
敵か味方か…。
彼女にはそれしか選択肢がない。
何時だってそうだ。
彼女には孤独しか寄り付かない。
それなのに、そんな態度を取った彼女に対して彼はにこにこと微笑んで温かいコーヒーを勧めてくる。
「はは、安心して襲ったりしてないから。ただあのままにしてたら本当にヤバいことになるかもしれないなって思って、此処…あ、俺の部屋に連れてきたんだよ…」
そんな彼の言葉一つ一つに、彼女は黙って頷く。
けれど、彼女の視線は彼の瞳の奥一点を射抜くように見つめていた。
敵か味方か…。
まだ、安心は出来ない。
何故ならば…キツくこびり付く本能が彼との接触を避けようとしているからだ。
「俺はジュンイチって言うんだけど、…君の名前は?」
「夏織………間宮夏織…」
「夏織ちゃんか…見た感じ俺より年下だよね?」
にこにこ
その笑顔に敵意は見当たらない。
彼女はそこで初めて、一呼吸置いてから自分の名前を告げた。
ただ、彼のその問いに彼女は心の中で苦笑いをする。
そんなに自分は"まだ"若く見えるのだろうか。
確かにこの呪われし身体は、永遠に朽ちはしない。
それは、自分が意思を持った時から約束さており、もう原因が何なのかさえ忘れてしまうくらい、果てしなく遠い日のことだった。
差し出させたコーヒーカップを手に取ると、じんわりとした温もりが冷え切っていた両手に伝わってくる。
きっと、あの場所で彼に逢わなければ…自分は他の誰かの生気を求め、ひたすらに彷徨っただろう。
それがもしも、這ってでも…生き延びる為にはそれしか術がないのだから…。
生き延びる…?
彼女は、その言葉に引っ掛かった。
何を求めて命乞いをしたいと言うのか、自分は?
全てをこの手にすることは出来ないと、既に知り過ぎているというのに、自分はこれ以上何を欲するのか……。
「夏織ちゃん…?」
「…え…?」
「随分と顔色悪いけど…大丈夫?」
ふわり…。
その言葉と共に降りてきた彼の手を咄嗟に拒絶出来なかったのは、どうしてだろうか。
彼女は、霧のような闇に溶け込みながら、また自嘲にも似た笑みを口元にだけ残した。
彼と自分では、天と地程の違いがある。
だから、危険なのだ。
けして、近寄ってはいけない。
これ以上…。
それなのに、再会はすぐにやってきてしまった。
彼女の仮の姿は地味過ぎるOL、だ。
なるべく目立たないように。
それをいつも徹底していた。
そんな彼女のことを、人が陰でなんと言っているのか、そんなことはこれっぽっちも気にならなかった。
なのに…。
その日は、何かが違った。
「お疲れ様です…」
ボソボソと聞こえるかどうか分からないくらいの声で呟き、自分の席につくと、なんとなく周りの空気が熱っぽいことに気付く。
それは、彼女の中では…とても忌み嫌うような熱量だった。
おかしい…。
彼女は、一斉に向けられた社員たちの視線の先へと、ほんの少しだけ首を傾けた。
そんなことをしなくても、彼女の聴覚と嗅覚を持ってすれば、その先に誰がいるのか…。
そんなことは、容易く分かったはずなのに。
ちらり
「川瀬常務!おはようございます!」
黄色い耳障りな声が頭に響く。
その『川瀬』と呼ばれた男は、彼女を視界に捕らえると、にっこりと微笑んでその場を去っていった。
あぁ…。
こんなことってあるのだろうか…。
今見掛けた男は、あの晩自分を助けた彼ではないか。
しかし、今までこの会社に彼の気配を感じたことはなかったはずだ。
これは一体どういうことだろう。
「あぁ…厄日だ…」
彼女は書類倉庫でぼそっと呟いた。
何か、背筋にぞわぞわした感覚が走っている。
彼女はその正体がなんなのか、なんとなくだが思い当たっていて、それがとても腹立たしく感じていた。
あの日…ジュンイチの手の平から、ほんの少しだけ…無断ではあるけれど、譲って貰った生気は今まで吸ったどんなものよりも極上なものだった。
欲シイ…。
モットモットモット…。
そう思った彼女は、彼に襲い掛かろうとして寸ででなんとかやり過ごした。
【彼女達】の世界にも、規律があるのだ。
生気を吸う時には、相手の合意が必ず必要だと。
そして、その合意は…けして相手から強引に引き出してはならないと…。
ジュンイチは、終始優しかった。
きっと、人間の本能であっても、彼女の異様な気配を感じ取ったはずなのに…。
「夏織ちゃん、家まで送るよ」
「もう大丈夫…それより…貴方こそ大丈夫?此処…本当は貴方の部屋じゃないでしょう?」
彼の部屋だと言われた割に、彼の匂いが染み付いていないこの部屋が不思議でならない。
だから、彼女は思わずそう言ってから、口を噤んだ。
しまった。
これでは、自分の底知れぬ能力を曝してしまうようなものじゃないか…。
ほんの少しだけ、流れる沈黙が彼女の冷たい鼓動を動かす。
それでも、彼はそんな彼女に向けてにこやかに微笑んで、そのまま見つめてくる。
「大丈夫だよ?此処は俺の"隠れ家"だから…」
意味深な言い回しに、何かが引っ掛かったけれど…これ以上彼に関わることは得策ではないと思い直し、彼女は飲み干してすっかり熱を失ったカップをローテーブルにかちゃりと置いた。
「ありがとう…助けてくれて。それとご馳走様、コーヒー…美味しかった」
彼女は立ち上がると、少しだけふらつく足に動け、と心の中で命令して玄関へと続く短い廊下を歩いた。
「まだ本調子じゃないみたいだけど…」
「家族が待っているから…」
後ろからついてくる彼に対して、小さな嘘を吐いた。
家族なんてものは、存在しない。
彼女には、孤独しか集まらないのだ。
それは、闇を纏う者として生まれた、彼女の呪われし運命。
それでも…こうして嘘を吐いてしまうと、心の中で何かがざわめく。
「そっか。なら、これ以上…心配も詮索もしないよ。夏織ちゃんにも色々と事情があるみたいだしね」
そう言って、彼は目を細めて笑った。
彼の部屋を出てから、彼女は暫くふらふらと暗い路地を彷徨った。
彼の部屋が見えなくなるまで…彼の気配が消えて行くまで…。
そうして、彼女は漸く本来の姿に戻る。
…と言っても、今夜は湿った空気に溶け込む霧だったのだけれど。
そこまで記憶を辿ってから、彼女ははぁーっと深い溜め息を吐く。
なんでまた、再会したくない相手と、しかもこんな昼間に出逢わなくてはならないのか…。
「本当に、厄日だ…」
彼女はもう一度そう呟くと、ホコリを被ったいくつかの書類の束をぱんぱんと小さく払って、胸元に抱え込んだ。
確か、常務と呼ばれていた。
だったら、平社員である自分とは関わり合いはないだろう。
さっき、微笑まれたのは何かの間違いか、勘違いだろう。
そこまで自意識過剰だとは思っていなかったが、実はこんな自分にもそんなちょっとした人間っぽさが、いつの間にか芽生えてしまったのなもしれない。
「厄日だ…」
彼女は本日3回目の台詞を零してから、書類倉庫から出た。
『不思議な距離感…』
こんな中途半端な季節は本当に苦手だ。
午前中降りしきっていた雨のせいで、地面は泥濘んでいるし…何よりなんとも言えない生き物の匂いが、気分を害した。
誰しも自分以外の匂いには敏感になるし、どちらかと言えば第一印象はそんなに良くないものだろう。
だから、彼女…間宮夏織(まみやかおる)は、告別式の帰りかと思う程の真っ黒なスーツと高めのパンプスに身を包み、眉間にシワを寄せながら薄暗い道を歩いていた。
いや。
歩いて見えるが、その背中には漆黒の翼が見え隠れするのだ。
しかも、片翼のみの……。
だから、普通に歩いているように見えても、少しだけ不自然なのである。
「はぁ…暑い…喉渇いたなぁ…」
誰に言う訳でもなく呟いた言葉に、彼女は心の底から自嘲の笑みを零した。
この喉は、何を飲んでも満たされない。
たとえ、それが聖水であったとしても、自分の喉にはどんな影響も及ぼさないのだ。
滴る純血が欲しい…。
そう思い夜な夜な霧に包まれ彷徨った事もあったけれど…それでも渇き行く全身は、ベッタリと張り付くような闇を払拭すらできなかった。
「いっそのこと太陽の光でこの身が滅びても構わないのに…」
そうまたぽつりと呟いて、彼女は暗がりの闇に溶け込んだ。
彷徨えば彷徨うほど、喉の奥がヒリヒリするように灼けていく。
闇は果てなく重くて、全身が麻痺するほど淀めいている。
いつからだろうか…こんな風な世界に佇むようになったのは?
少し前までは、なんの躊躇もなく夜を舞った。
新月の夜に誰かの生気(想い)を求め続けた。
なのに…。
今は呼吸もままならぬほど、時間が惜しい。
恋しくて、愛しくて…堪らない。
いっそ時計を止めてしまいたいくらいに…。
彼…ジュンイチとの出逢いは容易い。
夜な夜な闇を彷徨っていて、生気の力が足らなくなり公園のベンチで1人ぐったりしている所に声を掛けられた。
「大丈夫ですか?」
耳に入り込んできた、凛とした声が冷えたココロをどうしようもなく掻き乱した。
本能が叫ぶ。
コノ人二近ヅイテハナラナイ…。
それなのに、私はその叫びを無視して、彼の胸に飛び込み意識を失った。
気が付いた時、彼女は低く少しだけ茶色く焼けた天井を見上げていた。
一瞬…彼女は自分がどんな状況にいるのか把握出来ない…。
「……、此処は?」
「…あ。起きた?身体はどう?」
掠れた呟きに対してすぐに反応があり、彼女は無意識にガバッと起き上がり、ザッと声の主を見やった。
敵か味方か…。
彼女にはそれしか選択肢がない。
何時だってそうだ。
彼女には孤独しか寄り付かない。
それなのに、そんな態度を取った彼女に対して彼はにこにこと微笑んで温かいコーヒーを勧めてくる。
「はは、安心して襲ったりしてないから。ただあのままにしてたら本当にヤバいことになるかもしれないなって思って、此処…あ、俺の部屋に連れてきたんだよ…」
そんな彼の言葉一つ一つに、彼女は黙って頷く。
けれど、彼女の視線は彼の瞳の奥一点を射抜くように見つめていた。
敵か味方か…。
まだ、安心は出来ない。
何故ならば…キツくこびり付く本能が彼との接触を避けようとしているからだ。
「俺はジュンイチって言うんだけど、…君の名前は?」
「夏織………間宮夏織…」
「夏織ちゃんか…見た感じ俺より年下だよね?」
にこにこ
その笑顔に敵意は見当たらない。
彼女はそこで初めて、一呼吸置いてから自分の名前を告げた。
ただ、彼のその問いに彼女は心の中で苦笑いをする。
そんなに自分は"まだ"若く見えるのだろうか。
確かにこの呪われし身体は、永遠に朽ちはしない。
それは、自分が意思を持った時から約束さており、もう原因が何なのかさえ忘れてしまうくらい、果てしなく遠い日のことだった。
差し出させたコーヒーカップを手に取ると、じんわりとした温もりが冷え切っていた両手に伝わってくる。
きっと、あの場所で彼に逢わなければ…自分は他の誰かの生気を求め、ひたすらに彷徨っただろう。
それがもしも、這ってでも…生き延びる為にはそれしか術がないのだから…。
生き延びる…?
彼女は、その言葉に引っ掛かった。
何を求めて命乞いをしたいと言うのか、自分は?
全てをこの手にすることは出来ないと、既に知り過ぎているというのに、自分はこれ以上何を欲するのか……。
「夏織ちゃん…?」
「…え…?」
「随分と顔色悪いけど…大丈夫?」
ふわり…。
その言葉と共に降りてきた彼の手を咄嗟に拒絶出来なかったのは、どうしてだろうか。
彼女は、霧のような闇に溶け込みながら、また自嘲にも似た笑みを口元にだけ残した。
彼と自分では、天と地程の違いがある。
だから、危険なのだ。
けして、近寄ってはいけない。
これ以上…。
それなのに、再会はすぐにやってきてしまった。
彼女の仮の姿は地味過ぎるOL、だ。
なるべく目立たないように。
それをいつも徹底していた。
そんな彼女のことを、人が陰でなんと言っているのか、そんなことはこれっぽっちも気にならなかった。
なのに…。
その日は、何かが違った。
「お疲れ様です…」
ボソボソと聞こえるかどうか分からないくらいの声で呟き、自分の席につくと、なんとなく周りの空気が熱っぽいことに気付く。
それは、彼女の中では…とても忌み嫌うような熱量だった。
おかしい…。
彼女は、一斉に向けられた社員たちの視線の先へと、ほんの少しだけ首を傾けた。
そんなことをしなくても、彼女の聴覚と嗅覚を持ってすれば、その先に誰がいるのか…。
そんなことは、容易く分かったはずなのに。
ちらり
「川瀬常務!おはようございます!」
黄色い耳障りな声が頭に響く。
その『川瀬』と呼ばれた男は、彼女を視界に捕らえると、にっこりと微笑んでその場を去っていった。
あぁ…。
こんなことってあるのだろうか…。
今見掛けた男は、あの晩自分を助けた彼ではないか。
しかし、今までこの会社に彼の気配を感じたことはなかったはずだ。
これは一体どういうことだろう。
「あぁ…厄日だ…」
彼女は書類倉庫でぼそっと呟いた。
何か、背筋にぞわぞわした感覚が走っている。
彼女はその正体がなんなのか、なんとなくだが思い当たっていて、それがとても腹立たしく感じていた。
あの日…ジュンイチの手の平から、ほんの少しだけ…無断ではあるけれど、譲って貰った生気は今まで吸ったどんなものよりも極上なものだった。
欲シイ…。
モットモットモット…。
そう思った彼女は、彼に襲い掛かろうとして寸ででなんとかやり過ごした。
【彼女達】の世界にも、規律があるのだ。
生気を吸う時には、相手の合意が必ず必要だと。
そして、その合意は…けして相手から強引に引き出してはならないと…。
ジュンイチは、終始優しかった。
きっと、人間の本能であっても、彼女の異様な気配を感じ取ったはずなのに…。
「夏織ちゃん、家まで送るよ」
「もう大丈夫…それより…貴方こそ大丈夫?此処…本当は貴方の部屋じゃないでしょう?」
彼の部屋だと言われた割に、彼の匂いが染み付いていないこの部屋が不思議でならない。
だから、彼女は思わずそう言ってから、口を噤んだ。
しまった。
これでは、自分の底知れぬ能力を曝してしまうようなものじゃないか…。
ほんの少しだけ、流れる沈黙が彼女の冷たい鼓動を動かす。
それでも、彼はそんな彼女に向けてにこやかに微笑んで、そのまま見つめてくる。
「大丈夫だよ?此処は俺の"隠れ家"だから…」
意味深な言い回しに、何かが引っ掛かったけれど…これ以上彼に関わることは得策ではないと思い直し、彼女は飲み干してすっかり熱を失ったカップをローテーブルにかちゃりと置いた。
「ありがとう…助けてくれて。それとご馳走様、コーヒー…美味しかった」
彼女は立ち上がると、少しだけふらつく足に動け、と心の中で命令して玄関へと続く短い廊下を歩いた。
「まだ本調子じゃないみたいだけど…」
「家族が待っているから…」
後ろからついてくる彼に対して、小さな嘘を吐いた。
家族なんてものは、存在しない。
彼女には、孤独しか集まらないのだ。
それは、闇を纏う者として生まれた、彼女の呪われし運命。
それでも…こうして嘘を吐いてしまうと、心の中で何かがざわめく。
「そっか。なら、これ以上…心配も詮索もしないよ。夏織ちゃんにも色々と事情があるみたいだしね」
そう言って、彼は目を細めて笑った。
彼の部屋を出てから、彼女は暫くふらふらと暗い路地を彷徨った。
彼の部屋が見えなくなるまで…彼の気配が消えて行くまで…。
そうして、彼女は漸く本来の姿に戻る。
…と言っても、今夜は湿った空気に溶け込む霧だったのだけれど。
そこまで記憶を辿ってから、彼女ははぁーっと深い溜め息を吐く。
なんでまた、再会したくない相手と、しかもこんな昼間に出逢わなくてはならないのか…。
「本当に、厄日だ…」
彼女はもう一度そう呟くと、ホコリを被ったいくつかの書類の束をぱんぱんと小さく払って、胸元に抱え込んだ。
確か、常務と呼ばれていた。
だったら、平社員である自分とは関わり合いはないだろう。
さっき、微笑まれたのは何かの間違いか、勘違いだろう。
そこまで自意識過剰だとは思っていなかったが、実はこんな自分にもそんなちょっとした人間っぽさが、いつの間にか芽生えてしまったのなもしれない。
「厄日だ…」
彼女は本日3回目の台詞を零してから、書類倉庫から出た。
『不思議な距離感…』



