二十歳の誕生日を迎えた、ある日。
朝倉祐二は晴れ晴れとした面持ちで、一菱証券・静丘支店のビルを見上げていた。
その顔は恍惚に似た、どこか蕩けそうな表情だ。
(ようやくたどり着いた。僕の女神が待つ神殿に)
胸の奥から湧き起こる嬉しさに、思わず目を閉じる。
(あれから五年……)
初恋を実らせたい。
その気持ちだけで、この五年間を頑張ってきた。
もう、自信と期待しかなかった。
僕は胸元から、一枚の名刺を取り出す。
何度も手に取ったせいで、少しヨレている。
可愛い富士山のイラストが色褪せないよう、大切に桐の箱へしまってきた。
僕と彼女を繋ぐ、たった一枚の名刺。
それをそっと胸元へ戻し、ウィンドウに映る自分の姿を確認する。
長身に皺のないツーピース。
艶のある黒髪に、寝癖などない。
思わず頬に手を当て、肌の調子まで確認した。
(ようやく、瞳子さんに釣り合う男になれた)
「今日もいい調子だ」
一度、手をぐっと握る。
口角をキュッと上げる。
「よし!」
僕は自信を胸に、一歩を踏み出して店内へ入った。
静丘支店の一階には、営業窓口がある。
窓口の前に立つと、お客様対応のスタッフから声をかけられた。
「こんにちは。今日はどのようなご用件で?」
「口座開設をしにきました」
僕は胸ポケットから名刺を取り出し、スタッフに差し出す。
「担当は、この方でお願いします」
「はい……牧野でございますね」
「ええ。ぜひ……いや、絶対に彼女でお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
立ち去るスタッフの背中を見送りながら、僕は胸の鼓動を抑えた。
(ついに……再会できる)
しばらくすると。
「お客さま、お待たせしました」
五年ぶりに聞く、女神の声──。
(忘れもしない。この人が、僕の人生を変えた人)
僕は頬が緩みすぎないように力を入れ、顔を上げた。
そこには、変わらず美しい瞳子さんがいた。
僕に向かって、柔らかく笑っている。
「担当させていただきます。牧野瞳子と申します」
僕は嬉しくなって、瞳子さんの顔から視線を外せなかった。
「名刺をお返ししますね」
瞳子さんが、先ほどスタッフに渡した名刺を差し出してくる。
その指に、指輪はない。
結婚はしていない。
僕は、心の底から安堵した。
(待ちに待った再会……)
(瞳子さんは変わらず綺麗だ。雰囲気もそのまま。何も変わっていない。ああ……僕の女神)
「あのっ、朝倉さま……手を……」
「え?」
気づけば僕は、名刺を返そうとする瞳子さんの手を両手で握っていた。
「ああ……失礼しました」
名残惜しく手を離す。
しまった。
五年間、何度も妄想の中で瞳子さんに会っていたから、つい距離感を間違えてしまった。
ここはリアルな世界だ。
僕たちは今、ここで初めて会ったことになっている。
(興奮して距離感を間違えてはいけない。自制、自制っと)
そう言い聞かせても、胸のドキドキは収まらない。
それから瞳子さんに、口座開設の手続きや株の売買について説明を受けた。
「二十歳で……この金額を……投資に?」
瞳子さんが驚いている。
僕はこれまで、自分の資産を運用してきた。
「もっと資金を増やしましょうか。牧野さんに手数料が入るなら、構いませんので」
余裕の笑みを浮かべる。
けれど、瞳子さんの表情がすっと引き締まった。
「いいえ。それはお気になさらず。ただ、一点だけ」
「なんでしょう?」
「金融商品に絶対に利益が出る保証はありません。何があっても生活を続けられるように、半年分の生活防衛費は確保してください」
その言葉に、胸が熱くなる。
(これだ。これなんだよ)
五年前もそうだった。
自分のことより、誰かのことを心配する。
困っている人を放っておけない。
(僕が瞳子さんに惚れた理由は、顔じゃない。この人の、こういうところなんだ!)
込み上げるものをぐっと飲み込み、僕は静かに口を開いた。
「……さすがです。ご自身の利益より、他者への思いやりが勝るんですね」
「恐れ入ります。しかし、投資で生活を苦しめては、意味がありませんので」
瞳子さんは、少し照れたように微笑んだ。
(可愛い……)
思わず、口元が緩む。
「……本当に、昔と何も変わっていないんですね」
「え?」
瞳子さんが不思議そうに僕を見る。
「私と、お会いしたことがありましたか?」
しまった──僕は、わざと聞かなかったことにした。
(過去の僕は思い出してほしくない!)
あの泣きべそをかいた、もやしっ子の姿だけは……絶対に知られたくない。
「あの、牧野さん。一点だけ、お願いがあります」
僕は、何事もなかったように切り出した。
「はい。どのようなご要望でしょうか?」
「売り買いは頻回にしてもらって構いません。そのかわり、こまめに僕へ連絡を入れてくださいませんか?」
「こまめに、と申されますと?」
「毎日、だって構いません」
「……毎日はご迷惑になるかと」
「牧野さんなら、構いません」
「え?」
抑えきれなかった。
僕の口から、心の奥にしまっていた言葉が飛び出す。
「僕と結婚してください」
「…………」
瞳子さんの笑顔が、完全に固まった。
「……ご冗談、ですよね?」
「……はい。もちろん、冗談です」
僕は完璧な営業スマイルを浮かべる。
危なかった。
あまりにも嬉しくて、気持ちが先走ってしまった。
それでも、困惑した瞳子さんの頬が、ほんのり赤くなっている。
(……やはり、可愛い)
「では、値動きがあればその都度、しばらく動きがない時は今後の展望について連絡を差し上げることにしますね」
「はい! ぜひ、待っていますっ!!」
「ええ」
瞳子さんが、可愛らしい笑顔を向けてくれた。
僕は、胸がいっぱいになった。
五年前は遠くから見上げることしかできなかった女神と、今は同じテーブルを挟んで話している。
僕は、ここまで来たんだ!
そして、僕には次の目標がある。
一菱証券に入社して、瞳子さんの隣で働く。
年下の子供ではなく、同じ目線に立つ男になる。
そして──彼女にも、僕を好きになってもらう。
これが、僕と瞳子さんの運命のロマンスの始まりだった。



