眠れる海のマーメイド





水面越しにゆらゆらと揺れて、ぼんやりと見える世界。
そこから顔を出した、その瞬間――海と空がひとつになったような、美しい景色が広がっていた。

……わあ! きれい!

濃紺の空には、パールのような大きな月と、宝石のような満天の星。
その光が海に反射して、きらきらと輝いている。

浅くなるところまで泳ぎ、白い砂浜に“足”をそっと乗せた。
さらさらとした感触が、足の裏をくすぐる。

……海で泳ぐのもいいけど、陸を歩くのも楽しいな。

シャリシャリと音を立てながら、ゆっくりと波打ち際を歩く。
水面を覗くと、“自分の姿”が鏡のように映った。

肩より少し長い、やわらかな茶色の髪。
月光みたいに淡く光る瞳。

……これが、“私”?

髪の色も長さも、瞳の色も――まるで別人みたいだ。

……私は“この世界”で暮らしていけるのかしら。

「おい!」

背後から勢いよく手を引かれ、思わず振り返る。
その瞬間、ぱっちりとした目が合った。

「お前、こんな時間に何してんだ!?」

いきなり知らない男の子に声を荒げられて、心臓がドクンと大きく鳴った。

……どうしよう。
もしかして、気づかれた!?

「いいか、海はお前が思ってるよりも危ないんだ! しかも、こんな夜にひとりでいたら、何かあってもすぐに助けは来ないんだぞ!」

……そっか。
“私たちの世界”とは、違うんだ。

「わかったら、こんな時間にむやみに出歩くな」

……あれ?
ものすごく怒られてるけど、もしかして心配してくれてるのかな。

私はうつむきながら、コクリと頷いた。

「ったく……お前の家、どこなんだ?」

頭をガシガシと掻きながら聞く男の子。

「……あそこ」

緑の植物に囲まれた丘にある、ペンションみたいな外観の、大きな建物を指さす。

「わかった、そこまで送るよ」

……送るって、私の家まで!?

私は勢いよく、首をぶんぶんと横に振る。

……ダメ。
これ以上、近づかれたら――。

すると、彼は私の手を握った。

「遠慮しなくていい。行くぞ」

半ば強引に手を引かれ、私は彼の少し後ろを歩いた。
伝わってくる温もりが、どこか優しい。

「お前、この辺じゃ見ない顔だな。名前は?」

……“私の名前”。

「……み、水神(みずかみ)結愛(ゆあ)

「初めて聞く名前だな。引っ越してきたのか?」

私は首を縦に振る。

「そっか。どこから来たんだ?」

その質問に、心臓がバクバクする。

「……と、遠いところ」
「ふーん、遠いところね……」

そう言って、男の子は静かになる。
波音だけが聞こえてくる沈黙が、やけに落ち着かない。

……次は何を聞かれるんだろう。

「学校は、深海(ふかみ)学園か?」
「……う、うん」

別の質問に変わって、ほっと小さく息を吐く。

……でも、どうして私の通う学校がわかったんだろう。

聞きたいけれど、その勇気がなくて、彼に聞かれたことだけ答えていく。
そうして歩いているうちに、明かりが(とも)る大きな建物が見えてきた。

「ほら、着いたぞ」
「……あ、ありがとう」

肩の力が抜けた――その瞬間、男の子がこちらに手を伸ばした。
とっさに、目をきゅっと閉じる。

――ポン。

頭に触れる感触に、そっと目を開けると、彼はふっと笑っていた。

「やっと、こっち向いたな」

月光に照らされたその笑顔に、心臓がドキッと音を立てる。

「じゃあ、俺はここで」

背を向けて帰ろうとする彼。

……えっ!?
もしかして、ひとりで帰るの!?

「あのっ!」

気づけば、私は声をかけていた。

「どうした?」

少し首をかしげる彼。
私が何を言うのか、待っているように見えた。

「……帰り、気をつけて」

……余計なお世話だったかな。
それでも、心配せずにはいられなかった。

「ああ、ありがとう」

私の気持ちが伝わって、ほっとする。

「結愛、“また明日”な」

私の名前を呼んで、男の子は静かな夜の中へと消えていった。

……行っちゃった。

彼を見送ったあと、私は自分の部屋に直行した。
背中越しにドアを閉めて、へなへなと床に座りこむ。

……私、ちゃんと“人間として”振る舞えてたかな。

まだ心臓がバクバクしている。

――私は、この世界の住人“ではない”。

青く澄んだ、どこまでも広がる海の底にある世界――“人魚界”。
私は、その世界に住んでいる――“人魚”なんだ。

この世界にいる間は、“私の正体”を知られるわけにはいかない。

ふらふらとした足でベッドにたどり着き、そのまま倒れこむ。

『結愛、“また明日”な』

……“また明日”ってことは、あの男の子と会うことになるのかしら。

気が抜けないまま、私は静かに目を閉じた。