橘若頭と怖がり姫

 船に乗せてやると兄に言われて、希乃は心が弾む反面で不安だった。
 長く病気で寝込んでいたという希乃は、ほとんど外出しない毎日を送っていた。兄に連れられて保養所や貸し切りの本屋に行くくらいで、人の集まるところは出入りしない。
「にいさま……私、隅っこに乗せてもらえたら、十分で……。人前に、出なきゃだめ……?」
 けれど兄は外商を呼び寄せてあれこれと希乃のパーティドレスを選んでいたから、華やかな場に出席しなければならないのではと怯えた。
 兄は希乃の髪をすくって髪飾りの角度を整えながら、甘やかすように笑う。
「俺がずっと側についているよ。何にも心配要らない」
「でも……にいさまは、船の主人で。お客様の相手が、あるから……私、船室で大人しく、してる……よ?」
「希乃と一緒だから意味があるんだ。せっかく元気になって出かけるんだから、希乃にはその場で一番かわいい服を着せて、おいしいものを食べさせてやりたい。……船は嫌いか?」
 兄がふいに気がかりそうに問うので、希乃は慌てて首を横に振る。
「船、好き……。遠くまで航海するのは、不安、だけど……。船上パーティ、あこがれなの……」
「そうか、よかった。希乃が乗りたいならいつだって乗せてやる。……ああ、これもいいな。同じ色の靴はあるか?」
 兄は上機嫌でうなずいて、また運ばれてきた希乃のパーティドレスの検分を始めた。
 迎えた船上パーティの日、希乃は兄に手を取られて控室に入った。
 今日の希乃は、淡い青のシフォンドレス姿だった。ふんわりとした優しいシルエットで、ききょうの透かし模様が入っている。
「ドレスの着心地はどうだ?」
「うん……もったいないくらい。あのね、にいさま……」
「なんだ?」
 希乃は兄の袖を引いて、はにかみながら言う。
「……服も、とてもすてきだけど……にいさまとブローチがおそろいで、うれしい……」
 兄は黒いダブルスーツに、華やぎのアクセサリとして胸元にサファイアのブローチをつけていた。兄は希乃にも同じブローチを用意してくれたのだった。
 兄は少し屈んで、希乃の頬に触れながらささやく。
「希乃は俺のものだって証だ。不変の想いを希乃に。そういう意味だよ」
「ありがとう……私も、にいさま、好き……」
 希乃はあどけなく笑ったが、兄はどこか危うい目で希乃をみつめていた。
 船上パーティの開始時間になって、希乃は兄に手を取られて大広間に向かう。
 カテリナ号は五百人を収容できる大型客船だが、観光客を運ぶものではなく、華やかなりし招待客を集めて船上パーティに興じるためのものだった。兄の会社に何らかの伝手のある、身元の保証された者しか乗ることはできない。
 だから兄が大広間に立ち入ったとき、まるで王者のように客人に出迎えられた。兄は一種の陶酔をたたえた人々にすぐさま取り囲まれて、口々に賛辞を受けていた。
 希乃はそんな兄をあこがれの目で見上げながら、前にもこんなことがあったような気がしていた。王者のような兄、それを迎える人々、既視感が胸をよぎる。
「せっかくだが、今日は妹との休暇を過ごしに来ただけなんだ。仕事の話は、後日ゆっくり受けるよ」
 ただ兄ははじめのあいさつを終えると早々に仕事の話を打ち切って、人波からすっと足を引いた。希乃の手をしっかりと掴んだまま、奥のラウンジに向かう。
「に、にいさま……私は、いいの。お仕事の話、してきて……」
「希乃と一緒にいるのに、仕事なんてつまらない。おいで、希乃。にいさまとゆっくりディナーを楽しもう?」
 ラウンジには大広間を見下ろせる広々としたボックス席があって、グラスと銀食器も用意されていた。兄は自ら椅子を引いて希乃を座らせると、そっと耳元で言葉をつけくわえる。
「……後ろの扉から専用の化粧室に行ける。食事中でも、いつでも使っていい」
「専用? じゃあ……」
 それでは、希乃のトラウマになった元々の化粧室には近づけない。はっとして兄を見上げると、兄は慈愛のまなざしで希乃を見ていた。
「トラウマになったような場所には、一生近づけさせない。希乃の保護者なら、当然だろう?」
「に、にいさま……」
 希乃はこくんと息を呑んでうろたえる。
 兄はやはり、希乃が子どもに退行しても少しも構わないのだ。どうしよう……と希乃がうつむくと、兄はそんな希乃を後ろから抱きしめる。
「あ、ここ、外、だから……」
「にいさまとくっつくのに恥ずかしいことはない。いいんだよ、希乃。給仕は使用人ばかりだ。安心して、おいしいものを食べような……」
 それで兄はディナーの開始を指示してしまったから、希乃は抵抗の機会をなくした。
 トラウマの場所には一生近づけさせない……兄の言葉がぐるぐると頭の中を回る。子どもになってしまう、どうしよう、どうしよう……。
 豪勢な食事も喉が詰まるようで、なかなか進まない。細工物のようなアンティパストに目を輝かせることもできず、お気に入りの冷たいかぼちゃのスープも残してしまう。
 せっかく兄が用意してくれた数々の食事も食べられず、希乃はしょんぼりと肩を落とす。
「ごめ……なさい」
「ん? 何も気にしなくていい。服も場も慣れないから、緊張して当然なんだよ」
 兄はまるで怒る素振りもなく、いつものように手を伸ばして希乃の頭をなでる。
「そうだな、じゃあ……」
 まだディナーの途中だというのに兄は席を立って、希乃の手を取る。
 ラウンジを下ったところにあったものを見て、希乃は目を丸くする。白いレースの広がるテーブル上には、まるで花畑のようにたくさんのドルチェが並んでいた。
「全部希乃のものだよ。……今日はアレルギーの食材は一切船に持ち込ませていない。どれでも安心して、好きなだけ食べてごらん」
 その惜しみない慈愛に、希乃は何も言えなくなる。
 兄は精神退行を止める素振りがなく、自分は子どもに戻ってしまうかもしれない。でもこれだけの優しさを注がれて子どもに還るなら……それは幸せなのかもしれない。そんな思いが心をよぎる。
 希乃が一口すくったベリーアイスは、甘く甘く、背徳の毒のように美味しかった。
 それが喉を通っていくのを、小さな痛みと共に受け入れるしかなかった。