橘若頭と怖がり姫

 早朝、保養所に迎えに来てくれた兄は、長い間離れ離れになっていた子どもとやっと会えたような顔をしていた。
「希乃。……ごめんな」
 希乃がためらう前に彼女を抱きしめて、希乃が言葉に迷っているうちに詫びの言葉を口にする。
「一晩、希乃がいない屋敷は家だと思えなかった。希乃がちゃんと晩御飯を食べたのか、眠ってるのか、具合は悪くないか、心配でたまらなくて……。その原因を作ったのが俺だとわかってても、何度か車庫に出て夜のうちに迎えに行こうと思った」
「にいさま……」
 希乃の頭を抱いて頬を寄せた兄に、希乃はうろたえて返す言葉が浮かばない。
 兄は希乃を離すまいとしながら、希乃が困惑した事実に触れる。
「ごめん、希乃。俺の子を、なんて二度と口にしない。俺は希乃がいてくれればそれで十分だ。俺は兄で、親で、希乃を守る全部でいるから……離れていかないでくれるか」
 けれどきっと希乃が逃げ出そうとしても、今こうして抱きしめて離さないように、兄はそれを許してはくれないだろう。
「……うん、にいさまといる」
 希乃はその不自由な未来でよかった。だからおずおずと兄の背中に腕を回して、ぎゅっとしがみついた。
 兄は希乃が触れるのを嫌がらなかったことに、安堵したようだった。体を離すと、くしゃりと顔を綻ばせて笑った。
「昨日は眠れたか? 朝は何を食べた? 疲れてはいないか?」
 保養所には部下がいたから、その部下から希乃の様子は聞いていただろうに、兄は希乃の口から話を聞きたがった。
 希乃はそんな兄にこくんとうなずいて、安心させるように言う。
「大丈夫だよ……にいさま。私、げんき……だから、その」
 希乃は迷いながら兄を見上げて、そっとその言葉を告げる。
「にいさまが、私を……最初からにいさまの子に、したい、なら。……治療、受ける、よ……?」
「希乃……」
 兄は希乃の言葉を、少し苦い思いで受け取ったらしい。かすかに眉を寄せて、希乃の頬に触れる。
「お前はいつも、とてもいい子で。……いい子過ぎて、俺の言うことを全部聞いちまうのな。お前が許し続けると、俺はいつかお前の自由をすべて奪うぞ」
 希乃が小さく息を呑むと、兄は茶化すように付け加えた。
「だから、時々は悪い子にしてろ。俺の言うことを聞かないで、すねたり怒ったりするんだ」
「む、難しい……よ」
「はは。じゃあせいぜい、俺が居心地のいい籠を作ってやるしかないか」
 兄は冗談とも本気とも区別がつかないことを言って、希乃の頭をぽんぽんと叩いた。
 ふいに兄は希乃を正面から見て、確かめるように言う。
「俺は、お前を傷つけるものは過去であっても要らないと思ってる。……だから、希乃」
 一度目の治療は、希乃の心が壊れてしまわないための緊急的な措置だったという。今回がそれと違うのは希乃もわかっていた。
「うん……私、小さい頃の記憶、捨てる、ね……」
 今回は希乃が自分の意思で、子どもの頃の真実の記憶を捨てる選択をした。
 それから希乃は胎教のような静かな音楽のかかる部屋で、二度目の治療を受けた。治療を行ったのは藍紀で、宝坂はそこにはいなかった。
 自分から細かな欠片が離れてどこか遠くに吸い込まれて行く、そんな夢を見た。痛くはないけれど、寂しかった。
 前にもそうだった気がしながら、泣きながら目を覚ました。そこは見慣れた屋敷で、兄が側で手を取っていてくれた。
「にいさま……あのね」
 希乃はとろりと笑って、幸せそうにつぶやく。
「小さい頃、私の入った、揺り籠を……にいさまがのぞきこんでくれた夢、見てたよ……」
 それを聞いた兄も、優しい目をしてうなずく。
「ああ、それは本当のことだな。……希乃は生まれたときから、俺が側で見てたから」
 希乃はこくこくとうなずいて、まだ涙に濡れた頬を兄の手に寄せた。
 小さい頃から病気がちだった希乃にはよくあることだったが、希乃はまた熱を出してしばらく寝込んでいたらしかった。それで、記憶があいまいなのだと兄に言われた。
 体はそんなにつらくなかったが、頭はぼうっとしていた。兄は体を労わってゆっくり過ごしたらいいと言ってくれたから、希乃は数日間、部屋の外に出ることもなく穏やかに過ごした。
「希乃、おいで。見せたいものがある」
 病気から目覚めて三日後、部屋にやって来た兄がソファーに希乃を呼んだ。希乃はおずおずと兄に近づくと、兄は子どもに絵本を読むように後ろから抱き込んで、分厚い雑誌を開く。
「車を買おうと思ってる。希乃が元気になったから、いろんなところに連れて行ってやろうと思ってな」
「くるま……?」
 希乃は不思議そうにつぶやいて問う。
「私、車のこと……全然わからない、よ……? にいさまの、好きな、車でいいの……」
「俺の車は別にある。これは希乃を乗せるためだけの車だ」
 兄は甘やかすように希乃の髪を梳いて言う。
「希乃は今まで一人で電車に乗ったことがないだろう? 痴漢に遭ったりさらわれたらとんでもないと、俺が許さなかったからな。希乃が車を運転するのも、危ないから許してやれない。でも代わりに、俺がどんなところでも連れて行ってやる。その玩具の一つだよ」
「おもちゃ……車、が」
「ああ。だから希乃が選んでいいんだ。形も、色も、希乃の好きなものを指さしてごらん?」
 希乃の眼前の雑誌には、一台数千万の高級車が並ぶ。それを玩具と言ってしまう兄は、一緒に暮らしていてもどこか違う世界の人間のようだった。
「かわいいのがいいか? ピンクのBMWとかどうだ?」
 希乃にはBMWが何かはわからないが、たぶんそういう高級車にピンクが常識はずれなことくらいはわかる。
「家の、車……黒塗りじゃないと、いけないと、思ってた……」
「これは希乃の玩具だからいいんだ。ただ、左ハンドルだと希乃が降りるとき危ないからな。それは変えさせるし、装甲も特殊仕様にすれば問題ない」
 希乃がそろそろと言うと、兄は何てことないように笑い飛ばす。
「希乃? ……どうした、気に入らなかったか?」
 家のメンツであるとか、運転手の乗り心地とか、気にすることはたくさんあると思うのに、兄は希乃の希望だけが気になるようで、困ったように問い返す。
「にいさまの、車……だから。にいさまが、全部、決めて……いいの」
 希乃は結局、思ったとおりのことを言った。兄は残念そうに息をついたけど、希乃は小さく付け加える。
「……でも、色は……海みたいな青が、いい、な……」
「青?」
「うん。にいさま、深い青、似合う……から」
 カフスボタンや、時計にあしらわれた宝石に、兄はよく青を使う。気取ってはいないのにそれが艶っぽく見えて、希乃は憧れていた。
 兄はふいに希乃を抱く腕に力を入れて、嬉しそうに言う。
「希乃は俺のこと一番よくわかってるなぁ? そうだな、一番側にいるもんな」
 希乃の髪を手で梳いて、兄は喉の奥で笑う。
「じゃあ青のボルボにするか。楽しみだな、希乃? 一緒にいろんなところ、行こうな……」
 そう言って兄とくっついている時間が、希乃にとっても大切なひとときだった。