祝福のあとで

ホテルの部屋は、思っていたより広かった。

 スーツケースを開けて、
 最低限のものだけを取り出す。

 ハンガーにかけた服も、
 洗面台に並べたスキンケアも、
 どこか仮の配置みたいで落ち着かない。

 窓の外には、
 見慣れない街の夜景。

 ネオンの色も、
 走る車の音も、
 全部が少し遠い。

 ——本当に、来たんだ。

 ベッドに腰を下ろすと、
 マットレスが柔らかく沈んだ。

 一人分には、
 広すぎる。

 無意識に、
 隣を見てしまってから、
 自分で小さく息を吐いた。

 ——いるわけないのに。

 スマートフォンが、
 かすかに震える。

 画面に浮かんだ名前を見て、
 胸の奥が、きゅっと縮んだ。

『無事着いた?』

 短い一文。

 でも、
 ちゃんと今を気にしてくれている言葉。

『着いたよ』
『部屋も問題なし』

 そう打ってから、
 一瞬だけ指が止まる。

 本当は、
 もっと言いたいことがある。

 寂しいとか。
 会いたいとか。
 隣が空いてるとか。

 でも、
 今は言わない。

 ——約束したから。

 離れても、
 ちゃんと続けるって。

 少し遅れて、
 返信が返ってくる。

『よかった』
『今日は移動で疲れてるだろ』
『無理しないで、早めに休め』

 相変わらず、
 気遣いが先にくる。

 その文章を読んだだけで、
 直の声が頭の中に浮かんで、
 それが余計に胸に残った。

 ひかりは、
 スマートフォンを胸元に置いて、
 ベッドに横になる。

 天井が高い。

 音が少ない。

 静かすぎて、
 自分の呼吸がはっきり分かる。

 目を閉じると、
 自然と、
 あの朝のことを思い出してしまう。

 コーヒーの音。
 湯気。
 直の背中。

 何も言わなかったけど、
 あの空気の中にあった、
 確かなぬくもり。

 ——ちゃんと、選ばれてた。

 そう思える記憶があるから、
 今は、
 一人でも大丈夫なはずだった。

 それでも。

 枕に顔をうずめると、
 喉の奥が少しだけ苦しくなる。

 ひかりは、
 小さく息を吐いて、
 自分に言い聞かせる。

「……一年だけ」

 約束の時間。

 終わりが決まっている距離。

 この先に、
 ちゃんと戻る場所がある。

 そう信じて、
 目を閉じる。

 見慣れない街の夜は、
 まだしばらく、
 眠らせてくれそうになかった。