祝福のあとで

鍵を開けて、
先に中へ入る。

「どうぞ」

言葉は短く。
いつも通りのつもりだった。

ひかりが靴を揃える音を聞きながら、
直はキッチンへ向かう。

——落ち着け。

何度も人を家に招いてきた。
特別なことじゃない。

そう思おうとして、
すぐに気づく。

今日は、
ひかりがいる。

冷蔵庫を開けて、
中身を確認する。

材料は、揃っている。
手順も、頭に入っている。

なのに。

包丁を持つ手が、
いつもより慎重になる。

背後の気配が、
やけに近く感じられた。

ソファに座る音。
クッションが沈む音。

ひかりが、
そこに“いる”だけで、

直の意識は、
何度もそちらへ引っ張られてしまう。

——落ち着かない。

それは、
ひかりが緊張しているからじゃない。

自分の方だった。

ちらりと振り返ると、
ひかりは背筋を伸ばしたまま、
ソファに座っている。

手の置き場も、
足の位置も、
どこかぎこちない。

その様子を見て、
胸の奥がきゅっと縮む。

——緊張、させてる。

直は、
料理の手を止めないまま声をかける。

「……そんなに、緊張しなくて大丈夫ですよ」

いつもの敬語。
距離を保つための言葉。

ひかりが、
少しだけ顔を上げる。

その反応を見て、
直は、はっとする。

——あ。

この敬語は、
今の空気には、少し遠い。

小さく息を吐く。

言い直すつもりはなかった。
でも、口が先に動いた。

「……緊張しなくて、いいよ」

タメ口。

たったそれだけ。

でも、
キッチンの空気が、
ふっと変わる。

ひかりが、
驚いたように顔を上げる。

その反応を見て、
直は確信する。

——今、踏み込んだ。

名前を呼ぶ。

「ここさ」

声の調子を、
意識して落とす。

「ひかりが思ってるほど、
 特別な場所じゃないから」

本当は、
特別だ。

でも、
そう思わせたくなかった。

ひかりの肩が、
少しだけ下がる。

呼吸が、
さっきより楽になっている。

それを見て、
直はようやく料理に集中できた。

フライパンの音。
油の匂い。

全部が、
ようやく日常に戻る。

——よかった。

敬語を外したのは、
距離を縮めたかったからじゃない。

これ以上、
ひかりを一人にしたくなかっただけだ。

直は、
背中越しに思う。

——もう、戻れないな。

この夜が、
静かにそう告げていた。