祝福のあとで

営業を終える準備をしながら、
直は、ひかりのグラスが空いていることに気づいていた。

最後の一口を飲み干して、
コースターの上にそっと置く仕草。

いつもと同じ。

変わらないはずの夜だった。

照明を一段落として、
ジャズを止める。

グラスを拭き終えて、
カウンターの内側から外に出る。

ひかりが立ち上がる気配を、
直は視線を上げなくても分かっていた。

——今日も、ここまで。

そう思った、そのとき。

直は、
自分でも意外なくらい自然に、口を開いていた。

「……お腹、空いてませんか」

声は低く、
あくまで何気ない調子。

誘いに聞こえないように。
でも、聞かずに帰すのは、
今日は違う気がした。

ひかりは一瞬だけ考えてから、
静かに答えた。

「……空いてます」

その一言で、
直の胸の奥が、ほんの少しだけ緩んだ。

——よかった。

理由は言葉にしない。

直は、
視線を合わせて、続ける。

「よかったら」

一拍。

「今日は、うちでご飯にしませんか」

断られてもいい。
迷われてもいい。

ただ、
この夜を、ここで終わらせたくなかった。

ひかりは、
少しだけ視線を落としてから言った。

「……いいんですか」

直は、小さく頷く。

「ええ」

それだけ。

“特別”とか、
“恋人だから”とか、
そういう言葉は使わない。

でも。

この人を、
外の喧騒に戻したくなかった。

鍵を手に取って、
店を出る。

並んで歩く帰り道。

距離は、いつもと同じ。
触れないし、
話もしない。

それなのに、
直ははっきり分かっていた。

——今日は、戻れない。

この夜は、
もう、ただの「営業後」じゃない。

直は、
ひかりの歩く速度に合わせながら、
一度だけ思う。

——もう、好きだな。

その気持ちに、
名前をつける前に。

この夜が、
静かに始まっていた。