扉が開く音がした。
ジャズに溶けるほど、静かな音。
でも、
ひかりは反射的に顔を上げた。
背の高い男が一人、
店内を見渡している。
コートを肩にかけたまま、
少しだけ疲れた顔。
仕事帰りだと、すぐに分かった。
「遅くなった」
低い声。
その声を聞いた瞬間、
由里の表情が変わる。
張っていたものが、
ふっとほどけるみたいに。
「お疲れさま」
立ち上がって、
自然に近づく。
その距離は、
迷いのないものだった。
直は、
一瞬だけ動きを止めてから、
静かに言った。
「……律」
落ち着いた目で、
まっすぐこちらを見る姿勢。
「久しぶりだな」
直に向かってそう言ってから、
由里の肩に軽く手を置く。
無意識の動作。
「仕事、長引いてさ」
「うん、聞いてた」
由里は笑う。
それは、
“待つことに慣れた人”の笑顔だった。
直は、
それ以上踏み込まず、
仕事の顔に戻る。
「飲み物、用意します」
男は、
小さく首を振った。
「今日はいい。
顔だけ出せればと思って」
由里が、
少しだけ姿勢を正す。
「直、
事務所、独立することにしたの」
直は、
驚いた様子は見せなかった。
ただ、
短く息を吐く。
「そうですか」
「二人で、やっていく」
その一言で、
関係性は十分だった。
空気が、
静かに変わる。
誰も大きな音は立てていないのに、
店の温度だけが、
ほんの少し動いた。
「……おめでとう」
直は、
余計な言葉を足さなかった。
祝福だけを、
正確に置く。
男は、
その様子を見て、
わずかに口角を上げる。
「ありがとう」
ひかりは、
グラスを持ったまま、
その光景を見ていた。
声をかける理由も、
席を立つ理由もない。
ただ、
“知らなかった過去”が、
確かにここにあると分かった。
——今日は、
直の家に行くと思っていた。
その前提が、
音もなく崩れたことに、
ひかりは、
ゆっくり気づき始めていた。
ジャズに溶けるほど、静かな音。
でも、
ひかりは反射的に顔を上げた。
背の高い男が一人、
店内を見渡している。
コートを肩にかけたまま、
少しだけ疲れた顔。
仕事帰りだと、すぐに分かった。
「遅くなった」
低い声。
その声を聞いた瞬間、
由里の表情が変わる。
張っていたものが、
ふっとほどけるみたいに。
「お疲れさま」
立ち上がって、
自然に近づく。
その距離は、
迷いのないものだった。
直は、
一瞬だけ動きを止めてから、
静かに言った。
「……律」
落ち着いた目で、
まっすぐこちらを見る姿勢。
「久しぶりだな」
直に向かってそう言ってから、
由里の肩に軽く手を置く。
無意識の動作。
「仕事、長引いてさ」
「うん、聞いてた」
由里は笑う。
それは、
“待つことに慣れた人”の笑顔だった。
直は、
それ以上踏み込まず、
仕事の顔に戻る。
「飲み物、用意します」
男は、
小さく首を振った。
「今日はいい。
顔だけ出せればと思って」
由里が、
少しだけ姿勢を正す。
「直、
事務所、独立することにしたの」
直は、
驚いた様子は見せなかった。
ただ、
短く息を吐く。
「そうですか」
「二人で、やっていく」
その一言で、
関係性は十分だった。
空気が、
静かに変わる。
誰も大きな音は立てていないのに、
店の温度だけが、
ほんの少し動いた。
「……おめでとう」
直は、
余計な言葉を足さなかった。
祝福だけを、
正確に置く。
男は、
その様子を見て、
わずかに口角を上げる。
「ありがとう」
ひかりは、
グラスを持ったまま、
その光景を見ていた。
声をかける理由も、
席を立つ理由もない。
ただ、
“知らなかった過去”が、
確かにここにあると分かった。
——今日は、
直の家に行くと思っていた。
その前提が、
音もなく崩れたことに、
ひかりは、
ゆっくり気づき始めていた。
