祝福のあとで

会話は、
事務所の話が中心だった。

独立のタイミング。
今の仕事のこと。
準備で忙しい、という現実的な話。

直は、
相槌を打つだけで、
深く踏み込まない。

でも、
必要なところだけ、
きちんと聞いている。

それは、
仕事のときと同じ姿勢だった。

「律は?」

直が、
ふと思い出したように聞く。

「あと三十分くらいかな」

由里はそう言って、
スマートフォンを伏せた。

「ほんと、急でごめんね」

「いえ」

直は短く答えて、
グラスを拭く。

その手元から、
視線を上げない。

ひかりは、
その様子を見て思う。

——踏み込まない。

過去にも、
今にも。

それが、
この人の誠実さなのだと。

カウンターに、
静かな間が落ちる。

気まずさは、ない。

ただ、
少しだけ、
空気が張っている。

由里が、
ふとひかりの方を見る。

「……静かですね」

「そうですね」

「でも、落ち着く」

それは、
場の感想みたいな言い方だった。

でも、
ひかりの胸にだけ、
わずかに引っかかる。

直は、
その会話には入らない。

ただ、
ひかりのグラスが空きかけていることに気づいて、
自然に視線を送る。

「……もう一杯、いきますか」

仕事の声。

ひかりは、
一瞬だけ迷ってから頷いた。

「お願いします」

直は、
何も言わずに準備を始める。

その背中を見ながら、
ひかりは思う。

ここにいる三人は、
誰も間違っていない。

誰も、悪くない。

それなのに。

今日の夜だけは、
自分の居場所が、
少しだけ揺れている。

——あと三十分。

その時間が、
やけに長く感じられた。