仕事の顔でも、
恋人の顔でもない。
ただ、
過去をきちんと受け取る人の声。
由里は、
少しだけ安心したように笑う。
「ありがとう」
それから、
ようやくひかりに気づいたように、
視線を向けた。
「あ……お連れでした?」
ひかりは、
反射的に首を振る。
「いえ。
ただ、飲みに来てただけです」
声は、
思ったより落ち着いていた。
自分でも、
少し驚くくらい。
由里は頷いて、
直に向き直る。
「少しだけ、いい?」
「もちろん」
直はそう言って、
グラスを用意し始める。
ひかりは、
その背中を見る。
いつもと同じ動き。
同じ距離。
それなのに。
今日の夜は、
さっきまで思っていた“いつも”とは、
もう、同じではなかった。
——今日は、
直の家に行くと思ってた。
その前提が、
音もなく崩れたことに、
ひかりは、
ゆっくり気づき始めていた。
直がグラスを差し出すと、
由里は「ありがとう」と小さく言って、
カウンターの端に腰を下ろした。
「久しぶりだね。
こうして話すの」
「そうですね」
直の声は、
いつもと変わらない。
距離も、温度も、
きちんと整えられている。
ひかりは、
それを横目で見ながら、
自分のグラスを持ち直した。
