その日は、
特別なことのない一日だった。
仕事を終えて、
いつもの時間に、
いつものように Bar After の扉を押す。
もう説明はいらない。
カウンターの端。
軽めの一杯。
直の家に行くかどうかは、
飲み終わってから決めればいい。
それが、
最近の当たり前だった。
グラスを口に運びながら、
ひかりは今日の段取りを頭の中でなぞる。
シャワーを借りて。
少し話して。
眠くなったら、そのまま。
——変わらない夜。
そう思っていた。
「こんばんは」
声がして、
反射的に顔を上げる。
聞き慣れない声だった。
柔らかいけれど、
場に溶け込むのが上手な声。
カウンターの少し後ろに、
一人の女性が立っていた。
年は、ひかりより少し下だろうか。
仕立てのいいコート。
派手ではないのに、
自然と目に留まる雰囲気。
直が、
一瞬だけ動きを止める。
ほんのわずか。
でも、
ひかりは見逃さなかった。
「……由里さん」
名前を呼ぶ声は、
驚きというより、
確認に近かった。
女性——由里は、
小さく笑って頷く。
「久しぶり。
急にごめんね」
そのやり取りだけで、
二人の距離が伝わってくる。
知り合い。
でも、近すぎない。
ひかりは、
グラスを持ったまま、
自然に視線を落とした。
邪魔をするつもりはない。
ただ、ここにいるだけ。
「今日は?」
直が聞く。
「事務所の独立が決まって」
由里はそう言って、
肩の力を抜いた。
「本当は律と一緒に来る予定だったんだけど、
ちょっと仕事でトラブルみたい」
その言葉が、
静かに落ちる。
——独立。
祝うべき話のはずなのに、
ひかりの胸の奥で、
何かがわずかに揺れた。
大きな感情ではない。
痛みとも違う。
ただ、
今まで見えていなかった線が、
一瞬だけ浮かび上がったような感覚。
「おめでとうございます。」
直は、
余計な間を挟まずにそう言った。
特別なことのない一日だった。
仕事を終えて、
いつもの時間に、
いつものように Bar After の扉を押す。
もう説明はいらない。
カウンターの端。
軽めの一杯。
直の家に行くかどうかは、
飲み終わってから決めればいい。
それが、
最近の当たり前だった。
グラスを口に運びながら、
ひかりは今日の段取りを頭の中でなぞる。
シャワーを借りて。
少し話して。
眠くなったら、そのまま。
——変わらない夜。
そう思っていた。
「こんばんは」
声がして、
反射的に顔を上げる。
聞き慣れない声だった。
柔らかいけれど、
場に溶け込むのが上手な声。
カウンターの少し後ろに、
一人の女性が立っていた。
年は、ひかりより少し下だろうか。
仕立てのいいコート。
派手ではないのに、
自然と目に留まる雰囲気。
直が、
一瞬だけ動きを止める。
ほんのわずか。
でも、
ひかりは見逃さなかった。
「……由里さん」
名前を呼ぶ声は、
驚きというより、
確認に近かった。
女性——由里は、
小さく笑って頷く。
「久しぶり。
急にごめんね」
そのやり取りだけで、
二人の距離が伝わってくる。
知り合い。
でも、近すぎない。
ひかりは、
グラスを持ったまま、
自然に視線を落とした。
邪魔をするつもりはない。
ただ、ここにいるだけ。
「今日は?」
直が聞く。
「事務所の独立が決まって」
由里はそう言って、
肩の力を抜いた。
「本当は律と一緒に来る予定だったんだけど、
ちょっと仕事でトラブルみたい」
その言葉が、
静かに落ちる。
——独立。
祝うべき話のはずなのに、
ひかりの胸の奥で、
何かがわずかに揺れた。
大きな感情ではない。
痛みとも違う。
ただ、
今まで見えていなかった線が、
一瞬だけ浮かび上がったような感覚。
「おめでとうございます。」
直は、
余計な間を挟まずにそう言った。
