母は私の向かいに座ると、待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「ねぇ結菜ちゃん、聞いてちょうだい!
さっきね、パパにお醤油取ってってお願いしたの」
嫌な予感しかしない。
「そしたら、黙ってソースを差し出してきたのよ?」
「……ただの取り間違えでしょ」
「いいえ!」
母は胸に手を当て、真剣な目をした。
「これはね、『これ以上しょっぱい現実に染まらず、僕と甘い時間を過ごそう』っていう、無言のプロポーズよ」
「深読みが過去最高を更新してる」
父は「……なるほど」とか言ってメモを取っている。
やめてほしい。
母の妄想は止まらない。
「それだけじゃないの。さっき、私がトースターのタイマーを回そうとしたらね、パパが横からスッと手を伸ばして、代わりに回してくれたのよ」
「それ、パン焦げそうだったからでしょ」
「これは、『僕たちの愛の時間は、誰にも邪魔させない』という独占欲の現れだわ……」
「さっき『焦げ臭い……』って鼻ヒクヒクさせてたよ?」
完全論破しても、母は一切動じない。
「あらあら、結菜ちゃんは照れ屋さんね」
そう言って、うふふ、と微笑む。
「……あ、大変。パパのコーヒーを淹れてあげなきゃ。愛の雫を、一滴ずつドリップしないと」
そうしてキッチンへ戻っていく母の背中を、私は黙って見送った。
執事はいない。メイドもいない。けれど母の感覚だけは、今もどこか異世界のままだ。
トーストを焼くことすら、きっと母にとっては「小さな冒険」なのだろう。
私は最後の一口を口に運びながら、思う。
――さっきの夢より、この家のほうが、よっぽど現実離れしてる気がするな。
