静かなる、恋の包囲網

人生の中で人を傷つけたことは一度もないし、誰かと争ったことさえない塔子だが、たった一度、小学生だったあの日、塔子は父に刃を向けた。
実際には母に止められ、塔子が父を傷つけることはなかったが、自分の父親に刃を向けてしまったことは塔子の心に大きな傷となった。
その証拠に、今でも時々あの時のことを思い出す。
ほんの一瞬の出来事なのに、鮮明な記憶として残っているのだ。

―――何で、あんなことをしたんだろう。

あの後、父は逃げるように家を出て行った。
そして、二度と家族の前に現れることはなかった。
あの日以来、母は父のことを口にしない。
そのうちに、母と海斗と塔子の3人での暮らしが当たり前になり、父はいないものと思うようにさえなった。
それでも時々、塔子はあの日の夢を見る。