静かなる、恋の包囲網

「塔子さん」

名前を呼びながら走ってくるのは杏だった。
息を切らしながら駆け寄りぎゅっと塔子を抱きしめたその温もりに、塔子は全身の力が抜けていくのを感じた。

「大丈夫ですか?」
「う、うん」
「今、誰かが走って逃げましたが…」

塔子の後方を見つめながら杏がささやくように言う。
その瞬間、やはり幻ではなかったんだと塔子は知った。

「今は、誰も信用したらダメですよ」
「え、ええ」

信じたくないことだが、その事は塔子が1番よくわかっている。

「とにかく帰りましょう」

杏に促され立ち上がったものの、塔子の足が止まった。 塔子には帰る場所がないのだ。

「よかったら、今夜は家に来てください。ねえ、いいでしょ?」

お願いと手を合わせいつもと変わりのない明るい笑顔を向ける杏に、塔子の表情も少しだけ緩む。

「ありがとう、杏ちゃん」

今塔子が置かれている状況を知ったうえで、杏が気遣ってくれている。それがわかったからこそ、塔子は素直にうれしかった。
少し前まで杏のことで思い悩んでいたことなんて、忘れていた。
追い詰められた塔子は、ただ杏に救われた思いだった。