「え?タクミとかけもち?」
シャワーを終え髪をタオルで拭いていた修は、思わずその手を止めた。
あれから玲奈は、マネージャーの土居に仕事のかけもちを相談した。
すると、土居は思わぬ提案をしてきたのだ。
「だったら、タクミのプロ彼女とかけもちはどうかな?」
まさかの返答だった。
「タクミくんとかけもちって、そんなこと、大丈夫なんですか?」
修については今のところ家事しかできていないのに、タクミのプロ彼女が務まるとは思えない。
「修の希望は家事と犬の世話をやってくれればいいってことだよね。場合によってはタクミとそういう関係になってもらっても構わないよ」
「は?」
土居は、初めて会った時にプロ彼女への転職をもちかけてきた時、いや、それ以上の訳の分からない提案をしてきた。
「常識外れかもしれないけど、男女の仲はそんなすっきりと上手くいかないからね。このまま修と発展がなくてタクミとフィーリングが合えば、僕はそうなってもいいと思う。とにかく僕も御子柴さんも梅田さんを買ってるからね。できれば続けてほしいんだ」
マネージャーと顧問弁護士に信頼してもらえてるのは有り難いが、自分にそんな器用なことができるのだろうか。
「とりあえず、タクミとも一か月の試用期間を設けて、それが終わってから正式に決めようか。試用期間の間はこれまで通り修の部屋に居てくれていいから」
最初に会った時もそうだが、土居の穏やかな顔を見るとなぜか断ることができない。
彼の天性の素質なのか、マネージャーとして数々の交渉を経験してきたからだろうか。
玲奈は瑠加から聞いた「修とタクミの仲が微妙」ということと、先日タクミの部屋を訪ねた時のことを思い出していた。
杏仁豆腐を持ってきてくれたのに出すのを忘れてしまったので、お詫びのイチゴと冷凍餃子を持ってタクミの部屋のチャイムを押した。
「いいの?餃子もらって」
タクミは玲奈の突然の訪問に驚いていたが、餃子を差し出すと人懐っこい笑顔を向けてくれた。
「たくさん作りすぎたの。冷凍したからいつでも食べられるかなって思って」
「ありがとう。玲奈さんの餃子すげー旨かったから、嬉しい」
タクミは笑顔でそう言った後、真顔になった。
「この前、最後微妙な雰囲気になっちゃってごめんね。俺、飲み過ぎだったよね…」
この時のタクミの寂しそうな顔が、玲奈の頭の中に残っていた。
修の最初の演技の仕事が辛口評価だった頃のように、今のタクミは迷いの時期なのかもしれない。
だとしたら、何かのきっかけでこの時期から脱出できる日がきっと来る。
それが修やGrand-Blueメンバーにとっても好循環になるはずだ。
玲奈は炭酸水をグラスに注ぎ、修に渡す。
そして、試用期間の一か月間はこの部屋からタクミの部屋にも通い、かけもちを試してみたいと話した。
修は炭酸水を一口飲み、グラスをテーブルに置いた。
「タクミが玲奈さんを希望したの?」
真っ直ぐな目で見つめられてドキリとする。
「いや、提案したのは土居さんだと思う。そのあとタクミくんから、かけもちでもオーケーって返事があったみたい」
修はそのまま黙ってしまった。
玲奈は恐る恐る尋ねる。
「修は、かけもちには、反対?」
「…反対、ではないけど。玲奈さんが俺との生活に嫌気がさしてきたのかもって、不安になってる…」
「そんなことないよ」
玲奈はすぐさま否定して修に一歩近づく。
「私が少しでもタクミくんのサポートができたら、タクミくん自身もGrand-Blueのみんなも良くなっていくかな、と思って。もちろん修との生活もこれまで通りしっかり務めるよ」
土居は「タクミとフィーリングが合えば」と言っていたが、タクミも修と同じ二十二歳だし、男女の仲になるとは思えない。
ただ、この年末のの忙しさを目の当たりにして、せめて食事面だけでもサポートが必要だと強く思うようになった。
「トップアイドルの忙しさって私が思ってた以上だったし、特に寒い時期は体調管理がより一層大切になっていくから、まずはタクミくんの食事だけでもサポートしたいって考えてる」
修はまだ浮かない顔をしているが、「わかった」と短く言って自分の部屋に入って行った。
「修、何か嫌なことでもあった?」
歌番組の収録のためテレビ局の楽屋に入った修は、アッキーから開口一番に聞かれた。
「アッキーって修の心情、わりと察してるよね」
修より先に口を開いたのはサワだった。
「修は口数少ないから分かりづらいってみんな言うけど、態度とか雰囲気見てたら、かなり分かりやすいほうだと思うよ」
アッキーは楽屋の鏡越しに修の顔を覗き込む。
「別に、嫌なことってわけではないけど…」
「タクミがらみか?」
サワはそう聞きながら修の隣に座った。
楽屋に入っているのはまだこの三人だけだ。
「あのさ…」
修は昨日の玲奈との会話を思い出す。
あれから自分の部屋に入り、今朝もほとんど話をしないまま家を出て来てしまった。
玲奈はいつもと変わらず朝食を用意してくれていたのに。
「もし、サワさんのプロ彼女さんが他のメンバーの所へ食事作りに行ったら、どう思う?」
突然の質問にサワはアッキーに目配せした。
アッキーは少し首をかしげた後、優しい目で修を見た。
「食事を持っていくだけならまだ許せるけど、作るのに部屋に行かれたら、困るかな」
サワの答えに、修は真剣な顔で頷く。
「修の彼女の玲奈さん、だっけ? 俺の家に食事作りに来てくれるの?」
サワはニヤリとしながら言った。
「違う。サワさんではないんだけど…」
「じゃあ、タクミか?」
アッキーも修の前の席に座りに来た。
「玲奈さんとタクミが仲良くなってるのか?」
サワの質問に、修は少し俯いた。
「とにかく、玲奈さんとしっかり話し合った方がいいよ」
アッキーが話し終えるのと同時に楽屋のドアが開き、タクミが入って来た。
サワとアッキーはタクミに「お疲れ」と言って、鏡の前に戻った。
修はタクミの後ろ姿をじっと見つめていた。
「玲奈さんから聞いた?」
歌番組の収録が終わり、楽屋に戻った修は、タクミから質問を受けた。
他の三人は少し前に楽屋を出ていて、今は二人だ。
「かけもちのことだろ?聞いたよ」
修はダウンジャケットを羽織り、キャップを被る。
「土居さんから、修は家事と犬の世話だけ玲奈さんに任せたいみたいだから、かけもちは可能って聞いたんだけど」
タクミは私服に着替えただけで、くつろぐように椅子に座っている。
「玲奈さんは、タクミの食事のサポートをしたいって言ってたけど…」
修はテーブルを挟んでタクミの向かいに立ったままだ。
「食事のサポートだけ?」
タクミは修を見上げるような仕草をした。
修は真っ直ぐタクミを見た。
「玲奈さんは俺のプロ彼女だから」
「でも修は、家事と犬の世話以上のことを玲奈さんに求めてないんだよね?」
「…そう、だけど…」
修は口ごもる。
そうだった。
一年半前、Grand-Blueにもそれぞれプロ彼女を採用する話が出た時、修は話半分で聞いていた。
いきなりマネージャーが連れてきた女性と一緒に住むなんて、考えられない。
他のメンバーがプロ彼女を受け入れる中、自分は「いらない」と断り続けていた。
だが、昨年、最も信頼する事務所の先輩である元クラウンの園田雅人が、プロ彼女だった人と結婚した。
過去にもプロ彼女と結婚した先輩はいたが、身近な先輩である園田の結婚には衝撃を受けた。
また、真那斗やサワからプロ彼女との生活を聞かされるうちに、こういう形で女性と出会うのもありかもしれない、と思えてきた。
そして、リンを飼い始めたのと同時に映画やドラマの仕事が忙しくなり、世話をしてくれる人が必要と考えるようになった。
修は真っ直ぐタクミを見た。
「こういうことは、なあなあになると後で揉めたりするから……ちゃんとルールを決めた方がいいと思う」
「ルールって?」
タクミも真っ直ぐ修を見上げる。
「玲奈さんは、タクミの部屋には入れない」
修の言葉にタクミは驚いた。
言葉の内容というよりも、修がこのようにきっぱり意見を言うのを久しぶりに聞いた。
「かけもちであっても、玲奈さんは修のプロ彼女だからってこと?」
修は真っ直ぐな目でゆっくり頷いた。
玲奈は、弱火でじっくり煮込んだ豚の角煮を一切れ口に運ぶ。
タクミに夕食についてメッセージすると、「取りに来る」と返信があったのでタッパーに詰める。
角煮と一緒に煮込んだ半熟卵もしっかり味が染みている。
以前修にもこの角煮を出したら、とても喜んで食べてくれたので、もう一度作ってみた。
「前回よりも、上手くできたかも」
ハチミツを入れたことで、味のコクと照りが出ている。
玲奈が料理を好きになったのは、就職して二年目くらいの時だった。
学生の頃は簡単にできる麺類などで済ませることが多かったが、スポーツ用品メーカーで仕事をすると、同僚や取引先の人たちが、自分が思った以上に健康や食事に気を遣っていることを知った。
特にプロのアスリートに直接話を聞いた時には、自分の食生活がいかに適当だったか思い知らされた。
まずはバランスの良い食事作りを心掛け、栄養価も意識するようになり、様々な食材を試したりしているうちに料理が楽しくなった。
そして、それを美味しく食べてくれる浩也を見てると嬉しくなった。
そのことを友人に話すと「あんたはお母さんか」と突っ込まれたことがある。
修とは姉弟みたいと言われた。
姉からお母さんに成り下がらないように気を付けないと、と思った。
インターホンが鳴り、リンが玄関に向かって走って行く。
爽やかに「こんばんは」と挨拶するタクミに少し緊張しつつ、タッパーを渡した。
「めっちゃいい匂いする。うまそう」
「わざわざ取りに来てもらって、ごめんなさい」
タクミは玲奈の背後を気にしながら「修はまだ?」と聞いてきた。
「うん、今日は遅くなるみたい」
「修が自己流ルールを曲げないからなぁ…」
タクミは半分あきれたような表情をしている。
修にタクミとのかけもちの話をしてから微妙な空気になってしまったが、先日、修から突然「ルールを決めようと思う」と提案があった。
「とりあえず、タクミの部屋には入らないで」
ルールと言うからもっと細かなことを決められるかと思ったが、その一点だけで、提案というより修の中では決定事項だった。
微妙な空気をどう打開しようと何日も考えていた玲奈は拍子抜けしてしまい、思わず「分かった」と答えてしまった。
タクミはすり寄って来たリンの頭を撫でながら玲奈を見上げる。
「玲奈さん、修からルールのこと言われて…どう思った?」
「え?…どうって…」
タクミは立ち上がってふっと笑う。
「いや、修は言葉が少ないから、大変じゃない?ってこと」
玲奈は首を傾げる。
「確かに修は言葉少ないけど、大変ってことはないかな…」
タクミはまた笑っている。
「修は案外単純だよ、玲奈さん」
そして、「ありがとう」と言って自分の部屋に帰って行った。
シャワーを終え髪をタオルで拭いていた修は、思わずその手を止めた。
あれから玲奈は、マネージャーの土居に仕事のかけもちを相談した。
すると、土居は思わぬ提案をしてきたのだ。
「だったら、タクミのプロ彼女とかけもちはどうかな?」
まさかの返答だった。
「タクミくんとかけもちって、そんなこと、大丈夫なんですか?」
修については今のところ家事しかできていないのに、タクミのプロ彼女が務まるとは思えない。
「修の希望は家事と犬の世話をやってくれればいいってことだよね。場合によってはタクミとそういう関係になってもらっても構わないよ」
「は?」
土居は、初めて会った時にプロ彼女への転職をもちかけてきた時、いや、それ以上の訳の分からない提案をしてきた。
「常識外れかもしれないけど、男女の仲はそんなすっきりと上手くいかないからね。このまま修と発展がなくてタクミとフィーリングが合えば、僕はそうなってもいいと思う。とにかく僕も御子柴さんも梅田さんを買ってるからね。できれば続けてほしいんだ」
マネージャーと顧問弁護士に信頼してもらえてるのは有り難いが、自分にそんな器用なことができるのだろうか。
「とりあえず、タクミとも一か月の試用期間を設けて、それが終わってから正式に決めようか。試用期間の間はこれまで通り修の部屋に居てくれていいから」
最初に会った時もそうだが、土居の穏やかな顔を見るとなぜか断ることができない。
彼の天性の素質なのか、マネージャーとして数々の交渉を経験してきたからだろうか。
玲奈は瑠加から聞いた「修とタクミの仲が微妙」ということと、先日タクミの部屋を訪ねた時のことを思い出していた。
杏仁豆腐を持ってきてくれたのに出すのを忘れてしまったので、お詫びのイチゴと冷凍餃子を持ってタクミの部屋のチャイムを押した。
「いいの?餃子もらって」
タクミは玲奈の突然の訪問に驚いていたが、餃子を差し出すと人懐っこい笑顔を向けてくれた。
「たくさん作りすぎたの。冷凍したからいつでも食べられるかなって思って」
「ありがとう。玲奈さんの餃子すげー旨かったから、嬉しい」
タクミは笑顔でそう言った後、真顔になった。
「この前、最後微妙な雰囲気になっちゃってごめんね。俺、飲み過ぎだったよね…」
この時のタクミの寂しそうな顔が、玲奈の頭の中に残っていた。
修の最初の演技の仕事が辛口評価だった頃のように、今のタクミは迷いの時期なのかもしれない。
だとしたら、何かのきっかけでこの時期から脱出できる日がきっと来る。
それが修やGrand-Blueメンバーにとっても好循環になるはずだ。
玲奈は炭酸水をグラスに注ぎ、修に渡す。
そして、試用期間の一か月間はこの部屋からタクミの部屋にも通い、かけもちを試してみたいと話した。
修は炭酸水を一口飲み、グラスをテーブルに置いた。
「タクミが玲奈さんを希望したの?」
真っ直ぐな目で見つめられてドキリとする。
「いや、提案したのは土居さんだと思う。そのあとタクミくんから、かけもちでもオーケーって返事があったみたい」
修はそのまま黙ってしまった。
玲奈は恐る恐る尋ねる。
「修は、かけもちには、反対?」
「…反対、ではないけど。玲奈さんが俺との生活に嫌気がさしてきたのかもって、不安になってる…」
「そんなことないよ」
玲奈はすぐさま否定して修に一歩近づく。
「私が少しでもタクミくんのサポートができたら、タクミくん自身もGrand-Blueのみんなも良くなっていくかな、と思って。もちろん修との生活もこれまで通りしっかり務めるよ」
土居は「タクミとフィーリングが合えば」と言っていたが、タクミも修と同じ二十二歳だし、男女の仲になるとは思えない。
ただ、この年末のの忙しさを目の当たりにして、せめて食事面だけでもサポートが必要だと強く思うようになった。
「トップアイドルの忙しさって私が思ってた以上だったし、特に寒い時期は体調管理がより一層大切になっていくから、まずはタクミくんの食事だけでもサポートしたいって考えてる」
修はまだ浮かない顔をしているが、「わかった」と短く言って自分の部屋に入って行った。
「修、何か嫌なことでもあった?」
歌番組の収録のためテレビ局の楽屋に入った修は、アッキーから開口一番に聞かれた。
「アッキーって修の心情、わりと察してるよね」
修より先に口を開いたのはサワだった。
「修は口数少ないから分かりづらいってみんな言うけど、態度とか雰囲気見てたら、かなり分かりやすいほうだと思うよ」
アッキーは楽屋の鏡越しに修の顔を覗き込む。
「別に、嫌なことってわけではないけど…」
「タクミがらみか?」
サワはそう聞きながら修の隣に座った。
楽屋に入っているのはまだこの三人だけだ。
「あのさ…」
修は昨日の玲奈との会話を思い出す。
あれから自分の部屋に入り、今朝もほとんど話をしないまま家を出て来てしまった。
玲奈はいつもと変わらず朝食を用意してくれていたのに。
「もし、サワさんのプロ彼女さんが他のメンバーの所へ食事作りに行ったら、どう思う?」
突然の質問にサワはアッキーに目配せした。
アッキーは少し首をかしげた後、優しい目で修を見た。
「食事を持っていくだけならまだ許せるけど、作るのに部屋に行かれたら、困るかな」
サワの答えに、修は真剣な顔で頷く。
「修の彼女の玲奈さん、だっけ? 俺の家に食事作りに来てくれるの?」
サワはニヤリとしながら言った。
「違う。サワさんではないんだけど…」
「じゃあ、タクミか?」
アッキーも修の前の席に座りに来た。
「玲奈さんとタクミが仲良くなってるのか?」
サワの質問に、修は少し俯いた。
「とにかく、玲奈さんとしっかり話し合った方がいいよ」
アッキーが話し終えるのと同時に楽屋のドアが開き、タクミが入って来た。
サワとアッキーはタクミに「お疲れ」と言って、鏡の前に戻った。
修はタクミの後ろ姿をじっと見つめていた。
「玲奈さんから聞いた?」
歌番組の収録が終わり、楽屋に戻った修は、タクミから質問を受けた。
他の三人は少し前に楽屋を出ていて、今は二人だ。
「かけもちのことだろ?聞いたよ」
修はダウンジャケットを羽織り、キャップを被る。
「土居さんから、修は家事と犬の世話だけ玲奈さんに任せたいみたいだから、かけもちは可能って聞いたんだけど」
タクミは私服に着替えただけで、くつろぐように椅子に座っている。
「玲奈さんは、タクミの食事のサポートをしたいって言ってたけど…」
修はテーブルを挟んでタクミの向かいに立ったままだ。
「食事のサポートだけ?」
タクミは修を見上げるような仕草をした。
修は真っ直ぐタクミを見た。
「玲奈さんは俺のプロ彼女だから」
「でも修は、家事と犬の世話以上のことを玲奈さんに求めてないんだよね?」
「…そう、だけど…」
修は口ごもる。
そうだった。
一年半前、Grand-Blueにもそれぞれプロ彼女を採用する話が出た時、修は話半分で聞いていた。
いきなりマネージャーが連れてきた女性と一緒に住むなんて、考えられない。
他のメンバーがプロ彼女を受け入れる中、自分は「いらない」と断り続けていた。
だが、昨年、最も信頼する事務所の先輩である元クラウンの園田雅人が、プロ彼女だった人と結婚した。
過去にもプロ彼女と結婚した先輩はいたが、身近な先輩である園田の結婚には衝撃を受けた。
また、真那斗やサワからプロ彼女との生活を聞かされるうちに、こういう形で女性と出会うのもありかもしれない、と思えてきた。
そして、リンを飼い始めたのと同時に映画やドラマの仕事が忙しくなり、世話をしてくれる人が必要と考えるようになった。
修は真っ直ぐタクミを見た。
「こういうことは、なあなあになると後で揉めたりするから……ちゃんとルールを決めた方がいいと思う」
「ルールって?」
タクミも真っ直ぐ修を見上げる。
「玲奈さんは、タクミの部屋には入れない」
修の言葉にタクミは驚いた。
言葉の内容というよりも、修がこのようにきっぱり意見を言うのを久しぶりに聞いた。
「かけもちであっても、玲奈さんは修のプロ彼女だからってこと?」
修は真っ直ぐな目でゆっくり頷いた。
玲奈は、弱火でじっくり煮込んだ豚の角煮を一切れ口に運ぶ。
タクミに夕食についてメッセージすると、「取りに来る」と返信があったのでタッパーに詰める。
角煮と一緒に煮込んだ半熟卵もしっかり味が染みている。
以前修にもこの角煮を出したら、とても喜んで食べてくれたので、もう一度作ってみた。
「前回よりも、上手くできたかも」
ハチミツを入れたことで、味のコクと照りが出ている。
玲奈が料理を好きになったのは、就職して二年目くらいの時だった。
学生の頃は簡単にできる麺類などで済ませることが多かったが、スポーツ用品メーカーで仕事をすると、同僚や取引先の人たちが、自分が思った以上に健康や食事に気を遣っていることを知った。
特にプロのアスリートに直接話を聞いた時には、自分の食生活がいかに適当だったか思い知らされた。
まずはバランスの良い食事作りを心掛け、栄養価も意識するようになり、様々な食材を試したりしているうちに料理が楽しくなった。
そして、それを美味しく食べてくれる浩也を見てると嬉しくなった。
そのことを友人に話すと「あんたはお母さんか」と突っ込まれたことがある。
修とは姉弟みたいと言われた。
姉からお母さんに成り下がらないように気を付けないと、と思った。
インターホンが鳴り、リンが玄関に向かって走って行く。
爽やかに「こんばんは」と挨拶するタクミに少し緊張しつつ、タッパーを渡した。
「めっちゃいい匂いする。うまそう」
「わざわざ取りに来てもらって、ごめんなさい」
タクミは玲奈の背後を気にしながら「修はまだ?」と聞いてきた。
「うん、今日は遅くなるみたい」
「修が自己流ルールを曲げないからなぁ…」
タクミは半分あきれたような表情をしている。
修にタクミとのかけもちの話をしてから微妙な空気になってしまったが、先日、修から突然「ルールを決めようと思う」と提案があった。
「とりあえず、タクミの部屋には入らないで」
ルールと言うからもっと細かなことを決められるかと思ったが、その一点だけで、提案というより修の中では決定事項だった。
微妙な空気をどう打開しようと何日も考えていた玲奈は拍子抜けしてしまい、思わず「分かった」と答えてしまった。
タクミはすり寄って来たリンの頭を撫でながら玲奈を見上げる。
「玲奈さん、修からルールのこと言われて…どう思った?」
「え?…どうって…」
タクミは立ち上がってふっと笑う。
「いや、修は言葉が少ないから、大変じゃない?ってこと」
玲奈は首を傾げる。
「確かに修は言葉少ないけど、大変ってことはないかな…」
タクミはまた笑っている。
「修は案外単純だよ、玲奈さん」
そして、「ありがとう」と言って自分の部屋に帰って行った。

