アイドルのプロ彼女に転職しました

「社長、次の打ち合わせまで時間があるので、今のうちに食事をとりましょう」
 タクシーに乗り込んだ玲奈は、スマホでランチができそうな場所を検索する。
「玲奈さん、二人の時は社長って言うのやめてって言ってるじゃん」
 瑠加はさっきまでの真面目な表情とはうって変わって、リラックスした様子で鏡を見ながら前髪を整えている。
 玲奈もハンカチで額の汗を拭いた。
 この年も例年通り残暑は厳しく、九月になっても昼間は外を歩いてられないので、こうしてタクシーのお世話になってばかりいる。
「でも、普段から社長って言っておかないと、咄嗟の場面で出てこないような気がして」
「大丈夫だって。玲奈さんは有能な秘書だって、徐々に評判上がってるよ」
「ほんとに?それ、どこの評判?」
「この業界界隈の、評判」
 そう言って瑠加はいつものかわいい笑顔を向ける。
 大学の卒論を無事に提出した瑠加は、休む間もなく自身のコスメブランド立ち上げに取り掛かった。
 その時玲奈は秘書としてスカウトされたのだ。
 いつぞやのパーティーでの仮設定の「秘書」が現実になってしまった。
 瑠加は在学中から準備を始めていたものの、やることは盛りだくさんで、ここ半年間は二人で走り回ってきた。
 やはり、瑠加自身を広告塔にしてSNSでブランド展開したことが当たり、ようやく軌道に乗り始めた。
「マナティ、映画の主演決まったって」
 瑠加は優しい笑顔でスマホのメッセージ画面を見ている。
 あれから瑠加はマナティのプロ彼女の契約を解消し、マンションの部屋も出た。
 玲奈も修もなんとなくそんな予感はしていたが、やはり二人の契約解消はショックを隠せなかった。
 しかし、瑠加から聞かされた言葉に、驚いたような、安心したような、複雑な感情になった。
『とりあえず、お互い仕事に全力を注ぐことにした』
 瑠加の顔はスッキリしていた。
『この先マナティに別の彼女ができたら…私の気持ちはその時にはっきりすると思う。そんな人選んだら嫌だ、マナティは私のものだって、どうしようもない気持ちになったら、その時考える』
 それは略奪になるのでは、と玲奈は思ったが、瑠加ならその時の自分の気持ちに正直になるのだろうと、納得もできた。
『でもね…玲奈さん。マナティには私だけじゃなく、もっと他の人も知った方がいいんじゃないかって思ったりもするの。そんなの嫌だなって気持ちはあるのに、マナティの可能性を潰したくないっていう思いもあって…』
 玲奈はこの時、これが瑠加の愛情なのだと思った。
 マナティのことを大切に思っている、瑠加の愛情のかたちなのだと。
「あ…」
 玲奈は車窓の外の景色を見てあることを思い出した。
 タクシーを止めてもらう。
 青山の裏通りの住宅街に入ると、年季の入った喫茶店が見えた。
「あのお店?」
 瑠加は玲奈の頭の後ろからひょこっと顔を出し、今日のランチの目的地を見ている。
 広告塔でもある瑠加は、ただの打ち合わせでもファッションに気が抜けない。
 今日はパンツスタイルだが高めのヒールを履いているので、長い足がさらに強調されていて、やっぱり隣で並んで歩かれるのは気が引ける。
「はー、生き返ったぁ」
 瑠加はオムライスを一口頬張った後、タクシーの中よりもさらに緩んだ笑顔に戻った。
「このお店、私が土居さんと御子柴さんに出会った最初の場所なの」
 ここで二人から面接を受けた。
 プロ彼女にならないか、と提案を持ちかけられた場所。
 あの時はコーヒーしか飲まなかったが、二人が来る前メニューをチェックしており、食事も美味しそうだと思っていたのだ。
「しかし、渋いお店だよね。まあでも、あやしげな面接するには最適な場所かも」
 瑠加は店内を見回す。
 朝からほとんど食べていない、ということもあったが、玲奈の予想通り、昔ながらの正統派オムライスは美味しくてみるみる減っていった。
 玲奈のスマホが鳴った。
 修からのメッセージだ。
 今日は午後から仕事と言っていたので、そろそろ家を出る頃だろう。
 写真も送られてきた。
『ナスの煮びたし美味しくできた。冷蔵庫に蕎麦あるし、帰ったら食べて』
 玲奈の顔が緩む。
「修から?」
 玲奈が写真を見せると、瑠加は小声で「キャー」と言ってニヤリとする。
「修って料理できたんだね」
「なんか最近ちょこちょこ作ってくれるようになったの。元々センスあるほうだし、おいしいよ、修のごはん」
 玲奈はもう一度修が送ってくれた写真を見てほほ笑んだ。
 そして、アイスコーヒーを飲みながら面接の時に座ったテーブルに目をやる。
(あの時はまさかトップアイドルとこんなことになるとは、思わなかったな…)
 瑠加の仕事を手伝うようになった途端、みるみる忙しくなり、玲奈もプロ彼女の仕事をこのままやっていいかどうか考えた。
 もうすっかり家政婦状態からは脱却し、二人で恋人同士の時間も過ごすようになった。
 プロ彼女としてはこの状態で全く問題ないのだが、瑠加が契約解除という選択をしたことで、玲奈も「このままでいいのか」という思いが頭を巡った。
「ホント、修に愛されてるよね。てゆうか、修の独占欲があんなに強いなんて思ってもみなかった」
 瑠加の言う通りだった。
 瑠加の方の仕事が忙しくなってきたことで、これまでと同じ契約条件でプロ彼女の仕事を行うことに後ろめたい気持ちが生まれてしまったのだ。
 そのことを修に話すと、「契約解除しなくていい」、「この部屋にも居てほしい」という意見は断固として譲らなかったため、契約内容を変更し、報酬無しのプロ彼女として新たに契約を更新したのだった。
 あの時の修の必死になった顔を思い返して、玲奈はまたほほ笑む。
 マンションの部屋には夕日が差し込んできて、バリ島で二人で見たそれを思い出してドキドキしていた。
「玲奈さん、いくら修が年下だからってあんまり甘やかすのは良くないからね。たまにはビシッと言ってやらないと」
「別に甘やかしてるつもりはないよ。たまにハッとするほど大人な発言もすることあるし」
 そう言ってまたアイスコーヒーに手を伸ばすと、玲奈のスマホのアラームが鳴った。
「そろそろ行かないと」
 瑠加はその場に立ち上がって「さて、次も気合入れて頑張りますか」と、仕事モードの顔になった。
 玲奈も次の打ち合わせで話す内容を頭に呼び起こした。
 気持ちはワクワクしている。
 明日は修と一緒に晩御飯が食べられそうだ。
 瑠加とやっている仕事の、このワクワクする気持ちを聞いてもらおう。
 喫茶店から出た玲奈は、背筋を伸ばして足早に歩き出した。
 空にはまだ衰えそうもない九月の太陽が光り輝いていた。

【完】