アイドルのプロ彼女に転職しました

「修、まだ色々考え込んでんのか?」
 タクミはタオルで汗を拭きながら修の隣に座った。
 今日は事務所のスタジオでダンスの振り入れだ。
 真那斗は雑誌の撮影なので、四人で一時間ほど汗をかいている。
 タクミの問いかけに修は少しの間黙った後、口を開いた。
「あのさ…玲奈さんのことなんだけど」
 タクミは首をかしげる。
「玲奈さんのこと?マリエさんじゃなくて?」
「え?マリエ?」
 今度は修が首をかしげる。
「マリエさんのことで色々考えてたんじゃないの?」
「…いや、そういう訳じゃないけど…」
 アッキーが「次、始めるよ」と手を叩いた。
 タクミは水を一口飲み立ち上がる。
「終わったらちょっと話そうか」
 修は黙って頷いた。
 皆がスタジオを出た後、修とタクミだけ残った。
 修は昨日の玲奈の電話のことをずっと考えている。
 玲奈は電話相手と少し会話した後、すぐに車に戻ってきた。
 『ごめんね』と言いながら笑顔を向けてくれたが、明らかに動揺している様子だった。
 家族や仲の良い友達だったら、ためらいなく電話に出るはずだ。
 電話に出るのをためらい、『玲奈』と名前で呼ぶ男。
 そんな人は絞られてくる。
「プロ彼女ってさ、他に付き合ってる人がいたら契約違反になるわけ?」
 修の突然の質問に、タクミは戸惑う。
「は?付き合ってる人って…まさか、玲奈さんが?」
「ハッキリ聞いたわけじゃないけど、男と連絡取ってるっぽい」
 修は昨日の玲奈の電話のことを話した。
 タクミは「はぁ」と言って天井を見た。
「何の話かと思ったら、ただ男から電話があっただけだろ?ビックリするじゃんか」
「よく考えたら、俺、玲奈さんのことほとんど知らないな、と思って」
 項垂れる修を見て、タクミは微笑む。
「俺だって玲奈さんのことほとんど知らないよ。まあ、俺は食事作ってもらってるだけのプロ彼女だからね」
 そして、いつもの爽やかな笑顔を見せる。
「修は、玲奈さんとこれからどうなりたいと思ってるわけ?」
 修は考えながら答えた。
「できればずっと居てほしいと思ってる」
「それは、家事とリンの世話要員として?それとも彼女として?」
 修はタクミを真っ直ぐ見た。
「タクミは?」
 タクミも修の目を見る。
「俺の本当の彼女になってほしい…」
「え?」
 修は目を丸くする。
「って、言ったらどうする?」
 タクミはいつもの笑顔に戻った。
「タクミ、おまえ」
「冗談だって」
 修の表情はまだ硬い。
 タクミはペットボトルを握った。
「最初玲奈さんと会った時、いい感じの人だな、ぶっちゃけ修が羨ましいな、と思ってたよ。けど、今は正直、仕事に向き合いたいと思ってる」
「そっか」
「映画の仕事が決まりそうなんだ。しかも、アクションシーンもあるみたい」
 タクミの目は生き生きとしている。
「良かったな、タクミ」
 もう何年も前からアクションの演技をしたいと熱望していたのだ。
「だから、修。俺に遠慮することないから、玲奈さんとちゃんと向き合いなよ」
 修は真剣な顔で頷いた。
「でも、玲奈さんのごはん美味しいから、しばらく食事はお世話になりたいかな」
 修は「おまえなー」と言ってふっと笑う。
(タクミとのこの感覚、久しぶりだな)
「また悩みがあれば、俺にどんどん相談しなさい」
 タクミは笑顔で修の肩をポンポンとたたいた。
「ありがと。タクミ」
 その時スタジオのドアが開いた。
「おっ、二人ともまだ残ってたのか」
 そう言って穏やかな笑顔で入ってきたのは土居だった。
「今から帰ろうとしてたところ」
 タクミはそう言って立ち上がった。
「タクミはこの後打ち合わせな。車で待ってるし」
 そして土居は二人の顔を交互に見て言った。
「順調そうだな、二人とも」
 修とタクミはお互いの顔を見る。
 土居は「良き、良き」と笑顔で言いながらドアを閉めた。

「はー、重い」
 玲奈は両手一杯の買い物袋を持ち直し、バスを降りた。
 今日は以前よく行っていたデパートへ久しぶりに繰り出し、つい色々買ってしまったのだ。
 マネージャーの土居からはタクシーを使ってもいいと言われているが、もったいない精神が抜けずバスや電車を使ってしまう。
 だが、買い物したおかげでモヤモヤした気持ちが少しスッキリした。
 モヤモヤの原因は、先日かかってきた電話だ。
 玲奈が久しぶりに聞いた声の主は、別れた恋人、浩也だった。
『はぁ…出てくれてよかったよ』
 玲奈が電話に出ると、浩也は開口一番にこう言った。
『どうしたの?』
 玲奈は努めて冷静に声を発した。
 車で待ってる修のほうをチラッと見る。
『安否確認だよ。まさか会社辞めるなんて思ってなかったし、玲奈のマンションにも行ったんだけど、引き払ってたから』
『マンションにも行ったの?』
 安否確認て、そんな大げさな。
『とにかく私はちゃんと生きてるし、いまさら浩也に心配してもらうこともないから。じゃあね』
 玲奈は電話を切ろうとしたが、浩也は「ちょっと待ってくれ」と引き下がる。
『ほんとに大丈夫なのか?仕事してるんだよな?それ、ちゃんとした仕事なのか?』
 浩也は切羽詰まったような声で質問を投げかけてくる。
『何なの?私が何の仕事してようが浩也にはもう関係ないでしょ』
 一体何が言いたいのかさっぱり分からない。
『ある人に聞いたんだよ。玲奈が怪しげな仕事してるんじゃないかって』
『え?』
 玲奈は焦る。まさか、プロ彼女のことが、バレてる…?
『ある人って?』
 浩也の返答に少し間があった。
『それは…言えない』
『いったい何なの?憶測で私を振り回さないでくれる?とにかく、私は元気でやってるから、じゃあね』
 「待って」という浩也の言葉を遮って、玲奈は電話を切った。
 浩也は誰に何を聞いたのだろうか?
 確かに「プロ彼女」は怪しげな仕事ではある。
 浩也なら事情を話して口止めすれば黙ってくれると思うが、今の電話の感じだと、玲奈が望まない仕事をさせられていると思っているようだ。
 マンションのエントランス前に着くと、植え込みの背後に人の影が見えた。
 玲奈は瑠加の言葉を思い出す。
 人影はこちらに気づいたようで、隣のマンションの方に足を向けた。
 帽子を被った女性だ。
 玲奈は持っていた荷物をその場に置き「待って」と叫んだ。
 しかし、女性は立ち止まることなく走って行ってしまった。
「玲奈さん?」
 不意に背後から声をかけられてビクッとする。
 振り返るとキャップを被ったタクミが不思議そうな顔をしていた。
「タクミくん」
「急に声かけてごめん。大丈夫?」
 タクミは玲奈の顔を覗き込む。
 玲奈は周りを見て誰もいないことを確認してから、「中で話そう」と言って荷物を持った。
 タクミも黙って頷いて荷物を半分持ってくれる。
 修の部屋の前まで着くと、玲奈は先ほどの人影のこと、以前瑠加が見た人物のことを話した。
「さっきの人に心当たりは?」
 タクミの質問に玲奈は首を横に振る。
「たぶん私に関係する人なんだと思う…さっきも私の姿を見て逃げ出したのかも…」
「相手が女性だからって油断しないで、十分気を付けてね」
 タクミはそう言った後、いつもの笑顔を向けた。玲奈を少しでも落ち着かせるために。
「俺から土居さんに報告しておこうか?あと、修にも」
「…修には、まだ言わないでほしい」
「けど…」
 タクミは真剣な顔の玲奈を見て言葉を詰まらせた。
「もし私に関することだったら…修に迷惑かけられないよ…」
 タクミは思わず天を仰いだ。
(玲奈さんは俺のプロ彼女でもあるんだけど、な…)
「でも、マジで何かおかしいことがあったら、修でも俺でもいいし、ちゃんと言ってね」
「うん、ありがとう。土居さんには私から報告するね」
 その後、今日の夕食を届ける話をして、タクミは修の部屋を後にした。
「そろそろ潮時かな…」
 そう独り言を言いながらも、タクミの表情はスッキリしていた。