先程までざわざわしていた会場が、暗くなった瞬間、静まり返った。
スクリーンにカウントダウンの数字が表示されると、一気に歓声が沸き起こる。
推しうちわやペンライトが振られる。
カウントダウンが終わると同時に、会場の五つの箇所にスポットライトが照らされた。
歓声がひときわ大きくなる。
曲が始まると、スポットライトの当たる場所からそれぞれメンバーが姿を現した。
会場の歓声は割れんばかりだ。
興奮して飛び跳ねている人、うちわをアピールしている人、タオルを目に当てて泣いている人もいる。
玲奈の目は、青い衣装に身を包んだ北浜修を追いかけた。
長く伸びた足、はっきりした目鼻立ち。
その小さな顔から放たれる笑顔と、時々垣間見える色気。
玲奈が初めて生で見る「アイドル」そのものだった。
この人の「プロ彼女」に転職しないか、とスカウトされたのだ。
二か月前。
定時で仕事が終わった梅田玲奈は、待ち合わせ場所のカフェに向かっていた。
同じ会社の同期で恋人の坂口浩也と久しぶりに会う。
通りがかったコスメショップのショウウインドウの前に立ち、髪をチェックした。
長く真っ直ぐ伸びた黒髪、パンツスーツに低めのヒール。
玲奈のいつもの通勤スタイルだ。
浩也と付き合った当初はスカートで会うことの方が多かったが、一年半も経つと、相手がそれほど服装にこだわっていないことを知った。
それに玲奈は、いかにもデート服、というスタイルで出社するのが苦手だった。
自意識過剰と言われるかもしれないが、そんな浮かれた感じの自分を職場の人に見せるのが恥ずかしいと思っていたのだ。
大手スポーツ用品メーカーの営業部で働く浩也と、二年前から秘書課に配属された玲奈はお互い忙しく、特にここ数か月はデートした日も数えるほどだった。
それでも、同じ職場で同期ということもあり、互いの大変さは分かっているし、理解もできた。
カフェに入って店内を見回すと、奥のテーブルに浩也が座っていた。
(え…?)
なぜか隣には秘書課の後輩である菜月も座っている。
浩也が玲奈に気づき、手を上げる。
いつもの健康的な笑顔は無かった。
二人のテーブルに近づくと、菜月が泣きそうな顔をして玲奈を見上げた。
「とりあえず、座って…」
浩也が今まで聞いたことのないような静かな声で言った。
玲奈は二人の向かいの席に座る。
小さなテーブルを挟んでいるだけなのに、二人との距離がものすごく遠く感じた。
「ごめん」
浩也が頭を下げた。
それを見て菜月も頭を下げる。カールした茶色い髪がふわりと揺れた。
「玲奈、俺と別れてほしい」
目の前が一瞬真っ暗になった。
「先輩、ごめんなさい。私、浩也さんのこと好きになってしまいました」
すかさず菜月がはっきりとした口調で割って入ってきた。
浩也は目を丸くして菜月を見た。そしてすぐにその目は穏やかになった。
玲奈は目線を下に落とす。
菜月の細い指に綺麗に塗られたピンク色のネイルが目に入った。
自分で塗った爪と見比べる。
そういや最後にネイルサロンに行ったのはいつだったか。
「いつから?」
玲奈は驚くほど冷静に尋ねている自分に驚いた。
「夏にあった部署間交流会で連絡取るようになって、それから…色々と相談に乗ってもらっているうちに…」
浩也は小さく深呼吸してからこう続けた。
「俺も菜月ちゃんのこと、好きになった」
菜月は潤んだ瞳で浩也を見た。
カールした髪と一緒に、小さなハート形のピアスも揺れた。
玲奈は小さくため息をつく。
浩也の真っ直ぐで誠実な目を、いつから見ていないだろう。
自分の彼氏が新たに恋をしている場面に、今、居るのだ。
玲奈はもう何も言えなかった。
「分かった、別れましょう。今までありがとう」
今から思えば、よく冷静に言えたと思う。
でも、公共の場で、しかも同じ職場の後輩の前で、取り乱すことはできなかった。
玲奈は静かにカフェのドアを閉めた。
しばらく歩くと、涙が頬を伝ってきた。
その後の職場は、最悪だった。
別部署の浩也とは滅多に会わないが、斜め前の席の菜月が嫌でも目に入る。
しかも、ネックレスやピアスを見えるように着けてきては、周りからの「それってプレゼントでしょ?」という言葉を待っているようだった。
金曜日には明らかなデート服スタイルで出社し、「今日は隣の駅前にできたイタリアン行くんです」と、聞いてもいないのに玲奈に告げて、スキップするように更衣室を出て行った。
よく考えたら、別れ話の席に菜月が来る必要はなかったはずだ。
浩也が「一緒に来てくれ」なんて言うはずもないし、菜月から付いていくことを申し出たのだろう。
先輩である玲奈にマウントを取るために。
(転職しようかな…)
一週間ほど前から「転職」の二文字が頭を過り始めた。
浩也と付き合って一年半。
二十八歳になった玲奈は、忙しいながらもなんとなく結婚を意識し始めていた。
久しぶりに「会いたい」と浩也からメッセージが届いて、もしかしたら、と淡い期待もしていた。
だが、久しぶりに会った浩也は、よりにもよって後輩と恋愛を始めてしまっていた。
玲奈はスマホを取り出し、転職サイトの画面を開く。
二年前に配属された秘書課。
最初は戸惑いの方が強かったが、今はこの仕事が好きになった。
スケジュールを調整し、それが滞りなく遂行された時の達成感がたまらなかった。
秘書として担当する上司、取引先、関係者についてできるだけ情報を入手し、その人、その業務に一番適したやり方を考えるのが楽しかった。
秘書の仕事がしたい。
でもそれは、今の会社でなくてもできるかもしれない。
画面をスクロールしていると、ふと目に留まった求人欄があった。
スクリーンにカウントダウンの数字が表示されると、一気に歓声が沸き起こる。
推しうちわやペンライトが振られる。
カウントダウンが終わると同時に、会場の五つの箇所にスポットライトが照らされた。
歓声がひときわ大きくなる。
曲が始まると、スポットライトの当たる場所からそれぞれメンバーが姿を現した。
会場の歓声は割れんばかりだ。
興奮して飛び跳ねている人、うちわをアピールしている人、タオルを目に当てて泣いている人もいる。
玲奈の目は、青い衣装に身を包んだ北浜修を追いかけた。
長く伸びた足、はっきりした目鼻立ち。
その小さな顔から放たれる笑顔と、時々垣間見える色気。
玲奈が初めて生で見る「アイドル」そのものだった。
この人の「プロ彼女」に転職しないか、とスカウトされたのだ。
二か月前。
定時で仕事が終わった梅田玲奈は、待ち合わせ場所のカフェに向かっていた。
同じ会社の同期で恋人の坂口浩也と久しぶりに会う。
通りがかったコスメショップのショウウインドウの前に立ち、髪をチェックした。
長く真っ直ぐ伸びた黒髪、パンツスーツに低めのヒール。
玲奈のいつもの通勤スタイルだ。
浩也と付き合った当初はスカートで会うことの方が多かったが、一年半も経つと、相手がそれほど服装にこだわっていないことを知った。
それに玲奈は、いかにもデート服、というスタイルで出社するのが苦手だった。
自意識過剰と言われるかもしれないが、そんな浮かれた感じの自分を職場の人に見せるのが恥ずかしいと思っていたのだ。
大手スポーツ用品メーカーの営業部で働く浩也と、二年前から秘書課に配属された玲奈はお互い忙しく、特にここ数か月はデートした日も数えるほどだった。
それでも、同じ職場で同期ということもあり、互いの大変さは分かっているし、理解もできた。
カフェに入って店内を見回すと、奥のテーブルに浩也が座っていた。
(え…?)
なぜか隣には秘書課の後輩である菜月も座っている。
浩也が玲奈に気づき、手を上げる。
いつもの健康的な笑顔は無かった。
二人のテーブルに近づくと、菜月が泣きそうな顔をして玲奈を見上げた。
「とりあえず、座って…」
浩也が今まで聞いたことのないような静かな声で言った。
玲奈は二人の向かいの席に座る。
小さなテーブルを挟んでいるだけなのに、二人との距離がものすごく遠く感じた。
「ごめん」
浩也が頭を下げた。
それを見て菜月も頭を下げる。カールした茶色い髪がふわりと揺れた。
「玲奈、俺と別れてほしい」
目の前が一瞬真っ暗になった。
「先輩、ごめんなさい。私、浩也さんのこと好きになってしまいました」
すかさず菜月がはっきりとした口調で割って入ってきた。
浩也は目を丸くして菜月を見た。そしてすぐにその目は穏やかになった。
玲奈は目線を下に落とす。
菜月の細い指に綺麗に塗られたピンク色のネイルが目に入った。
自分で塗った爪と見比べる。
そういや最後にネイルサロンに行ったのはいつだったか。
「いつから?」
玲奈は驚くほど冷静に尋ねている自分に驚いた。
「夏にあった部署間交流会で連絡取るようになって、それから…色々と相談に乗ってもらっているうちに…」
浩也は小さく深呼吸してからこう続けた。
「俺も菜月ちゃんのこと、好きになった」
菜月は潤んだ瞳で浩也を見た。
カールした髪と一緒に、小さなハート形のピアスも揺れた。
玲奈は小さくため息をつく。
浩也の真っ直ぐで誠実な目を、いつから見ていないだろう。
自分の彼氏が新たに恋をしている場面に、今、居るのだ。
玲奈はもう何も言えなかった。
「分かった、別れましょう。今までありがとう」
今から思えば、よく冷静に言えたと思う。
でも、公共の場で、しかも同じ職場の後輩の前で、取り乱すことはできなかった。
玲奈は静かにカフェのドアを閉めた。
しばらく歩くと、涙が頬を伝ってきた。
その後の職場は、最悪だった。
別部署の浩也とは滅多に会わないが、斜め前の席の菜月が嫌でも目に入る。
しかも、ネックレスやピアスを見えるように着けてきては、周りからの「それってプレゼントでしょ?」という言葉を待っているようだった。
金曜日には明らかなデート服スタイルで出社し、「今日は隣の駅前にできたイタリアン行くんです」と、聞いてもいないのに玲奈に告げて、スキップするように更衣室を出て行った。
よく考えたら、別れ話の席に菜月が来る必要はなかったはずだ。
浩也が「一緒に来てくれ」なんて言うはずもないし、菜月から付いていくことを申し出たのだろう。
先輩である玲奈にマウントを取るために。
(転職しようかな…)
一週間ほど前から「転職」の二文字が頭を過り始めた。
浩也と付き合って一年半。
二十八歳になった玲奈は、忙しいながらもなんとなく結婚を意識し始めていた。
久しぶりに「会いたい」と浩也からメッセージが届いて、もしかしたら、と淡い期待もしていた。
だが、久しぶりに会った浩也は、よりにもよって後輩と恋愛を始めてしまっていた。
玲奈はスマホを取り出し、転職サイトの画面を開く。
二年前に配属された秘書課。
最初は戸惑いの方が強かったが、今はこの仕事が好きになった。
スケジュールを調整し、それが滞りなく遂行された時の達成感がたまらなかった。
秘書として担当する上司、取引先、関係者についてできるだけ情報を入手し、その人、その業務に一番適したやり方を考えるのが楽しかった。
秘書の仕事がしたい。
でもそれは、今の会社でなくてもできるかもしれない。
画面をスクロールしていると、ふと目に留まった求人欄があった。

