「先生」
私は痛みをこらえて、声を出した。
橘さんが入口へ向かう気配がする。
遠くで、真鍋先輩の足音が響く。
倉庫の空気が、ざわざわと揺れている。
でも私の世界は、目の前の沢渡先生に絞られていた。
「先生、私は生きています」
先生の喉が、大きく動いた。
呼吸が乱れている。
目の焦点が、私の腕と顔の間で揺れる。
私は、もう一度言った。
「見なくていいです。私の声だけ聞いてください」
先生の指が、震えた。
「今井……」
その声だけで、痛みでふらつきそうな意識が、こちらへ引き戻される。
「はい。ここにいます」
「……血が」
「浅いです。大丈夫です」
「大丈夫かどうかは、君が決めるな」
こんな時まで、先生らしい言葉が出る。
けれど声は震えていた。
沢渡先生は一歩、私に近づいた。
でも、血が見えた瞬間にまた足が止まる。
顔色がさらに悪くなる。
呼吸が荒くなる。
逃げたいのだとわかった。
視線を逸らしたい。
ここから離れたい。
生きている人間の血を、見たくない。
その全部が、先生の体から伝わってくる。
それでも、先生は動いた。
震える手でコートの内側を探り、清潔なハンカチを取り出す。
視線は、私の顔に固定している。
血を直接見ないように。
でも、完全に逃げないように。
「真鍋刑事!」
先生が叫んだ。
冷たいはずの声が、必死だった。
「救急要請。右前腕外側の裂創。出血は持続しているが、意識あり。橘は入口側だ、確保を優先しろ!」
『了解!』
奥から真鍋先輩の声が返る。
同時に、倉庫入口側で複数の足音が響いた。
警察官の声。
橘さんの短い悲鳴。
端末か何かが床に落ちる音。
でも沢渡先生は、そちらを見なかった。
先生は私の前に膝をついた。
顔色は悪い。
唇から血の気が引いている。
手は震えている。
でも、その手は私に伸びた。
「今井」
「はい」
「腕を、少し上げられるか」
「できます」
「俺の声を聞け」
「聞いてます」
「痛みは」
「あります。でも、平気です」
「平気は診断名じゃない」
その言葉に、私は泣きそうなのに笑いそうになった。
先生の手が、ハンカチを私の腕へ当てる。
その瞬間、先生の体がびくりと震えた。
血が布へ滲む。
白い布に赤が広がる。
先生の呼吸が止まりかける。
「先生」
私が呼ぶと、先生は目を閉じそうになった。
でも、閉じなかった。
震える声で、低く言った。
「怖い」
その一言に、胸が締めつけられた。
氷の法医学者。
誰の前でも完璧に見える人。
感情を見せず、合理性で世界を切り分ける人。
その人が、私の前でだけ、恐怖を言葉にした。
「怖い……だが、君を失う方が怖い」
私は息を止めた。
痛みも、倉庫の喧騒も、一瞬遠のいた。
先生の手が、私の腕を押さえる。
震えている。
けれど、離れない。
「先生……」
「君の血を、これ以上見たくない」
先生の声が、かすかに掠れた。
「だから、止める」
布越しに圧がかかる。
痛い。
でも、その痛みよりも、先生の手の震えが強く胸に響いた。
この人は、克服したわけじゃない。
血が平気になったわけじゃない。
今も怖い。
逃げたい。
過去に引き戻されて、息をするのも苦しいはずなのに。
それでも、私のために動いている。
その特別さが、怖いくらい胸を満たしていく。
私は痛みをこらえて、声を出した。
橘さんが入口へ向かう気配がする。
遠くで、真鍋先輩の足音が響く。
倉庫の空気が、ざわざわと揺れている。
でも私の世界は、目の前の沢渡先生に絞られていた。
「先生、私は生きています」
先生の喉が、大きく動いた。
呼吸が乱れている。
目の焦点が、私の腕と顔の間で揺れる。
私は、もう一度言った。
「見なくていいです。私の声だけ聞いてください」
先生の指が、震えた。
「今井……」
その声だけで、痛みでふらつきそうな意識が、こちらへ引き戻される。
「はい。ここにいます」
「……血が」
「浅いです。大丈夫です」
「大丈夫かどうかは、君が決めるな」
こんな時まで、先生らしい言葉が出る。
けれど声は震えていた。
沢渡先生は一歩、私に近づいた。
でも、血が見えた瞬間にまた足が止まる。
顔色がさらに悪くなる。
呼吸が荒くなる。
逃げたいのだとわかった。
視線を逸らしたい。
ここから離れたい。
生きている人間の血を、見たくない。
その全部が、先生の体から伝わってくる。
それでも、先生は動いた。
震える手でコートの内側を探り、清潔なハンカチを取り出す。
視線は、私の顔に固定している。
血を直接見ないように。
でも、完全に逃げないように。
「真鍋刑事!」
先生が叫んだ。
冷たいはずの声が、必死だった。
「救急要請。右前腕外側の裂創。出血は持続しているが、意識あり。橘は入口側だ、確保を優先しろ!」
『了解!』
奥から真鍋先輩の声が返る。
同時に、倉庫入口側で複数の足音が響いた。
警察官の声。
橘さんの短い悲鳴。
端末か何かが床に落ちる音。
でも沢渡先生は、そちらを見なかった。
先生は私の前に膝をついた。
顔色は悪い。
唇から血の気が引いている。
手は震えている。
でも、その手は私に伸びた。
「今井」
「はい」
「腕を、少し上げられるか」
「できます」
「俺の声を聞け」
「聞いてます」
「痛みは」
「あります。でも、平気です」
「平気は診断名じゃない」
その言葉に、私は泣きそうなのに笑いそうになった。
先生の手が、ハンカチを私の腕へ当てる。
その瞬間、先生の体がびくりと震えた。
血が布へ滲む。
白い布に赤が広がる。
先生の呼吸が止まりかける。
「先生」
私が呼ぶと、先生は目を閉じそうになった。
でも、閉じなかった。
震える声で、低く言った。
「怖い」
その一言に、胸が締めつけられた。
氷の法医学者。
誰の前でも完璧に見える人。
感情を見せず、合理性で世界を切り分ける人。
その人が、私の前でだけ、恐怖を言葉にした。
「怖い……だが、君を失う方が怖い」
私は息を止めた。
痛みも、倉庫の喧騒も、一瞬遠のいた。
先生の手が、私の腕を押さえる。
震えている。
けれど、離れない。
「先生……」
「君の血を、これ以上見たくない」
先生の声が、かすかに掠れた。
「だから、止める」
布越しに圧がかかる。
痛い。
でも、その痛みよりも、先生の手の震えが強く胸に響いた。
この人は、克服したわけじゃない。
血が平気になったわけじゃない。
今も怖い。
逃げたい。
過去に引き戻されて、息をするのも苦しいはずなのに。
それでも、私のために動いている。
その特別さが、怖いくらい胸を満たしていく。



