「橘さん」
私は、まっすぐ彼女を見た。
「神崎さんが記録を改ざんしたという客観的な証拠は、どこにありますか」
「それは……端末のログを見れば」
「その端末を持っているのは、あなたですね」
橘さんの手が、訪問バッグの紐を強く握った。
私は続けた。
「藤堂さんの家に行ったのも、あなたなんですか」
「違います」
即答だった。
早すぎた。
沢渡先生が言った。
「今の否定は早い」
私が言われてきたことを、今度は橘さんが言われている。
橘さんの顔から、少しずつ怯えが剥がれていく。
「ひどいですね」
橘さんが、小さく笑った。
それは、これまで聞いたことのない声だった。
怯えた看護師の声ではない。
疲れた医療者の声でもない。
追い詰められた人が、最後に開き直る直前の、硬い声。
「私があんなに話したのに。今井さんは、信じてくれていると思っていました」
胸を突かれた。
信じかけていた。
いや、守ろうとしていた。
神崎さんが怖いと言われて、私は橘さんの側に立ちたいと思った。
弱い人を守りたい。
怯えている人を助けたい。
その気持ちは、本物だった。
けれど橘さんは、それを見抜いていたのだ。
私の正義感を。
私の危うさを。
そして、それを利用した。
「私を、利用したんですか」
私の声は震えていた。
怒りなのか、悔しさなのか、自分でもわからない。
橘さんは肩をすくめた。
「利用だなんて。刑事さんは、困っている人を助けるのがお仕事でしょう?」
その言葉に、胃の奥が冷えた。
沢渡先生が一歩、私の前に出そうとした。
けれど私は、逃げなかった。
ここで先生の後ろに隠れたら、私は自分の失敗から目を逸らすことになる。
「神崎さんは、事件とは関係ないんですね」
私が言うと、橘さんは沈黙した。
その沈黙が、答えだった。
「薬剤配送を操作していたという話も、電子記録を消していたという話も、封筒を持っていたという話も……全部、あなたが作ったんですか」
「全部じゃありません」
橘さんは、唇を歪めた。
「神崎さんは、厳しい人です。細かいことにうるさくて、現場のミスをすぐ見抜く。私の記録漏れにも気づいていた。だから怖かったのは本当です」
「怖かったのは、嘘を見抜かれるからですか」
私は言った。
橘さんの目が、鋭くなる。
「看護の現場を、何も知らないくせに」
声に怒りが混じった。
「訪問先では、予定通りにいかないことばかりです。薬を飲んだと言った患者さんが、実は飲んでいなかったり。家族が勝手に薬を動かしていたり。忙しくて記録が後回しになることもある。服薬確認を見落とすことだって、絶対にないとは言えない」
「だから、隠したんですか」
「最初は、ただのミスでした。一件目の佐伯が死んだのだって、本当に偶然だった」
橘さんは、早口になっていった。
「服薬確認の抜け。記録漏れ。判断ミス。少し整えれば私のせいだったとバレずに済むと思ったんです。誰も困らない。患者さんにも、施設にも、クリニックにも迷惑はかからない。そう思っただけなのに」
そう思っただけ。
「それから、どんどん辻褄を合わせるのが大変になっていって、二件目の小沢の薬の管理でまたミスってしまった」
その軽さに、胸の奥がひどく痛んだ。
「三件目の夏目莉子さんが、あなたの行動に気づいた?」
沢渡先生が静かに言った。
橘さんの表情が、ぴくりと動く。
「彼女は薬剤管理画面を撮影した。あなたの記録と実際の薬剤が違うことに気づいた」
「ええ、余計なことしてくれちゃって、うんざりしたわ。だから、彼女が欲しがっていた睡眠導入剤をわざと多めに融通したの」
「藤堂誠司さんは?」
「あの男には迷惑していたわ。好き勝手に欲しい薬とか言ってきて……。そんなわがまま言ってこなければ、私はもっとうまくやれていた」
橘さんは呟いた。
私は拳を握った。
「橘さん。あなたは、自分のミスと隠蔽が明るみに出るのを恐れて、被害者たちの口を封じようとしたんですね」
橘さんの目が、冷たく私を見た。
「言い方が悪いですね。私は、ただ守りたかったんです」
「何をですか」
「白峰メディカルケアを。患者さんたちの信頼を。自分の仕事を」
「違います」
私は首を振った。
「あなたが守りたかったのは、自分です」
言った瞬間、橘さんの顔が変わった。
怯えは完全に消えていた。
そこにいたのは、責任感のある看護師でも、脅されている証言者でもない。
自分の過ちを隠すために、他人を利用した人だった。
私は、まっすぐ彼女を見た。
「神崎さんが記録を改ざんしたという客観的な証拠は、どこにありますか」
「それは……端末のログを見れば」
「その端末を持っているのは、あなたですね」
橘さんの手が、訪問バッグの紐を強く握った。
私は続けた。
「藤堂さんの家に行ったのも、あなたなんですか」
「違います」
即答だった。
早すぎた。
沢渡先生が言った。
「今の否定は早い」
私が言われてきたことを、今度は橘さんが言われている。
橘さんの顔から、少しずつ怯えが剥がれていく。
「ひどいですね」
橘さんが、小さく笑った。
それは、これまで聞いたことのない声だった。
怯えた看護師の声ではない。
疲れた医療者の声でもない。
追い詰められた人が、最後に開き直る直前の、硬い声。
「私があんなに話したのに。今井さんは、信じてくれていると思っていました」
胸を突かれた。
信じかけていた。
いや、守ろうとしていた。
神崎さんが怖いと言われて、私は橘さんの側に立ちたいと思った。
弱い人を守りたい。
怯えている人を助けたい。
その気持ちは、本物だった。
けれど橘さんは、それを見抜いていたのだ。
私の正義感を。
私の危うさを。
そして、それを利用した。
「私を、利用したんですか」
私の声は震えていた。
怒りなのか、悔しさなのか、自分でもわからない。
橘さんは肩をすくめた。
「利用だなんて。刑事さんは、困っている人を助けるのがお仕事でしょう?」
その言葉に、胃の奥が冷えた。
沢渡先生が一歩、私の前に出そうとした。
けれど私は、逃げなかった。
ここで先生の後ろに隠れたら、私は自分の失敗から目を逸らすことになる。
「神崎さんは、事件とは関係ないんですね」
私が言うと、橘さんは沈黙した。
その沈黙が、答えだった。
「薬剤配送を操作していたという話も、電子記録を消していたという話も、封筒を持っていたという話も……全部、あなたが作ったんですか」
「全部じゃありません」
橘さんは、唇を歪めた。
「神崎さんは、厳しい人です。細かいことにうるさくて、現場のミスをすぐ見抜く。私の記録漏れにも気づいていた。だから怖かったのは本当です」
「怖かったのは、嘘を見抜かれるからですか」
私は言った。
橘さんの目が、鋭くなる。
「看護の現場を、何も知らないくせに」
声に怒りが混じった。
「訪問先では、予定通りにいかないことばかりです。薬を飲んだと言った患者さんが、実は飲んでいなかったり。家族が勝手に薬を動かしていたり。忙しくて記録が後回しになることもある。服薬確認を見落とすことだって、絶対にないとは言えない」
「だから、隠したんですか」
「最初は、ただのミスでした。一件目の佐伯が死んだのだって、本当に偶然だった」
橘さんは、早口になっていった。
「服薬確認の抜け。記録漏れ。判断ミス。少し整えれば私のせいだったとバレずに済むと思ったんです。誰も困らない。患者さんにも、施設にも、クリニックにも迷惑はかからない。そう思っただけなのに」
そう思っただけ。
「それから、どんどん辻褄を合わせるのが大変になっていって、二件目の小沢の薬の管理でまたミスってしまった」
その軽さに、胸の奥がひどく痛んだ。
「三件目の夏目莉子さんが、あなたの行動に気づいた?」
沢渡先生が静かに言った。
橘さんの表情が、ぴくりと動く。
「彼女は薬剤管理画面を撮影した。あなたの記録と実際の薬剤が違うことに気づいた」
「ええ、余計なことしてくれちゃって、うんざりしたわ。だから、彼女が欲しがっていた睡眠導入剤をわざと多めに融通したの」
「藤堂誠司さんは?」
「あの男には迷惑していたわ。好き勝手に欲しい薬とか言ってきて……。そんなわがまま言ってこなければ、私はもっとうまくやれていた」
橘さんは呟いた。
私は拳を握った。
「橘さん。あなたは、自分のミスと隠蔽が明るみに出るのを恐れて、被害者たちの口を封じようとしたんですね」
橘さんの目が、冷たく私を見た。
「言い方が悪いですね。私は、ただ守りたかったんです」
「何をですか」
「白峰メディカルケアを。患者さんたちの信頼を。自分の仕事を」
「違います」
私は首を振った。
「あなたが守りたかったのは、自分です」
言った瞬間、橘さんの顔が変わった。
怯えは完全に消えていた。
そこにいたのは、責任感のある看護師でも、脅されている証言者でもない。
自分の過ちを隠すために、他人を利用した人だった。



