雨が強くなってきたので、私たちは近くの閉店した花屋の軒下へ駆け込んだ。
シャッターの前に、雨の匂いが立ちこめている。
細い軒は狭く、自然と距離が近くなる。
肩が触れそうで、触れない。
先生のコートの袖から、消毒薬と雨の匂いが混じってした。
甘くはない。
でも、なぜか落ち着かない。
「濡れましたね」
私が言うと、先生は私の前髪を一瞥した。
「君は傘を持たないのか」
「朝は降ってなかったので」
「天気予報は見るものだ」
「先生は持ってるんですか」
先生は無言で、細い折り畳み傘をコートの内側から出した。
「持ってるなら早く言ってください」
「予報通りなら、走るより待った方がいい」
「合理的ですね」
「当然だ」
先生は傘を開かず、手に持ったまま雨を見ている。
その横顔は、相変わらず感情が読みづらい。
けれど、さっき私の腕を掴んだ手の温度を思い出すと、もう完全な氷には見えなかった。
「先生は」
私は雨を見ながら言った。
「どうして法医学者になったんですか」
先生の視線が、少しだけこちらに向いた。
「唐突だな」
「雨宿り中なので」
「理由になっていない」
「答えたくなければ、そう言ってください」
先生はしばらく黙った。
雨音だけが、二人の間を埋める。
「死者は嘘をつかないからだ」
低い声だった。
私は先生を見た。
「生きてる人間は?」
先生は雨の向こうを見たまま、少しだけ目を細めた。
「……嘘をつく。傷つく。血を流す」
その言葉だけ、空気の温度が変わった。
私は昨日の処置室を思い出す。
藤堂さんの腕。
白いシーツの赤。
先生の乱れた呼吸。
「だから怖いんですか」
聞いた瞬間、踏み込みすぎたと思った。
でも、もう遅い。
先生は私を見た。
怒っているようには見えなかった。
ただ、近づきすぎた線を、静かに指で示された気がした。
「質問が多い」
それだけだった。
答えではない。
拒絶でもない。
扉の前に立たせてもらえたけれど、開けてもらえなかった。
そんな感じがした。
「刑事なので」
私は小さく返す。
「便利な言葉だな」
「先生の合理的と同じです」
先生は、ほんのわずかに口元を動かした。
「腕は痛むか」
不意に聞かれた。
「平気です」
「平気は診断名ではない」
「先生、本当によく見てますね。死者だけじゃなくて」
私が言うと、先生は少し間を置いた。
「見えるものは見る」
「生きている人間でも?」
「必要なら」
その言い方が、先生らしくて。
でも、胸の奥が少しだけ温かくなった。
この人は、生きている人間を怖がっている。
嘘をつき、傷つき、血を流すものとして。
それなのに、本当は誰よりも、生きている人を見ているのかもしれない。
怖いから見ないのではなく。
怖いから、見逃さないようにしているのかもしれない。
シャッターの前に、雨の匂いが立ちこめている。
細い軒は狭く、自然と距離が近くなる。
肩が触れそうで、触れない。
先生のコートの袖から、消毒薬と雨の匂いが混じってした。
甘くはない。
でも、なぜか落ち着かない。
「濡れましたね」
私が言うと、先生は私の前髪を一瞥した。
「君は傘を持たないのか」
「朝は降ってなかったので」
「天気予報は見るものだ」
「先生は持ってるんですか」
先生は無言で、細い折り畳み傘をコートの内側から出した。
「持ってるなら早く言ってください」
「予報通りなら、走るより待った方がいい」
「合理的ですね」
「当然だ」
先生は傘を開かず、手に持ったまま雨を見ている。
その横顔は、相変わらず感情が読みづらい。
けれど、さっき私の腕を掴んだ手の温度を思い出すと、もう完全な氷には見えなかった。
「先生は」
私は雨を見ながら言った。
「どうして法医学者になったんですか」
先生の視線が、少しだけこちらに向いた。
「唐突だな」
「雨宿り中なので」
「理由になっていない」
「答えたくなければ、そう言ってください」
先生はしばらく黙った。
雨音だけが、二人の間を埋める。
「死者は嘘をつかないからだ」
低い声だった。
私は先生を見た。
「生きてる人間は?」
先生は雨の向こうを見たまま、少しだけ目を細めた。
「……嘘をつく。傷つく。血を流す」
その言葉だけ、空気の温度が変わった。
私は昨日の処置室を思い出す。
藤堂さんの腕。
白いシーツの赤。
先生の乱れた呼吸。
「だから怖いんですか」
聞いた瞬間、踏み込みすぎたと思った。
でも、もう遅い。
先生は私を見た。
怒っているようには見えなかった。
ただ、近づきすぎた線を、静かに指で示された気がした。
「質問が多い」
それだけだった。
答えではない。
拒絶でもない。
扉の前に立たせてもらえたけれど、開けてもらえなかった。
そんな感じがした。
「刑事なので」
私は小さく返す。
「便利な言葉だな」
「先生の合理的と同じです」
先生は、ほんのわずかに口元を動かした。
「腕は痛むか」
不意に聞かれた。
「平気です」
「平気は診断名ではない」
「先生、本当によく見てますね。死者だけじゃなくて」
私が言うと、先生は少し間を置いた。
「見えるものは見る」
「生きている人間でも?」
「必要なら」
その言い方が、先生らしくて。
でも、胸の奥が少しだけ温かくなった。
この人は、生きている人間を怖がっている。
嘘をつき、傷つき、血を流すものとして。
それなのに、本当は誰よりも、生きている人を見ているのかもしれない。
怖いから見ないのではなく。
怖いから、見逃さないようにしているのかもしれない。



