病院の廊下は、監察医務院とは違う匂いがした。
消毒薬。
人の体温。
足早に通り過ぎる看護師の靴音。
どこかで小さく鳴る電子音。
死者のために整えられた白ではなく、生きている人をつなぎ止めるための白だった。
私はその白さの中を、沢渡先生の背中を追って走った。
「藤堂さんのフルネームは確認できていますか」
「藤堂誠司、五十八歳です。白峰メディカルケアの患者で、今朝訪問予定だったと橘さんが」
「既往歴」
「まだ詳細は取れていません。受付の話では、糖尿病と不眠の相談歴があるそうです」
「家族構成」
「妻と二人暮らし。救急要請は奥さんからです」
答えながら、私は先生の横顔を見た。
冷静だった。
さっき、白峰メディカルケアを出るときから、先生は一度も足を緩めていない。
けれど、私は知っている。
この先に血があったら。
それが、生きている人間の血だったら。
「沢渡先生」
呼ぶと、彼は前を向いたまま答えた。
「なんだ」
「無理なら、私だけで確認します」
「不要だ」
「でも」
「今井刑事」
冷たい声だった。
その声に、私は言葉を止めた。
先生は廊下の角で足を止め、こちらを見た。
「俺は、死体しか見られない飾りではない」
「そんなこと言ってません」
「君の顔が言っている」
私は口を閉じた。
また顔に出ていたらしい。
嫌になるくらい、先生はそういうところを見逃さない。
「私はただ……」
言いかけて、続きが出なかった。
心配です。
そう言えば、何かが変わってしまう気がした。
私たちは、取引でつながっている。
私は先生の秘密を知り、それを使って協力を引き出した。
その事実は、まだ消えていない。
心配する資格があるのか。
守りたいなんて思っていいのか。
迷った一瞬を、先生は見逃さなかった。
「今は事件を見ろ」
静かな声だった。
「俺を見るな」
胸に、小さく刺さった。
その通りだ。
今は、救急搬送された人がいる。
三件の変死と同じ線上にいるかもしれない人が、生きて病院に運ばれている。
優先順位を間違えてはいけない。
でも。
私は先生を見るなと言われて、ますます見てしまった。
消毒薬。
人の体温。
足早に通り過ぎる看護師の靴音。
どこかで小さく鳴る電子音。
死者のために整えられた白ではなく、生きている人をつなぎ止めるための白だった。
私はその白さの中を、沢渡先生の背中を追って走った。
「藤堂さんのフルネームは確認できていますか」
「藤堂誠司、五十八歳です。白峰メディカルケアの患者で、今朝訪問予定だったと橘さんが」
「既往歴」
「まだ詳細は取れていません。受付の話では、糖尿病と不眠の相談歴があるそうです」
「家族構成」
「妻と二人暮らし。救急要請は奥さんからです」
答えながら、私は先生の横顔を見た。
冷静だった。
さっき、白峰メディカルケアを出るときから、先生は一度も足を緩めていない。
けれど、私は知っている。
この先に血があったら。
それが、生きている人間の血だったら。
「沢渡先生」
呼ぶと、彼は前を向いたまま答えた。
「なんだ」
「無理なら、私だけで確認します」
「不要だ」
「でも」
「今井刑事」
冷たい声だった。
その声に、私は言葉を止めた。
先生は廊下の角で足を止め、こちらを見た。
「俺は、死体しか見られない飾りではない」
「そんなこと言ってません」
「君の顔が言っている」
私は口を閉じた。
また顔に出ていたらしい。
嫌になるくらい、先生はそういうところを見逃さない。
「私はただ……」
言いかけて、続きが出なかった。
心配です。
そう言えば、何かが変わってしまう気がした。
私たちは、取引でつながっている。
私は先生の秘密を知り、それを使って協力を引き出した。
その事実は、まだ消えていない。
心配する資格があるのか。
守りたいなんて思っていいのか。
迷った一瞬を、先生は見逃さなかった。
「今は事件を見ろ」
静かな声だった。
「俺を見るな」
胸に、小さく刺さった。
その通りだ。
今は、救急搬送された人がいる。
三件の変死と同じ線上にいるかもしれない人が、生きて病院に運ばれている。
優先順位を間違えてはいけない。
でも。
私は先生を見るなと言われて、ますます見てしまった。



