まもなく、奥から一人の女性が出てきた。
三十代後半くらい。
紺色のスクラブにカーディガンを羽織っている。
髪はきっちりまとめられ、目の下には疲れがあった。
「橘美里です」
声は落ち着いていた。
けれど、指先がカーディガンの端を握っている。
「捜査一課の今井です。こちらは法医学者の沢渡先生です」
「法医学者……」
橘さんの視線が沢渡先生に向かう。
沢渡先生は軽く頷いただけだった。
「三名の患者さんについて、確認したいことがあります」
私が資料を出すと、橘さんの顔色がわずかに変わった。
「亡くなられた方々ですね」
「ご存じでしたか」
「はい。小さな地域ですから。うちが関わった患者さんが亡くなれば、共有されます」
「三件とも、白峰メディカルケアが関わっています」
「……偶然です」
返事が少し早かった。
私は踏み込みかけて、沢渡先生の言葉を思い出す。
それ以上は聞くな。
相手に警戒される。
私は一度だけ呼吸を整えた。
「今日は、診療記録と訪問記録の確認をお願いしたいだけです。特に、薬の管理について」
「薬……」
橘さんの指が、さらに強く布を握った。
沢渡先生が口を開く。
「訪問時、服薬確認は目視ですか」
低く、平坦な声。
問い詰めるのではなく、ただ確認する声。
「はい。基本的には、薬カレンダーと残薬を確認します」
「患者本人が服用するところまで見る?」
「ケースによります」
「二件目の女性は」
「見ました」
「死亡前日も?」
「……はい」
わずかな間。
沢渡先生の目が細くなる。
「記録では午前九時二十分訪問。退出は九時四十五分。服薬確認済み」
「その通りです」
「その後、他のスタッフが訪問した記録はない」
「ありません」
「医師の往診予定は」
「翌週でした」
「薬の変更は」
「ありません」
沢渡先生は一拍置いた。
「では、死亡当日の血中濃度に変化があった場合、通常の服薬だけでは説明できない」
橘さんの目が揺れた。
私は横目で沢渡先生を見た。
鑑定結果はまだ出ていない。
それでも、彼は可能性の形を見ている。
「先生」
私が小さく呼ぶと、沢渡先生は視線を動かさずに言った。
「仮定の話だ」
橘さんが息を呑む。
「何か……薬が多かったんですか」
「まだ結果は出ていません」
私はすぐに答えた。
「確認のためです」
「そう、ですか」
橘さんは胸元に手を当てた。
疲れた顔だった。
怯えた顔にも見えた。
犯人だからなのか。
何かを知っているからなのか。
ただ、患者の死に動揺しているだけなのか。
わからない。
わからないのに、私は前に出たくなる。
問い詰めたくなる。
次の死を止めたいから。
そんな私の横で、沢渡先生が静かに言った。
「他に見たものがあれば、話してください」
橘さんはしばらく黙り、それから小さく頷いた。
「二件目の方の薬カレンダー……一つ、空いている場所がありました」
私はペンを握った。
「空いている場所?」
「本来なら、翌朝分が入っているはずのところです。でも、その日は空でした。ご本人に聞いたら、間違えて飲んだかもしれないって」
「記録にはありません」
「書きませんでした。よくあることだから……その、注意して終わりにしてしまって」
沢渡先生の表情は変わらない。
けれど、声が少しだけ硬くなった。
「よくあることと、記録しなくていいことは違う」
「……はい」
「他の二件でも、薬の違和感は」
橘さんは唇を噛んだ。
「一件目の男性は、奥様が薬を管理していました。でも、白峰院長が健康相談のあと、薬の調整についてかかりつけ医に連絡すると言っていました」
「実際に調整された」
「はい」
「三件目は」
「三件目の方は、睡眠薬を欲しがっていました。でも院長は処方していないと言っていて……」
「言っていて?」
「亡くなる前日、本人から電話がありました。よく眠れた、ありがとうって」
背筋が冷えた。
「誰に対しての、ありがとうですか」
「わかりません。私が受けた電話ではありません。事務の子が、そう聞いたと」
沢渡先生が私を見た。
一瞬だけ。
その目が言っている。
事実だけを拾え。
私は頷いた。
「その事務員さんにもお話を聞かせてください」
「今日は……外回りの同行で出ています」
「戻りは?」
「未定です」
三十代後半くらい。
紺色のスクラブにカーディガンを羽織っている。
髪はきっちりまとめられ、目の下には疲れがあった。
「橘美里です」
声は落ち着いていた。
けれど、指先がカーディガンの端を握っている。
「捜査一課の今井です。こちらは法医学者の沢渡先生です」
「法医学者……」
橘さんの視線が沢渡先生に向かう。
沢渡先生は軽く頷いただけだった。
「三名の患者さんについて、確認したいことがあります」
私が資料を出すと、橘さんの顔色がわずかに変わった。
「亡くなられた方々ですね」
「ご存じでしたか」
「はい。小さな地域ですから。うちが関わった患者さんが亡くなれば、共有されます」
「三件とも、白峰メディカルケアが関わっています」
「……偶然です」
返事が少し早かった。
私は踏み込みかけて、沢渡先生の言葉を思い出す。
それ以上は聞くな。
相手に警戒される。
私は一度だけ呼吸を整えた。
「今日は、診療記録と訪問記録の確認をお願いしたいだけです。特に、薬の管理について」
「薬……」
橘さんの指が、さらに強く布を握った。
沢渡先生が口を開く。
「訪問時、服薬確認は目視ですか」
低く、平坦な声。
問い詰めるのではなく、ただ確認する声。
「はい。基本的には、薬カレンダーと残薬を確認します」
「患者本人が服用するところまで見る?」
「ケースによります」
「二件目の女性は」
「見ました」
「死亡前日も?」
「……はい」
わずかな間。
沢渡先生の目が細くなる。
「記録では午前九時二十分訪問。退出は九時四十五分。服薬確認済み」
「その通りです」
「その後、他のスタッフが訪問した記録はない」
「ありません」
「医師の往診予定は」
「翌週でした」
「薬の変更は」
「ありません」
沢渡先生は一拍置いた。
「では、死亡当日の血中濃度に変化があった場合、通常の服薬だけでは説明できない」
橘さんの目が揺れた。
私は横目で沢渡先生を見た。
鑑定結果はまだ出ていない。
それでも、彼は可能性の形を見ている。
「先生」
私が小さく呼ぶと、沢渡先生は視線を動かさずに言った。
「仮定の話だ」
橘さんが息を呑む。
「何か……薬が多かったんですか」
「まだ結果は出ていません」
私はすぐに答えた。
「確認のためです」
「そう、ですか」
橘さんは胸元に手を当てた。
疲れた顔だった。
怯えた顔にも見えた。
犯人だからなのか。
何かを知っているからなのか。
ただ、患者の死に動揺しているだけなのか。
わからない。
わからないのに、私は前に出たくなる。
問い詰めたくなる。
次の死を止めたいから。
そんな私の横で、沢渡先生が静かに言った。
「他に見たものがあれば、話してください」
橘さんはしばらく黙り、それから小さく頷いた。
「二件目の方の薬カレンダー……一つ、空いている場所がありました」
私はペンを握った。
「空いている場所?」
「本来なら、翌朝分が入っているはずのところです。でも、その日は空でした。ご本人に聞いたら、間違えて飲んだかもしれないって」
「記録にはありません」
「書きませんでした。よくあることだから……その、注意して終わりにしてしまって」
沢渡先生の表情は変わらない。
けれど、声が少しだけ硬くなった。
「よくあることと、記録しなくていいことは違う」
「……はい」
「他の二件でも、薬の違和感は」
橘さんは唇を噛んだ。
「一件目の男性は、奥様が薬を管理していました。でも、白峰院長が健康相談のあと、薬の調整についてかかりつけ医に連絡すると言っていました」
「実際に調整された」
「はい」
「三件目は」
「三件目の方は、睡眠薬を欲しがっていました。でも院長は処方していないと言っていて……」
「言っていて?」
「亡くなる前日、本人から電話がありました。よく眠れた、ありがとうって」
背筋が冷えた。
「誰に対しての、ありがとうですか」
「わかりません。私が受けた電話ではありません。事務の子が、そう聞いたと」
沢渡先生が私を見た。
一瞬だけ。
その目が言っている。
事実だけを拾え。
私は頷いた。
「その事務員さんにもお話を聞かせてください」
「今日は……外回りの同行で出ています」
「戻りは?」
「未定です」



