氷の法医学者と、秘密の共犯になりました

「――氷の法医学者、ね」

捜査一課のフロアに貼られた捜査資料の前で、私はそう呟いた。
白いボードには、被害者の写真、発見場所の地図、時系列の表。赤い線が何本も伸びているのに、肝心なところだけが繋がらない。

三人。
いずれも年齢も職業もバラバラで、共通点らしい共通点がない。争った形跡もなく、目立った外傷もない。第一発見者の証言はそろってこうだ。

――眠っているみたいだった。

眠っているみたいな死。そんな都合のいい死が、同じ時期に三回も続くはずがない。
なのに、私たちが掴めているのは「不自然だ」という感覚だけ。物証が乏しく、捜査は難航していた。

「今井。顔、怖い」

横から肩をつついてきたのは、同じ班の先輩刑事、真鍋だった。
コーヒー片手に、いつも通り余裕の顔をしている。

「怖くなる要素しかありませんから。先輩こそ、危機感あります?」

「あるある。だから――」

真鍋の視線が、ボードの端に貼った一枚のメモに落ちる。
そこには、上からの指示で追記した文字がある。

【法医学者・沢渡隼人に検死依頼】

「来るんだろ?沢渡先生」

「……来ます。呼びましたから」

呼んだ、という言い方は少し違う。正確には、呼ばざるを得なかった。
上層部もこの連続変死を軽く見ていない。だからこそ、「当たる」と評判の法医学者に検死を依頼したのだ。

沢渡隼人。
大学の法医学教室に籍を置き、警察にもたびたび協力している――天才。

その天才に、別の噂がくっついている。

氷の法医学者。

冷徹。合理的。感情がない。遺体にも動じない。

「死体と会話できる」だの、「心臓が冷蔵庫に入ってる」だの、尾ひれがつきすぎて、もはや都市伝説の域だった。

けれど、今の私には、伝説でも都市伝説でもいい。
この停滞を動かす材料が欲しい。

「今井、あんまり身構えるなよ。先生は――」

「噂の通り、冷たいんですよね?」

「そう。そして、噂の通り、面倒くさい。……でも、噂以上に有能だ」

真鍋が肩をすくめる。

その時、内線が鳴った。

『今井。監察医務院に来い。沢渡先生が到着した』

私はペンを掴み、上着のボタンを留め直した。
勝負はここからだ。

監察医務院の廊下は、いつ来ても空気が違う。
消毒薬の匂い。機械の低い唸り。蛍光灯の白い光が、感情の温度を奪っていく。

案内された部屋の前で、私は一度呼吸を整えた。
刑事である前に、人間だ。遺体に慣れたつもりでも、こういう場所では心が少しだけ固くなる。

扉を開けると、そこに――いた。

白衣。手袋。マスク。必要なものだけを身につけて、余計な装飾はない。
背筋がまっすぐで、視線の動きに無駄がない。人の動作というより、精密機器のようだった。

「捜査一課の今井ひかりです。本日は――」

「要点だけでいい」

言葉は淡々としているのに、声がよく通った。
私が名乗り終える前に、彼はすでに遺体に目を落としている。挨拶の温度は、確かに低い。

――噂通り。

「連続変死の三件目。こちらが現場資料と、既往歴の確認状況です」

「……ふむ」

沢渡隼人は、紙をめくる。
指先の動きが静かで、速い。まるで、情報だけを抽出しているみたいに。

「立ち会いは君ひとり?」

「はい、班長と相談して。大勢で押しかけても先生の迷惑になるだけだからと」

「判断は正しい」

さらりと肯定されて、私は一瞬言葉を失った。
噂では、人を褒めないタイプだと聞いていたのに。

「では、検証に入る」

彼はそう言って、部屋の奥へ視線を向けた。
私はそれに続く。胸の奥で、僅かに緊張が増していく。

遺体の検証は、想像していたより「会話」だった。
もちろん、遺体が喋るわけじゃない。喋るのは沢渡隼人だ。

「死斑の位置が自然。搬送時に大きく動かされた形跡は少ない」

「第三者が動かした可能性は低い、と」

「低い。だが“ゼロ”ではない。現場の空調と気温は?」

私はすぐにメモを見て答える。
彼は頷き、次の情報へ滑るように移った。

「爪の縁に微細な欠け。争ったというより、どこかにぶつけた。倒れた瞬間だろう」

「倒れた、瞬間……?」

「突然、意識を落とした可能性がある」

沢渡の言葉は、必要最低限なのに、頭の中で地図が描かれていく。
彼は、「推理」をしているのではない。見えるものを、順番に、正確に積み上げているだけだ。

その積み上げの速度が、異常に速い。

「皮膚の微細な点状出血。だが、ここだけだ」

「それが何を意味します?」

「首を絞めた類のものとは違う。……薬物の可能性を考える」

薬物。
その一言だけで、捜査線上の見え方が変わる。

「検体は採取済みだ。鑑定に回す」

「ありがとうございます」

私が言うと、沢渡はほんの一瞬だけ目を上げた。
視線がぶつかった。感情の揺れはない。けれど、どこか――疲れている目だった。

彼は手袋を外し始めた。
まるで、仕事は終わりだと告げるように。

――やっぱり、冷たい。
いや、冷たいというより、線引きが異様に明確だ。

「沢渡先生」

私が声をかけると、彼は外した手袋をきっちり折り、廃棄容器に落とした。

「なんだ」

「検死結果だけではなく、先生の所見を捜査に活かしたいんです。少しでいい、話を――」

「捜査は捜査一課の領分だ。俺の業務はここまで」

言い切って、白衣のポケットからペンを抜き、検死結果にサインを入れる。
その所作があまりに整っていて、言い返すタイミングすら削がれた。

私は黙って、彼から手渡されたサイン済みの書類を受け取ろうとして――

「っ」

指先に、紙が滑った。
痛みは小さい。けれど、指の腹が熱くなるのがわかった。反射で手を引っ込めると、そこに赤が滲んでいた。

ほんの一滴。
針で刺したほどの小さな傷。刑事なら、気にするほどじゃない。

「すみません。大丈夫です。書類にはついていないで――」

私は顔を上げる。
すると、沢渡隼人の顔が青かった。

私は最後まで言葉を言いかけて、止まった。

「……止血して。今すぐ」

沢渡の声が、さっきまでと違った。
命令形なのに、どこか切羽詰まっている。

完璧に整っていたはずの表情から、血の気が抜け落ちている。目がわずかに泳ぎ、呼吸が浅い。

「沢渡先生……?」

私が一歩近づくと、彼は反射で視線を逸らした。
私の指先から、彼の視線を遠ざけるように。

その場にいるのは、私と彼だけ。
誰にも見られていないのに、彼は必死に平静を保とうとしていた。

「平気だ」

「平気な顔じゃない」

言い切った瞬間、彼の肩がわずかに揺れた。
ふらつく。――倒れる。

私は咄嗟に彼の肘を掴んだ。刑事の身体が、考える前に動いた。

「座ってください」

「……っ」

「命令じゃなくて、お願いです」

一拍。
沢渡は悔しそうに目を伏せ、それでも私の肩に体重を預けた。

椅子に座らせると、彼は背もたれに背中をつけることもせず、前のめりになって呼吸を整えようとした。
手袋を外したばかりの指が、膝の上で固く握られている。

私はティッシュを取り、傷口を押さえた。
血はすぐ止まる。
しかし、問題は私の指じゃない。

「……医者が、血で?」

呟くように言った。
沢渡は、わずかに眉を寄せた。怒ったのではない。自分に苛立っている顔だった。

「死後の血は平気だ」

「じゃあ……」

「生きてる血だけが、無理なんだ」

静かに落ちた言葉が、部屋の空気を変えた。
私は思わず瞬きをした。

氷の法医学者。
遺体の前で微動だにしない男。
その男は、生きた血に弱い。

「……笑うなら笑え」

沢渡が言った。
その一言に、私は胸の奥がきゅっとなった。

笑えるわけがない。
人には、どうにもならない弱点がある。

「笑いません」

私はきっぱり言った。

「仕事に真摯に向き合っている人のことを、笑うはずありません」

「……」

沢渡の視線が、初めてまっすぐ私に向いた。
その目に、ほんの僅かだけ、警戒が混じる。

「今のこと」

彼の声が少し低くなる。

「誰にも言わないでほしい」

「条件があります」

私が言うと、沢渡は一瞬だけ目を見開いた。
次の瞬間、いつもの氷の顔を作ろうとしたのに――戻りきらない。呼吸がまだ整いきっていないからだ。

「……なんだ?」

「この連続事件、あなたの力が必要です。一緒に事件を解決してください」

言い切った途端、部屋の温度がさらに下がった気がした。
沢渡はゆっくり立ち上がり、白衣の裾を正す。もう崩れた姿を見せない、という意志がその動きに出ていた。

「業務外のことにはかかわらない主義だ。資料を渡したから、もう帰……」

彼は扉の方へ向きかけた。
私は一歩、前に出る。

「氷の法医学者の弱点は……」

言いかけた瞬間、沢渡の足が止まった。
背中越しに、空気が固まる。

私は続けない。続ける必要がない。
脅したいわけじゃない。――ただ、引き留める理由が欲しいだけだ。

沢渡がゆっくり振り向く。
目が、静かに細くなった。

「……わかった」

短い。けれど、降参の声だった。

「捜査に協力する」

その言葉に、私の肩の力が抜けた。
同時に、胸のどこかが少しだけ痛む。私は今、彼の弱みを握っている。正義のためだと言い聞かせても、やり方が綺麗とは言えない。

「ただし」

沢渡は続けた。
視線が、私の指先――ティッシュ越しの小さな傷に落ちて、すぐ逸れる。

「君が怪我をしたら……隠してくれ。いや、違う。知らせてくれ」

矛盾している。
隠してほしいのに、知らせてほしい。

その不器用さが、胸に落ちた。
冷たい男の言葉が、妙に、人間くさい。

私は、笑わずに頷いた。

「わかりました。状況だけ、伝えます。あなたが倒れない範囲で」

「……助かる」

助かるという言葉が、彼の口から出たことに驚いた。
氷の法医学者にも、助けが必要な瞬間がある。

その瞬間を、私だけが見てしまった。

資料室を出ると、廊下の空気が一気に戻ってきた。
沢渡は歩きながら、もう完全にいつもの顔に戻っている。背筋は真っすぐ、歩幅は一定、視線は前。さっきの揺らぎが嘘みたいだ。

途中、署内の職員が頭を下げた。

「沢渡先生、お疲れ様です」

「……お疲れ」

たったそれだけ。完璧な距離感。
氷の法医学者の評判は、こうして作られるんだろう。

私は少し後ろを歩きながら、自分の指先を見下ろした。
ティッシュの下で、もう血は止まっている。たった一滴。たった一滴で、世界がひっくり返った気がする。

署の玄関で、沢渡が足を止めた。
私の方を振り返った瞬間、彼の声が落ちる。

「指……大丈夫か」

囁きに近い。
他の誰にも届かない音量。

私は反射で、指先を握り込んだ。
心臓が、変に跳ねた。

「……大丈夫です」

「そうか」

それだけ言って、彼はまた歩き出す。
周囲から見れば、いつも通り冷徹で、完璧で、近寄りがたい男。

でも私は知っている。
彼が見せた青い顔と、揺れる呼吸と、矛盾した願い。

――氷の法医学者の、秘密。

それを抱えたまま、私は彼の背中を見送るように立ち尽くしていた。
事件も、恋も、まだ始まったばかりだ。