旦那様、そろそろ離縁のご準備を〜契約結婚三年目、満了日を目前にして旦那様の様子がどこか変です〜


 レイモンドの口から呻きが漏れた。
 彼女の脳内では、フェリクスによる拉致が「冷酷な夫から娘を救い出した、勇敢な兄の物語」に書き換えられている。
 だが、レイモンドは知っていた。フェリクスがかつてソフィアを襲ったことを。そして、ヴィクトリアだけがその事実を知らないことを。

(知らないから、こんなことが言えるんだ……。フェリクスに連れ去られたソフィアが、今どれほど恐ろしい思いをしているのか。そもそも、フェリクスを追い込んだのはお前じゃないか!)

 ソフィアのトラウマの根源が、他ならぬ目の前の母親にある。その憤りで胸が張り裂けそうになるが、ソフィアがフェリクスを庇おうとした心を知っているからこそ、それを口に出すことはできない。

 どうしたら、この女に話が通じるのか。彼女の世界では、彼女の解釈こそが絶対の法なのだ。

「……だとしても、私には彼女と話す権利があります。彼女の無事を、確かめさせてください。……私は、彼女を愛しているのです」

 レイモンドは苦し紛れに、けれど真実を訴えた。
 だが、ヴィクトリアは瞬き一つせず、ただ憐れむような笑みを深めるだけだった。

「最初にお伝えしたわ。あの子はここにはいないって」
「――なっ」
「でも、もしかしたら、二人で仲良く過ごしているかもしれないわね。フェリクスは、妹思いのいい子だったから」
「……!」

 その微笑みは、冷酷なまでに強固な城壁だった。
 自分が正しいことをしていると確信している彼女に、何を言っても無駄に思えた。

(駄目だ。話が通じない。こいつは――まともじゃない)

 レイモンドは戦慄した。ソフィアも、兄たちも、こんな女に支配されてきたのか。
 自分がいくら「愛している」と伝えても、ソフィアが最後まで心を許さなかった理由。それも無理からぬことだったのだと、彼はようやく理解した。

 だが、レイモンドが絶望に沈みかけた、その時だった。

 廊下から、一点の迷いもない足音が近づいてくる。

 そうして、扉が開き現れたのは――フェリクスに伴われ、毅然とした面持ちでこちらを見据える、ソフィアの姿だった。