最適解な恋を教えて

私が帰宅すると、アパートの玄関前に第一印象だけで腹が立つタイプのイケメンが立っていた。
引っ越し挨拶――そういう類のやつだと分かる前に、私は両腕いっぱいの推しグッズを抱えたまま鍵を探していて、最悪のタイミングで彼と目が合う。

「…お隣に越してきました。南川と申します」

丁寧で、声の温度が低い。キーンと冷たい音がするような人。

「……どうも」

私はさっさとドアを開けた。――開けてしまった。

部屋の中、推し棚。推しポスター。推しの祭壇みたいな一角。
彼の視線がそこに止まるのが分かった。

次の瞬間、彼は思わず言ってしまったようだ。

「……無駄が多いですね」

――頭に血が上がるのが分かった。

「は?」

挨拶の手土産より先に、その言葉を玄関に置いていく男。私はその場で決めた。

最悪の隣人、確定。



ドアを閉めた瞬間、私は息を吸うのを忘れていたことに気づいた。
心臓が、遅れて怒りの仕事を始める。

「無駄って……何が……」

喉の奥で反芻しただけで、また腹が立つ。
推しのアクスタが腕の中でカタカタ鳴った。ごめんね、こんな目に遭わせて。悪いのは全部、あのクソ隣人だ。

私は靴もまともに揃えず、推し棚の前に荷物を置いた。
電気を点けると、部屋が私の世界に戻る。ペンライト、缶バッジ、うちわ、ライブの銀テープ。どれも、私を生かしてきたもの。

無駄?
無駄なら、私はきっとここまで来られてない。

推しの笑顔の写真に向かって、私は小さく言った。

「……聞いて。隣に、やばいの来た」

返事なんて当然ないのに、少しだけ落ち着いた。
それからようやく、スマホの通知に気づく。

――会社のグループチャット。

【明日9:00 全体ミーティング。新任リーダー着任の挨拶あり】

「……やだ、明日、朝から……」

私はため息をついて、シャワーを浴びた。
髪を乾かしながら、玄関のほうが妙に気になる。

あの男、まだ立ってないよね?まさか「無駄」の追撃しに来ないよね?

……来るわけない。
来ないで。来ないで。来るな。

そう願いながらベッドに倒れ込んで、次に目を開けた時には、時計が信じられない数字を示していた。

8:12。

「うそ……っ!」

私は跳ね起きて、顔を洗って、適当に髪をまとめて、口にパンをねじ込んだ。
鏡の中の私は、寝不足が前髪より先に主張している。

玄関を開けると、隣のドアの前が視界に入る。
ドアは閉まっていて、当然、誰もいない。……なのに、なぜか悔しい。

あの男のことを思い出すだけで、今朝の血圧が上がる。

「無駄って言うほうが無駄ですけど」

誰にも届かない悪口を小声で吐いて、私は走った。

私・北山結衣(26)は地方支店の販促担当だ。
地方支店――という響きは控えめで平和そうなのに、実態は火の車である。

「結衣、遅い!ギリギリ!」

同僚の智咲が会議室前で手招きしている。
私は息を切らしながら近づいた。

「だって……アラームつけ忘れてて……」

「見た?グループチャット。本社からリーダー来るって」

「見た。怖い。大体、本社の人って……」

言いかけた瞬間、昨夜のキーンと冷たい音が脳内に鳴った。

本社の人って、なんかこう、正しさをそのまま顔に貼り付けてるというか。
規定と最適化と効率でできてるというか。

あれ、あのクソ隣人のイメージそのままじゃない?
……いや、偶然だ。昨夜の男が本社の人とは限らない。
引っ越し挨拶に来る男なんて、全国に何万人もいる。

私は自分に言い聞かせて会議室に入った。

支店長、各部署のメンバー、空気が妙に固い。
ホワイトボードには「新任リーダー挨拶」「収益改善プロジェクト」と書かれている。

「では――本社より着任された新任リーダーをご紹介します」

支店長がそう言って、会議室のドアに視線を向けた。

ドアが開いて。

スーツの男が入ってきた。

――昨夜のキーンと冷たい音。

世界が一瞬、無音になった。

男は淡々と一礼した。

「本社の経営管理部より参りました、南川蓮です。本日付でこちらの収益改善プロジェクトを担当します。よろしくお願いします」

名前が「蓮」だと知ったのはこの瞬間だった。
そして、最悪なことに、彼も私に気づいている。

視線が合う。
昨夜と同じ、逃げられないタイミングで。

私の胃が、会議室の床に落ちた。

蓮は資料を机に置き、息継ぎもなく話し始めた。

「まず現状です。直近四半期で販管費が予定比+8%、粗利率が前年差-2.1。これが続けば、来期、この支店は縮小になります」

縮小という単語が、会議室の空気を一段冷やす。

誰かが小さく息を呑んだ。
私は正直、数字の詳細は分からない。けれど、感じる。これは脅しじゃない。事実だ。

蓮は続ける。

「赤字は半年で止めるようにしましょう。改善が見えない場合、施策の見直しだけではなく、人員配置も含めて再編を提案します」

言い切る声が、冷たい。
感情が乗っていないぶん、重い。

支店長が咳払いをした。

「…南川さん、現場としても最大限協力します。皆、よろしく頼む」

その流れで、意見を求められる。
でも誰も、すぐには声を出せない。

私は思った。
本社のエリートが来て、数字を並べて、現場を削ることから始める――そういうやつだ。

そう思った瞬間、昨夜の「無駄」が胸に刺さったまま疼く。

気づいたら、口が動いていた。

「……でも、削るだけじゃ売上は増えませんよね」

会議室の視線が一斉に私に集まる。
やってしまった、と思うのと同時に、止まらなかった。

「お客さんって、損得だけで動かないです。数字の整合性だけで人は来ない。ここ、地元なんで……お得より、行きたい理由が要ります」

智咲が隣で目を見開いている。
私は内心で叫んだ。

私、何してんの!?命が惜しくないの?

蓮は私を見た。
眉は動かない。表情も変わらない。けれど視線だけが、しっかりと焦点を合わせてくる。

「あなた、名前は?」

「え、あ、北山結衣です……」

「北山さん」

名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。

「今の意見は正しいです。では、その行きたい理由を、具体的な施策に落とし込みましょう」

……え?

私が怯んでいる間に、蓮は淡々と話を進める。

「施策は一つに絞ります。支店単体ではなく、地域と組む。商店街との共同フェアを軸に、来店動機を設計します」

ホワイトボードに、すらすらと文字が追加される。

【地域連携フェア/回遊/SNS導線/協賛】

推し活の現場でよく見る単語が混ざった気がして、私は一瞬だけ、背筋が伸びた。

でも――次の一言で折られる。

「現場担当は北山さんにお願いします」

会議室がざわついた。

「え、私!?」

声が裏返った。可愛くもない声なのに。

支店長が驚いた顔をしている。智咲が口を押さえている。
当の蓮は、まったく動じない。

「販促担当で、現場の空気を読める。加えて、先ほど人が動く理由という視点を持っていた。適任です」

「いや、適任って、勝手に……!」

私は反論しかけた。
でも蓮は、私の言葉を遮るように、静かに付け足す。

「感情で動ける人が必要なんです。数字だけでは、人は動きません」

……言い方。
褒めてるのか、利用してるのか、分からない言い方。

会議室の視線が「がんばって…」と「南川さん、それ本気…?」の混合になっていく。
私は黙るしかなかった。逃げ道がない。

蓮は最後に、淡々と結論を落とした。

「本日中に現状の販促施策を棚卸しします。明日までにフェア案を二つ。北山さん、お願いします」

明日までに!?

「……了解、しました」

声が出た自分が怖い。
でも、断れば縮小の言葉が現実になる気がして、喉が勝手に従った。

ミーティングが終わって皆が散り始めた頃、蓮が私のところへ来た。
昨夜と同じ、冷たい距離感。

「北山さん」

私は椅子の背にもたれたまま、顔だけ向けた。
敵意は隠す気がない。

「……私、言っときますけど。昨日の無駄発言、忘れてませんから」

「把握しています」

「把握って何。謝罪とか、ないんですか」

「表現が不適切でした。申し訳ありません」

――謝った。
謝ったのに、腹が立つ。
謝り方ひとつで、こんなに人の心を逆撫でするんだ。

私が黙っていると、蓮は続けた。

「ただ、無駄と言ったのは、あなたの幸福を否定する意図ではありません」

「……じゃあ、何ですか」

「資源は有限です。削るべきは幸福ではなく、無駄です」

その言い方が、妙に胸に引っかかった。

幸福を削るんじゃない。無駄を削る。
……どういうこと?

蓮は私の顔を一瞬だけ観察して、淡々と次を告げる。

「明日、朝7時。支店ロビー集合で、商店街を回ります」

「……は?」

「朝7時です。商店街は朝が早い」

「私、早起き苦手なんですけど!!」

声が裏返るのを止められなかった。
蓮はわずかに首を傾げた。

「では、睡眠の最適化も必要ですね」

「……最適化って、人生をExcelで管理してます?」

「概ね」

概ねって何。
この人、ほんとに人間?

蓮は名刺を私の机に置いた。
昨夜、渡せなかったはずの挨拶を、いま仕事で押し付けてくるみたいに。

「よろしくお願いします。北山さん」

淡々と去っていく背中を見ながら、私は机に額をぶつけたくなった。

最悪の隣人が、最悪なことに、私の上司になった。
しかも――朝7時集合。

私はスマホを握りしめて、心の中で叫ぶ。

推し、助けて……。

そしてふと、昨夜の玄関を思い出す。
ドアを開けたときに見られた、私の世界。
無駄と切り捨てられた、私の命。

……この人に、分からせてやる。
推し活が無駄じゃないことも、私の熱量がただの感情じゃないことも。

明日、朝7時。

私は人生でいちばん不機嫌なアラームをセットした。