色で聴く私と、音のない君

私には、秘密がある。

いろはは、生まれつき、風の音や人の声を色彩として感じる特別な感覚を持っていた。
けれどその力は誰にも理解されず、彼女はその感覚を胸の奥にしまい、静かに日々を過ごしていた。

中学一年の春。
入学してまだ一か月も経っていないのに、いろはは「この学校は、よくしゃべる」と思っていた。

朝の昇降口は、声が渋滞する。
「おはよー!」はレモン色の帯になって跳ねるし、「宿題やった?」は赤い付箋みたいに貼りつく。
笑い声は紙吹雪。誰かの悪口は、濁った灰色。

見えなければ、どれだけ楽だろう。

いろはは頬を引きつらせながら、できるだけ口数を減らす。
返事をすれば、自分の声の色まで周りに混ざる。それが怖かった。

二時間目の終わり、担任の佐伯先生が教壇の前に立った。
先生の声は、いつも薄いベージュ色だ。尖っていない。安心できる色。

「みんなに紹介します。今日から一緒に勉強する、転校生です」

教室の空気が一斉にざわめく。黄色い紙吹雪が舞い、好奇心のオレンジが弾ける。
その中で、扉のところに立つ男子だけが、妙に静かだった。

背筋がまっすぐで、表情が少し硬い。
視線はあちこちに動くのに、耳は説明を追っていないように見える。

佐伯先生が続けた。

「月島 透くん。透くんは、耳が聞こえません。だから、話すときは顔を向けて、ゆっくり口を動かしてくれると助かります」

言葉の色が、いろはの目の前でぐにゃりと濁る。
「聞こえない」という単語に、誰かの声が灰色の粒を混ぜたからだ。

透は、先生の口元をじっと見て、理解したように頷いた。
そして、深く頭を下げた。

拍手が起きる。金色の火花が教室を跳ねる。
――なのに、透の周りだけ、火花が立ち上らない。

代わりに、透の胸のあたりで、深い青が脈打った。

青は、海の底みたいに静かで、でも確かに生きている色だった。

この子の「音」は、これなんだ。

いろははなぜか、そう思った。

昼休み。

「かわいそー」「大変そう」「でも顔はいい」
廊下で飛び交う言葉が、灰色の薄い霧になってまとわりつく。

いろははその霧から逃げるように、いつもの場所へ向かった。

校舎のいちばん奥にある図書室。
扉を開けた瞬間、世界が少しだけ薄くなる場所。

廊下を走る足音はガラスの欠片みたいに白く弾けて、教室から漏れる笑い声は黄色い紙吹雪みたいに舞うのに、図書室の中は違う。
静けさは「無」じゃない。
いろはには、静けさにも色がある。

本棚の木目に溶けるような、淡いミルクティー色。
窓から入る風が撫でると、そのミルクティーに、細い水色の線が一本だけ走る。

――見えてしまう。それが、怖い。

小学生のころ、いろはは一度だけ口を滑らせた。
「先生の声、今日、濃い紫だね」
みんなが笑った。先生も笑った。だから、よかったと思った。

でも次の日から、いろはの机の上には見覚えのない落書きが増えた。
『嘘つき』『気持ち悪い』

「変な子」の烙印は、消えないインクみたいに残る。
それ以来、いろはは色の話をしない。
代わりに、声をなるべく聞かないようにする。

耳を塞いでも、色は目の奥で点滅する。
だからこそ、図書室の静けさが救いだった。

その日も、放課後の図書室は穏やかだった。
窓の外の桜が、夕方の風に少しだけ揺れている。カーテンの影が床に落ち、淡い水色の線がすっと走る。

いろはは窓際の席に座り、文庫本を開いた。
ページをめくる音は、薄い銀色で、やさしい。誰の色にもぶつからない。

……けれど、知らせもなく、空気の色が変わった。

扉が開く。きい、と小さな音。
その音は本来、淡いレモン色の線になって伸びる――はずなのに、なぜか、線が途中で途切れて消えた。

「……?」

いろはが顔を上げると、ひとりの男子が入ってきた。

月島透だ。

透は一度だけ、入り口付近で立ち止まった。
視線が本棚を泳ぐように動く。迷子みたいに。
それからゆっくりと図書室の奥へ進み、いろはの斜め前の席に座った。

肩が少し強張っていて、背筋がまっすぐで――まるで、音がする世界に警戒しているみたいだった。

透は鞄から数冊の本を取り出した。
表紙は、少し古びた空色。
指先がそっとページを開く――その瞬間。

いろはは、息をのんだ。

透の周りだけ、音の色が、ほとんど見えなかった。
ページをめくる音も、椅子がきしむ音も。いつもなら銀色や薄茶色の粒になるのに、透の手元からは色が立ち上らない。

その代わりに――胸元から、一定のリズムで、深い青が脈打っていた。

教室で見た青だ。

いろはは視線を戻そうとした。見てはいけない。覗いてはいけない。
そう思うのに、青がやさしく呼ぶみたいで、目が離せなかった。

そのとき、透の肘が机の端に当たり、置いていた本が床へ落ちた。
――ドン。
図書室に響くはずの衝撃が、いろはの目の前で橙色の花火みたいに弾けた。

いろはは思わず肩を跳ねさせた。

けれど透は、落ちたことに気づかない。
目線は机の上で読んでいる本に向いたまま。

遅れて、床の本に気づく。
透は「しまった」とでも言うように眉を寄せ、慌てて拾い上げた。

その仕草が、妙に静かだった。

いろはは、心臓が早鐘になるのを感じながら、小さく声をかけた。

「だいじょうぶ?」

透は顔を上げた。
目が合う。黒目がちな瞳が、いろはの口元を見る。

……そして、何も返さない。

いろはの喉がきゅっと縮む。

あ、まただ。変なこと言った?
声の色を――。

違う。透は聞こえない。
わかっているのに、身体が昔の怖さを思い出す。

いろはは焦って、鞄の中を探した。筆箱の中のメモ帳。ちぎって、鉛筆で書く。

『ケガしてない?』

いろははメモをそっと机の端に差し出した。

透はメモを見ると、ぱちり、と瞬きをした。
それから小さく笑った。笑顔は、図書室のミルクティー色に溶けるみたいに柔らかい。

透は自分のノートを開き、丁寧な字で返した。

『ありがとう。大丈夫』
『落ちた音、わからないから』

――やっぱり。

いろはの胸が、ふっと軽くなる。
怖さと同時に、どうしようもない興味が湧いた。
「音がない」のに、透の青はこんなに鮮やかだ。

いろはは、慎重にノートに書く。

『私、風とか声を、色で感じるんだ』

書いてから、手が止まる。
言ってしまった。言葉にしてしまった。

消そうとした鉛筆の先を、いろはは止めた。
透なら――もしかしたら。

透はその一文を読み、少しだけ首をかしげた。
そして、ゆっくりと頷く。

『色で?面白い』
『信じるよ』

いろはは、目を見開いた。

『……笑わないの?』

『笑わない。見えないものがあるって、知ってるから』

胸の青が、少し明るくなる。
それは、夕方の空が夜へ移る直前の、群青色に似ていた。

透はページの端に、自分の名前を書いた。

『月島 透(つきしま とおる)』

いろはも、指先が震えないように気をつけて書く。

『風見 いろは(かざみ いろは)』

透は唇の形で「いろは」と読んだ。
その口の動きが妙に丁寧で、いろはは思わず笑ってしまった。

「……それ、発音、いい」

透はきょとんとして、すぐに眉を下げた。

あ、聞こえないんだった。

いろはは慌ててノートに書く。

『ごめん。今の、独り言』
『口の動きが、きれいだった』

透は口の端を上げた。

『独り言、嫌いじゃない。表情でわかる』
『きみ、よく笑うね』

いろはは一瞬固まって、それから小さく頷いた。
笑っているつもりは、あまりなかった。
でも透の前だと、勝手に口角が上がる。

『図書室、好き?』と透が書く。

『好き。ここ、静かだから』

透は少しだけ目を伏せた。

『静かだと、安心する』
『……でも、静かすぎると、怖いときもある』

いろはは鉛筆を止めた。

怖いとき。
それはたぶん、「かわいそう」とか「特別扱い」とか、そういうもの。
いろはにも心当たりがあった。

変な子って言われるのと同じ。
名前じゃなくて、ラベルで見られる。

そのあと二人は、しばらく同じ机で本を読んだ。
言葉は少ない。けれど沈黙が苦しくない。

そのとき、遠くの廊下でチャイムが鳴った。

キン、と高い音。
いろはの目の前で、白金色の針が何本も弾けた。
一瞬、視界が眩む。胸の奥がきゅっと縮んで、思わず肩がすくむ。

透は、当然のように反応しない。
けれど、いろはの手元を見て、すぐに気づいた。

透はノートに書いた。

『痛い?』

いろはは驚いて、頷いた。
鉛筆で、短く書く。

『チャイムの音が、白くて痛い』

透はその一文を読み、少しだけ目を丸くした。
それから、くすっと笑う。

『音が白いって、すごい』
『ぼくは聞こえないのに、きみは聞こえすぎるんだね』

いろはは、胸の奥が熱くなった。

聞こえすぎる。

それは初めて、責めるためじゃなく、理解するために使われた言葉だった。

いろははノートの端に、小さく青い丸を描いた。

『透の音は青く見える』
『鼓動が、青いから』

透は青い丸を見つめ、ゆっくりと書く。

『じゃあ、ぼくの世界は、青でできてる?』

いろはは、笑って頷いた。

透がページをめくるたび、いろはの目には色は立ち上らない。
その代わり、青い鼓動が一定のリズムでやさしく揺れる。

いろはは、不意に、透の手元に視線が吸い寄せられる。
指先が紙のざらつきを確かめるみたいに少しだけゆっくり動く。
透は「音」を聞けない代わりに、「手」で世界を読むのかもしれない。

私の色と、透の指先。
同じ本を、別々の方法で受け取ってる。

夕方、図書室の外が少し騒がしくなった。
廊下に女子の笑い声が近づく。黄色とピンクの紙吹雪が、扉の隙間から舞い込む。

「ねえ、今日さ、新しい子見た?」

「月島くん?耳、聞こえないんだって」

「え、まじ?かわいそー」

「でも顔はいいよね。しゃべれないのに?」

言葉が、濁った灰色になって図書室の中へ流れ込む。
いろはの頭の中で、灰色がざらざらと擦れた。

透は顔を上げない。
けれど、青が一瞬だけ沈む。

聞こえなくても、わかるんだ。
かわいそうって言葉は、音がなくても刺さる。

いろはは立ち上がった。
足が少し震えた。声を出すのは怖い。色が溢れるのも怖い。
でも、灰色が透の青に触れるのが、もっと嫌だった。

扉のほうへ歩き、いろはは廊下の女子たちに頭を下げた。

「……図書室だから、静かにしてもらえる?」

自分の声が、図書室の淡い色を少し揺らす。
声の色は、いろはには薄い若草色だった。思ったより優しい色。

女子たちは一瞬きょとんとして、「ごめん」と小さく言い、足早に去っていった。
紙吹雪が消える。灰色も薄れていく。

いろはが席に戻ると、透がこちらを見ていた。
目が合う。透の青が、少し明るい。

透はノートに書いた。

『助けてくれた?』

いろはは首を横に振って、少しだけ笑う。

『ううん。私が、嫌だっただけ』

透はその字を見て、しばらく考えるように唇を結ぶ。
そして、ゆっくりと書く。

『じゃあ、ありがとう』
『きみの嫌は、きれいだった』

いろはは、目を丸くした。

嫌なのに、きれい?

透の言葉は不思議だった。でも、嫌な気持ちを否定しないで、そのまま受け取ってくれた気がした。
いろはの胸の奥が、あたたかくなる。

透は少し迷ってから、別のページに書き足した。

『ぼく、よく「かわいそう」って言われる』
『でも、ぼくはぼくのままで、ちゃんと楽しい』
『だから、その言葉は嫌い』

さらに小さく、付け足すように。

『声は出る。でも、聞こえないから、上手にできない』
『必要なときだけ、頑張る』

いろはは、鉛筆を握りしめた。

『私も、嫌いな言葉がある』
『「変」って言われるの、嫌だった』

透は、いろはの文字を見て、静かに頷く。

『同じ』

その二文字が、いろはの胸を軽く叩いた。
同じ。
違うのに、同じ。

窓の外で風が鳴る。
図書室の空気に、水色の細い線が走った。

いろはは衝動に駆られて、ノートの端に小さな渦巻きを描いた。
水色。若草色。群青。銀色。
ページの余白が、少しだけ賑やかになる。

透はその渦巻きを見て、目を細めた。
それから、自分の指先を床に軽く当てる。

『今、風、強い?』

いろはは頷く。

『カーテンが、こうやって揺れてる』

そう書いて、カーテンの形を簡単に描く。

透は、その絵の横に、小さく波線を足した。

『ぼくは、風の音は聞こえない』
『でも、窓が揺れるとわかる』
『床が少しだけ震えると、世界が動いてるって思える』

いろはは、その言葉を読みながら、透の青を見た。
青は、ゆっくりと、安定している。

透の世界にも、ちゃんと音がある。
形の違う、音。

透はノートをくるりと回し、いろはの前に差し出した。
白いページの中央に、透は一行だけ書いた。

『きみには、風の音も見えるの?』

いろはは返事の代わりに、窓のほうを指さした。
風がカーテンを揺らす。水色の線が、また一本。

それから、自分の胸に指を当てる。
透の青を見たときのことを思い出して、そっと笑った。

透は唇の形で、ゆっくりと言った。

「……み、え、る?」

声はほとんど出ていない。けれど、口の動きが丁寧で、真剣で。
いろはは胸がいっぱいになって、頷いた。

――見えるよ。

声にできない言葉が、いろはの中で色になって広がる。
怖かったはずの色が、今は少しだけ味方になった気がした。

透は、次のページに、少し大きめの字で書いた。

『明日、屋上に行かない?』
『風の音を、きみに見せてほしい』

いろはは、息を吸って、笑った。
自分の中の若草色が、今度は逃げずに、前へ伸びていくのがわかった。

『うん』
『見せる。透の青も、また見せて』

透は一瞬驚いた顔をして、それから、困ったように笑った。
その笑顔に、図書室のミルクティー色が少しだけ甘くなる。

そのとき、司書の先生がカウンターからこちらを見て、指を唇に当てた。

「しー……」

先生の声は、薄いベージュ色。
いろはは思わず透に視線を向ける。

透は、音の代わりに先生の手を見て、真似をした。
唇に指を当てて、目を細める。

いろはは、声を出さずに笑った。
透も、声を出さずに笑った。

静けさの中で、ふたりの笑いだけが、確かに重なった。

図書室のミルクティー色の静けさの中で、いろはは初めて、秘密がひとりぼっちじゃなくなる音を見た。