神谷課長は平良さんの犬になりたい【1話だけ大賞】

「……まったく、どれだけ酔わせれば、首を縦に振ってくれるんだ?」
「いくら酔わせても、振りません!」

 目の前には、憧れの上司、神谷課長。
 今、私はバーのカウンターで課長と一緒に飲んでいる。
 顔が熱いのは、お酒のせい? それとも……。
 課長の情熱的な瞳に見つめられ、思わず見つめ返す。

 いつも堅物な課長とこうなってしまったきっかけは、数時間前に遡る──。

 *

 その日の私は、総務部のデスクでひとり、黙々とキーボードを叩いていた。
 定時はとっくに過ぎている。フロアに残っているのは、数人だけだった。
 平良(たいら)美沙都(みさと)、二十八歳。
 アイドルグッズも扱う大手商社の総務部に勤める、ごく普通の会社員だ。
 営業でもなければ、企画でもない。
 華やかな部署とは無縁で、誰かのミスを裏で拾い、誰かの仕事が回るように整えるのが役目。
 目立たなくて地味なポジションだけれど、やりがいは感じている。
 
「平良さん、これ、急ぎでお願いできる?」
 
 声をかけてきたのは、別部署の先輩だ。
 私は反射的に笑顔を作って頷く。
 
「大丈夫ですよ。確認しますね」
 
 本当は、今日中に終わらせなきゃいけない自分の仕事も残っている。
 でも、断る理由は特にない。
 こういう調整役が、自分の役割だと分かっているから。
 私はいつも、誰かが困らない選択を選んできた。
 それが正しいと、疑ったこともなかった。
 けれどその積み重ねの先にある小さなご褒美が、私にはあった。
 帰宅してから観る、アイドルグループBPM(バードポケットメロディ)の配信。
 それが、頑張る理由の一つだった。
 ライブ放送を見逃さないために、普段から仕事を早めに片付けようと心がけてはいるのだが、今日はどうしても間に合いそうになかった。
 仕方がない、今日はアーカイブを観て癒されよう……。
 
 そう思っていた私の視界の端を、すっと人影が通り過ぎる。
 ──神谷(かみや)(つかさ)課長。
 営業部の課長で、三十五歳。
 背筋が伸び無駄のない足取りで、高級そうなスーツを着こなしている。
 成績優秀、判断も早く、無駄話はしない。
 社内では「近寄りがたいけど、頼れる人」として有名だ。
 女子社員の視線を集めているのも知っている。
 けれど本人は、そういうことに一切興味がなさそうだった。
 今も、部下と短く言葉を交わしながら、資料に目を通している。
 表情はいつもクールで、感情の起伏が読めない。
 
(──かっこいいな)
 
 声に出すことは、もちろんない。
 ただ、そう思っているだけだ。
 課長と私が個人的に話したことはほとんどない。
 業務連絡だけで、名前を呼ばれたことすら数えるほどだ。
 それでも、仕事に対する姿勢だけはずっと見てきた。
 誰かが責任を押し付けられそうになると、静かに間に入る。
 トラブルが起きても、決して感情的にならない。
 ああいう素敵な人間になれたら。
 そう思う一方で、どこか遠い世界の人だとも感じていた。

 ようやく仕事が終わり、誰もいない廊下を歩いている時だった。
 会議室から、妙な声が聞こえてきた。
 この時間に会議の予定はなかったはず。
 しかし中からはっきりと、低い声が聞こえる。
 
「きたぁーーーーっ!! ひなたん!!!!」

 その声を聞いた途端、疲れていたはずの意識が一気に引き戻された。
 
(……ん? ひなたん?)

 その名前には聞き覚えがある。むしろ私にとっては特別な名前。
 まさに、私が推しているBPMのセンター、ひなたんのことだ。

 何を隠そう、私もひなたんのファンだった。
 ひなたんの魅力は、世代や性別を超えて多くの人を惹きつける。
 この会社にひなたんのファンが!?
 誰だろう、と気になって扉を開けると──
 憧れの上司が、スマホ片手にガッツポーズをしていた。

「か、神谷課長!?」
「た……平良くん!?」

 まさか、あの堅物クールな神谷課長が、ひなたんのファン……!?

「課長……。今、ひなたんって……」

 しばしの沈黙が流れた。
 課長は固まっていたが、やがて我に返ったようにいつものクールな表情に戻る。

「バレてしまっては仕方がない」

 スッと姿勢を正しスマホ画面をこちらに向ける。
 BPMとコラボしている、ソーシャルゲームのガチャ画面が映っていた。

「確率1/50000のひなたんが来たんだよ!! ああー。課金〇〇(ピー)万円注ぎ込んだ甲斐があったぁー」

 課長の表情は、また頬が緩んだものになっていた。
 うわぁ……ガチのファンだ、この人。

「課長って、ひなたんのファンだったんですか?」
「ああ……。黙っていてくれると助かる」

 頬を染めて視線を逸らした。
 いつもクールな課長に、こんな一面があったなんて。
 
「言いませんよ。その代わり……」
「な、なんだ? 口止め料か? ご馳走くらいならできるが──」

 会議室に、緊張が張り詰める。
 
「私と、ひなたんについて語ってください!!」
「え?」
「実は、私もBPMのファンでして……」
「そ──そうだったのか!!」
 
 がっしりと手を掴んでくる課長の目は、いつになくキラキラと輝いていた。
 そして、意気投合しバーのカウンターへ来たのだった。

「やはりセンターのひなたんは格別だ。まず立ち位置がいい。フォーメーションの要になっているのに、前に出すぎない。あのバランス感覚は天性だ。あと表情、あれは才能だな。笑顔の種類を使い分けている。カメラ目線の時と、ファン全体を見る時で目が違う。歌も安定しているが、特筆すべきはブレスだ。無駄がない。あの年齢であそこまで洗練されたアイドルは他に見ない」

 座って注文するなり、課長の熱のこもったトークが炸裂した。
 ここまで語れる人に出会ったのは初めてだ。

「は、はい……! 他のメンバーももちろん可愛いですが、私も同意見です!」
「ふ……君とはいい酒が酌み交わせそうだ」

 いつものクールな仮面を外し微笑んだ課長は、琥珀色のお酒の入ったグラスをこちらへ向ける。カチン、と軽く盃を合わせた。
 しかし、お酒が入って気が緩んでしまったのか……私は、ついうっかり、

「そういえば、今度のライブのチケットが取れたんです」

 と口を滑らせてしまったのだ。
 その瞬間、課長の動きが止まった。
 膝の上に乗せていた私の手を掴んで、身を乗り出してきた。
 
「平良くん、いや、平良様! お願いだ、そのチケット、譲ってくれ!!」
「いやですよ。やっと取れたチケットなんです」

 はっきりと断ると、課長は肩を落としてしゅん……としてしまった。
 しかし次の瞬間、諦めきれないとでも言うように、お酒の入ったグラスを私の前に置く。
 
「……まったく、どれだけ酔わせれば、首を縦に振ってくれるんだ?」
 
 そう言いながら、お高いお酒をどんどん勧めてくる。
 そして、顔面偏差値が無駄に高い!!
 いくら憧れの課長だからって、BPMのチケットは譲れない!
 
「いくら酔わせても、振りません!」
「いくらならいい? あいにく、手持ちはこれだけしかなくてな」

 と、分厚い財布を出してくる。
 待って。
 さっきの重課金といい、口止め料を払うと自分から言ったことといい……。
 もしかしてこの人、ここで断ったら転売チケット買っちゃうんじゃないの?

「うううーーーー。わ、かりました! チケット、お譲りします」

 課長が転売屋に走らなければ! それでいい!
 
「そうか! いくらだ? 言い値で買おう」

 ああっ、やっぱり!
 お譲りすることで私は課長を救うことができた気がした。
 
「ちょい! ストーーップ! 定価でかまいませんよ」
「なに? そういうわけにはいかない」
「いや、ほんとに……。お金がほしいわけではないので」
「君は神か? いや、神はひなたんだな……」

 課長、かなりこじらせてるなぁ……。
 でもひなたんが神なのは同意、と心の中で頷く。

「ならば、君は天使だな。うん、きっとそうだ」

 急に微笑みを向けられ、思わずときめいてしまうところだった。

「しかし、それでは俺の気が済まないな……。そうだ、君をこれから『平良様』と呼ぼう」
「絶対にやめてください」
「呼ぶのもダメか……。では、奴隷になろう、犬でもいい」
「課長! 酔ってます!?」

 なんで推しのライブチケットの話をしてただけなのに、上司が犬になろうとしてるんですか!?
 
「あの、本当に! 仕事で困ったら助けてください。それでいいんで!」
「そうか……。君は菩薩のような人だな」

 天使だったり菩薩だったり、忙しいな。
 すると、課長は視線を逸らして、ぼそりとつぶやいた。

「……知られたのが君で良かった」

 そう言って、課長は向こうを向いてしまった。

「えっ?」

 それは、どういう意味なんだろう──?
 一瞬、時間が止まったみたいに、店内の音が遠のく。
 課長は、まだこちらを見ない。
 ちらりと見える頬が赤いのは……お酒のせい?
 
「……あ、そうだ!」

 お願いしたいことをひとつ、思いついた。
 課長は、ゆっくりとこちらに視線を向ける。
 
「なんだ?」
「今回は課長にお譲りしますけど、もし、今度二人ともチケットが取れたら……」

 ライブの話題とはいえ、こんなことを言うのはやっぱり恥ずかしい。
 でも、せっかくなら……。

「BPMのライブ、一緒に行ってほしいです」

 課長は、一瞬驚いたように目を瞬かせた後、ふっと口元を緩めた。

「お安いごようだ」

 まるで、とびきりのレアカードを引き当てた時のような、嬉しさを隠しきれない顔で。
 こうして──
 私、平良美紗都と神谷課長の、誰にも言えない秘密の推し活ライフが始まるのだった──