君を、ハッピーエンドにしたくない。

 文化祭まで、あと一週間を切った。

 放課後の教室は、もはや学び舎としての静謐(せいひつ)を失い、波乱と塗料の匂いが充満する劇場の裏側と化していた。
 黒板にはびっしりと練習スケジュールが書き込まれ、教壇は臨時の脚本置き場になっている。

 僕たち文化委員に課された「人魚姫」の制作は、クラスメイトたちの予想以上の熱狂を孕んで動き出していた。

 彼女が書き上げた、あの残酷で美しい脚本は、意外にもクラスの女子たちの心に深く刺さったらしい。

 「ただの童話じゃない、リアルな愛の葛藤」という触れ込みで、いつの間にかこの劇はクラス全員の自尊心をかけた一大プロジェクトになっていた。

 僕はといえば、大道具係として背景の制作に没頭していた。ベニヤ板を切り出し、深い海の底を表現するために青いペンキを塗り重ねる。

 指先が青く染まっていくのを眺めている時だけが、現実から目を逸らせる唯一の時間だった。

「久連くん、その青、もう少し暗くできるかな。海の底って、もっと絶望に近い色だと思うから」

 背後から声をかけられ、筆を持つ手が止まる。振り返らなくても分かる。天ヶ瀬菜々美だ。

 彼女は主役の人魚姫を演じると同時に、演出も兼ねていた。
 自分の書いた脚本を形にするため、彼女は連日、無理をしているのが傍目にも明らかだった。

「……絶望に近い青、か。お前の脚本に合わせるなら、そうかもな」

 僕は吐き捨てるように言い、黒の絵具をパレットに足した。

「ありがとう。……それと、この後、舞台袖の導線を確認したいんだけど。付き合ってくれる?」

 彼女の琥珀色の瞳が、僕の視線を真っ直ぐに捉える。

 拒否する理由はいくらでもあったが、それを言葉にする気力さえ、最近の僕は失いかけていた。



 ◇ ◇ ◇



 体育館のステージ。放課後の練習が始まる。

 パイプ椅子が並べられた客席には、衣装係や照明係の生徒たちが集まり、真剣な眼差しで舞台を見つめている。

「――王子様。あなたは、私が救ったことも知らずに、別の誰かを見て笑うのね」

 舞台中央、スポットライトを浴びた彼女の声が響く。

 教室内で聞いていた彼女の声とは、決定的に違っていた。
 低く、けれど鋭く鼓膜を震わせるその響き。人魚姫が声を失う前の、最後の独白。

 客席で見守るクラスメイトたちは、息を呑んで彼女の演技に釘付けになっていた。

「すごいな、天ヶ瀬さん……。まるで本当に、胸が張り裂けそうな顔してる」
「真宮寺がいた時も明るくて楽しかったけど、今年の劇は……なんていうか、本物っぽいよな」

 隣で照明のスイッチを弄っていた男子生徒が、感心したように呟く。
 その言葉が、僕の心臓を冷たく撫でた。

 「本物」。

 クラスメイトにとって、これは単なる劇のクオリティの話だ。けれど、僕にとってその「本物」の意味はあまりにも重い。

 彼女は演じているのではない。彼女の中にいる優水菜の記憶と、それを自分のものにできない彼女自身の絶望。

 その本物の痛みを、彼女は脚本という濾過器(ろかき)を通して、演技として垂れ流しているのだ。

 舞台上の彼女が、崩れ落ちるように膝をつく。
 それは完璧な絶望の形だった。

 だが、僕は気づいてしまった。

 彼女の左手が、衣装の下で微かに自分の胸を掻きむしっていることに。
 呼吸が不自然に浅くなっている。額に浮かんだ汗が、スポットライトに反射して白く光る。

「……っ、げほっ」

 彼女がセリフを詰まらせた。
 周囲は感極まった演出だと思っているのか、静かに見守っている。だが、僕は知っている。

 あれは、水族館のときと同じ症状。

「練習、一旦止めろ!」

 僕は照明係の横をすり抜け、舞台へと駆け上がった。

「え、久連? どうしたんだよ」

 戸惑う周囲の声を無視して、僕は彼女の肩を掴んだ。

 彼女の体温は異常に高い。けれど、その指先は凍りつくように冷たかった。

「……大丈夫。まだ、やれるから」
「黙れ。顔色が真っ白だ。降りるぞ」

 僕は強引に彼女を抱え上げ、舞台袖の暗がりに運んだ。クラスメイトたちの困惑した視線が背中に刺さるが、構っていられなかった。



 重い遮光カーテンの裏側、埃っぽい匂いが漂う舞台袖。

 僕は彼女をパイプ椅子に座らせ、近くにあったペットボトルの水を差し出した。
 彼女は肩を激しく上下させ、必死に空気を取り込もうとしている。

「……馬鹿か、お前は。自分の身体の限界くらい分かってるだろ」
「……分かってるよ。でも、止められないの」

 彼女は震える手で水を受け取り、一口だけ含んだ。

「私が彼女の物語を語っている間だけ、この心臓は私の身体を拒絶するのを忘れてくれる。……まるで、供養でもしてるみたいな気分」

 自嘲気味に笑う彼女の横顔を、僕は複雑な思いで見つめた。
 
 「供養」。

 彼女は自分自身を犠牲にして、優水菜の未練を昇華させようとしているのか。
 それとも、優水菜を利用して、自分という空虚な存在に意味を与えようとしているのか。

「久連くん、聞いて。……さっきのシーン、どうだった?」
「……どうだったって、何がだよ」
「私、ちゃんと『私』として泣けてたかな。それとも、やっぱり彼女が泣いてるように見えた?」

 その問いに、僕は答えられなかった。
 僕の瞳に映っていたのは、確かに天ヶ瀬菜々美だった。けれど、僕の心が震えた理由は、彼女の声の中に宿っていた優水菜の残響だった。

 僕は無言で、彼女の前に跪いた。
 そして、水族館の時と同じように、彼女の手を優しく取った。

「……何、してるの?」
「静かにしろ。……おまじないだ」

 彼女の手のひらに「静」と繰り返し書き続ける。
 
 彼女の脈拍が、僕の指先を通じて伝わってくる。激しく、不規則な鼓動。それが少しずつ、僕のリズムに同調していく。

「……ねえ、耕助くん。優水菜さんは、幸せだったんだね。……こんなに優しくて、不器用な人に、ずっとおまじないをしてもらえて」

 その言葉は、優水菜の記憶からの引用ではない。菜々美という少女の、剥き出しの嫉妬と憧憬が混ざり合った言葉だった。

「優水菜の話はするな。今は、お前の鼓動を落ち着かせることだけ考えろ」
「……意地悪だね……でも、そんなところも、この子は好きなんだって」

 彼女がそっと目を閉じる。
 暗い舞台袖で、僕たちは一つの鼓動を共有していた。

 それはあまりにも親密で、あまりにも残酷な時間だった。

 僕は彼女を救っているのか。それとも、こうして触れることで、彼女の中に残る「彼女」をさらに強く呼び覚ましているのか。



 十分後、彼女の呼吸は落ち着き、再び舞台へと戻っていった。

 クラスメイトたちには「立ちくらみだった」と説明し、練習が再開される。

 舞台の上で、再び人魚姫としての顔を作る彼女を見て、僕は胸の奥に消えない重みを感じていた。

 劇の最後、人魚姫が王子を殺さず、自ら泡になることを選ぶシーン。

 彼女が書いた脚本通りなら、ここで彼女は王子に呪いのような言葉を遺すはずだった。

『私が消えた後、あなたの中に消えない傷を残したい』

「……最悪だ」

 僕は独り、舞台袖で呟いた。
 僕は、彼女を助けたいと思っている。
 けれど、その助けたいという感情の何割が彼女に向けられたもので、何割が優水菜の心臓を守るためのものなのか、自分でも判別がつかなくなっていた。

 文化祭という祝祭の幕が上がる時。
 僕たちは、一体何を失うのだろう。

 舞台袖の暗闇の中で、僕は自分の手が青いペンキで汚れているのを見つめていた。

 その青は、深い海の底のように冷たく、僕の心を静かに侵食し続けていた。

 練習が終わり、完全な静寂が訪れた体育館。
 僕は一人、舞台のモップがけをしながら、『人魚姫』の台本を思い出す。

 「君を、ハッピーエンドにしたくない」

 それは、この物語の最後の一節。
 その言葉が、僕の喉元まで出かかっては、苦い唾液と共に飲み込まれる。

 窓の外、校庭の銀杏の葉が風に煽られて、狂ったようにアスファルトを叩いている。

 冬の足音が、すぐそこまで聞こえていた。



 ◇ ◇ ◇



 文化祭の舞台準備は、残酷なまでに順調だった。

 体育館のステージでは照明の調整が始まり、深い海の底を模した青い光が、何も知らないクラスメイトたちの笑顔を照らしている。

 だが、その中心にいる彼女の身体は、限界を迎えようとしていた。

 衣装合わせの最中、純白のドレスを纏った彼女が、糸の切れた人形のように舞台上で崩れ落ちたのは、放課後も押し迫った時刻のことだった。

「天ヶ瀬さん! 誰か、保健室の先生呼んできて!」

 現場はパニックに陥ったが、すぐに駆けつけた担任の指示で、彼女は保健室へと運ばれた。
 しかし、運悪く今日は文化祭の全体会議が重なっている日だった。

「久連、俺は会議があるから文化委員としてここに残れ。天ヶ瀬の主治医が来るまで、容態を見ておくんだ。……他の連中は体育館に戻れ! 作業を止めるな!」

 担任のその一言が、僕をこの静寂の部屋に閉じ込めた。

 他のクラスメイトたちは、心配そうな顔を見せながらも、自らの役目のために体育館へと引き返していった。

 もともと文化委員は二人一組。一人が倒れれば、もう一人がその責任を負う。
 それがこの学校の、そして僕たちの義務だった。



 保健室のベッドで眠る彼女のそば、僕はパイプ椅子に腰を下ろした。

 カーテンの隙間から差し込む夕日は、消毒液の匂いが漂う室内を、不吉なほど鮮やかな朱色に染め上げている。

 カチャリ、と椅子の足が床を叩く。

 ふと見ると、ベッド脇の椅子から、彼女の学生鞄が滑り落ちていた。

 衝撃で、中身が少しだけ床にこぼれ出している。僕はため息をつき、それを拾い上げようと腰を屈めた。

 その時、僕の指先に触れたのは、一冊の革表紙の手帳だった。

 彼女がいつも、暇さえあれば大切そうに、あるいは強迫観念に駆られたように見つめていたあの手帳だ。

「見てはいけない」

 理性はその一線を越えることを禁じた。
 だが、僕の右手は、吸い寄せられるようにその表紙を開いていた。

 これは監視だ、と自分に言い訳をした。彼女が倒れた原因、その手がかりがここにあるかもしれない。
 そんな歪んだ正当化が、僕の理性を焼き切った。



 手帳を開いた瞬間、僕は呼吸を忘れた。
 そこに並んでいたのは、天ヶ瀬菜々美の個人的な日記などではなかった。

『私の秘密』

 そう題されたページには、優水菜の筆跡で書かれた箇条書きが、整然と埋め尽くされていた。

・笑う時、少しだけ右の口角が上がる癖があるらしい。

・緊張すると、右手の指先で一房の髪を耳にかけるらしい。

・好きな食べ物はイチゴのショートケーキ。ただし、上のイチゴは最後に食べる派。

 血の気が引いていくのが分かった。

 水族館でのあの仕草も、教壇で見せたあの癖も、僕を驚かせたあの既視感も。
 そのすべてが、この手帳に書かれた情報のトレースに過ぎなかったのだ。

 ページをめくる。
 そこには僕に関する記述が、彼女自身の冷徹な観察眼でさらに深く掘り下げられていた。

『耕助くんは、優水菜さんの話をすると、一瞬だけ瞳が揺れる。彼は、悲しいくらいに彼女の幻影を求めている。彼を繋ぎ止めるには、私が彼女になりきるのが最短距離だと思う』

 吐き気がした。
 僕が彼女の中に見ていた優水菜の影は、移植者の記憶転移などという神秘的な現象ではなかったのだ。

 天ヶ瀬菜々美が、僕の視線を奪うために、死にもの狂いで演じていた「偽造品」の台本だった。

 彼女は、優水菜の夢など見ていなかった。
 あいつの声を聞いたことも、あいつの想いを感じたことも、一度だってなかった。

 彼女はただ、用意された情報を暗記し、僕の心を惑わしていただけだったのだ。

「……全部、嘘だったのか」

 震える指先が、手帳の奥に挟まっていた一通の封筒に触れた。

 それは、菜々美宛てに書かれた手紙だった。封筒の表書きには、紛れもない、あの懐かしい、少し丸まった筆跡で名前が書かれていた。

『私の心臓を引き継いでくれる、あなたへ』

 真宮寺優水菜の直筆。手術の前、まだ見ぬレシピエントのために書き残された遺言だった。

 僕は、罪悪感を通り越した無感覚のまま、その手紙を広げた。

『こんにちは。私の心臓をもらってくれるあなた。ごめんね。
 こんな不条理な形で、私の命があなたに渡ることになって。でも、もし私の心臓があなたの身体で動いているなら、これだけは知っていてほしいの。
 私は、この心臓をあなたにあげることを、後悔していません。だから、どうか毎日を全力で生きて。あなたは、あなたの好きな服を着て、あなたの好きなものを食べて、あなたの人生を生きて。
 でも、ただ……ひとつだけ、私のわがままを聞いてくれるかな。私には、ずっと一緒にいた大切な幼馴染がいます。久連耕助という名前の、少し不器用で、泣き虫な男の子です。私が死んだら、彼はきっと、自分を責めて、世界を呪ってしまうと思う。
 だから、もしあなたが彼に出会うことがあったら。「耕助をよろしくね」なんて言わない。それは、あなたにとって重荷すぎるから。
 ただ、もし彼が立ち止まっていたら、少しだけ背中を押してあげてほしいの。私がいなくても、彼は幸せになっていいんだよって、伝えてあげてほしい。あなたは、あなたとして、幸せになってね』

 手紙の文字が、視界の中で歪んだ。
 優水菜は、何一つ望んでいなかった。彼女に自分を投影することなど、あいつは最も嫌っていたのだ。
 あいつは、彼女に自由を、彼女自身の人生を願っていた。

 それなのに。
 彼女は、この手紙を読みながら、あえてその願いを真っ向から裏切った。

 彼女は、優水菜の遺志である自由を捨てて、あえて偽物の優水菜になる道を選んだのだ。

 僕を、騙すために。
 僕の隣に、居座るために。

「……ひどいな」

 優水菜は彼女のために、僕を忘れていい存在として切り離そうとしてくれた。

 だが、彼女はその真心を攻略本として使い、優水菜が最も望まなかった憑依を演じ続けた。
 僕を繋ぎ止めるための武器として、死んだあいつの真心を、泥足で踏みにじった。



 ベッドの上の彼女が、小さく身じろぎをした。
 僕は反射的に手紙を封筒に戻し、手帳を鞄の中へと押し込んだ。

 何事もなかったかのように、鞄を椅子の上に立てかける。

 彼女がゆっくりと目を開けた。
 琥珀色の瞳が、ぼんやりと僕の姿を捉える。

「……耕助くん。私、また迷惑かけちゃったかな。先生、怒ってた?」
 
 その声は、相変わらず弱々しく、守ってあげたくなるような響きを持っていた。
 だが、今の僕には、それが緻密に計算された演技にしか聞こえなかった。

「……いや。先生は会議に行ったよ。俺に、お前を見てろって言ってな」
「そう……よかった。ねえ、さっきね、夢を見たの」

 彼女は、僕の手を取ろうと、細い腕を伸ばした。

「優水菜さんが、笑ってた。……文化祭、頑張ってねって。耕助くんのこと、守ってあげてねって。……本当に、彼女はあなたのことが大好きなんだね」

 嘘だ。
 お前は、そんな夢なんて一度も見ていない。
 手帳に書かれた設定を、今この瞬間も、台詞として吐いているだけだ。

 僕は、彼女の手を握り返さなかった。ただ、冷え切った自分の指先を見つめていた。
 怒りよりも、激しい失望と、そして底知れない恐怖が僕を支配していた。

 天ヶ瀬菜々美という少女は、そこまでして僕が欲しかったのか。自分という存在を殺し、死者の皮を被り、呪われることを承知で、僕の視線を奪いたかったのか。

「……耕助くん?」
「……疲れてるんだろ。主治医が来るまで、もう一度寝ろ」

 僕は背を向けた。
 もし彼女が、あの手紙を正直に僕に見せて、「私は私として、あなたを好きになりました」と言っていたら。僕はこれほどまでに、彼女を憎むことはなかっただろう。
 
 けれど、彼女は僕の優水菜への未練を利用した。
 僕が一番触れられたくない傷口に、優水菜のふりをして指を突っ込んだのだ。



 保健室を出ると、廊下はすでに薄暗い静寂に包まれていた。
 窓の外、校庭の銀杏の木々が、怪物のように枝を広げている。

 僕は、自分の足音が不気味なほど大きく響くのを聞きながら、校門へと向かった。
 頭の中では、手紙に書かれていた一節が、呪文のように繰り返されている。

『耕助をよろしくね』
 
 優水菜。
 お前が託したこの少女は、お前が思うような天使じゃなかった。

 お前の心臓を盾にして、俺を永遠に檻の中に閉じ込めようとする、最悪な嘘つきだ。

 そして、そんな嘘つきの演技に、一瞬でも心を動かされ、彼女を抱きしめたいと思ってしまった俺も、同じくらい最悪だ。

 僕は薄暗い街へと踏み出した。冷たい風が頬を叩く。

 文化祭の幕は、もうすぐ上がる。
 舞台の上で人魚姫を演じる彼女が、どんな嘘を吐き、どんな顔で僕を見るのか。
 僕はそれを、一番近くで見届けてやる。