君を、ハッピーエンドにしたくない。

 週末のあの水族館で、転校生が残した「彼女じゃないのに、ごめん」という言葉は、呪いのように僕の耳の奥にこびりついて離れなかった。
 掌に残った彼女の手の甲を叩く感触は、時間が経つほどに熱を帯び、僕の神経をじりじりと焼き続けている。

 優水菜を想えば想うほど、菜々美という少女の輪郭が、鋭利な刃となって僕の胸を刺す。その痛みから逃げ出すように、僕は月曜日の朝、まだ誰もいない教室へと逃げ込んだ。

 しかし、逃げ場なんてこの世界のどこにもなかった。



 二時限目の学級活動。チャイムと共に教室の扉が開き、担任の野太い声が、(よど)んだ空気を切り裂く。

「さて、今日は十一月の文化祭に向けた出し物を決めなきゃならん。まずは文化委員、前へ出ろ」

 僕は重い腰を上げた。
 かつて、この文化委員の席には、僕と真宮寺優水菜の二人が座っていた。

「二人でやれば、サボってもバレないし最高じゃん」と、鼻先を赤くして笑っていたあいつの姿が、教壇の横に立つたびに脳裏にフラッシュバックする。

 僕が独り、教壇の傍らで立ち尽くしていると、担任が真ん中の列に座る転校生を促した。

「真宮寺が抜けた枠だが、今後の運営も考えて、天ヶ瀬さんに引き継いでもらうことにした。天ヶ瀬、前に来てくれ」

 クラスメイトは知らない。目の前の彼女の胸の中で、優水菜の心臓が今この瞬間も脈打っていることも。
 彼女が、自分の意志ではなく、心臓に導かれるように優水菜の仕草をなぞっていることも。

 彼らにとって、これは単なる空席を埋めるための人事に過ぎない。しかし、僕と彼女の間には、誰にも踏み込めない、秘密があった。

 彼女は静かに立ち上がり、一切の迷いがない足取りで僕の隣へと歩み寄った。彼女が僕の隣に立ち止まった瞬間、あの水族館で嗅いだのと同じ、微かな石鹸の香りが鼻腔をくすぐる。

 僕はあえて彼女の顔を見ず、チョークを手に取って黒板に向き直った。

「……文化委員の久連です。えー、この二人で今年は進めます。まずは、やりたい出し物の案を出してください」

 自分の声が、驚くほど冷淡で、乾いているのが分かった。



 ◇ ◇ ◇



「模擬店、焼きそばとかどうかな」
「お化け屋敷がいいと思う。準備も分担しやすいし」
「無難に、今の授業の研究発表とか、展示系にしようぜ」

 クラスメイトたちが、淀んだ空気を振り払うように淡々と意見を投げ始める。僕はそれを機械的に、ただの記号として黒板に書き留めていく。

 その時、隣にいた彼女が静かに右手を挙げた。そして、黄色のチョークで迷いのない文字を黒板の中央に書いた。

「演劇はどうかな。……『人魚姫』とか」

 一瞬、教室内の時が止まった気がした。
 心臓が、どくん、と不吉な音を立てて激しく跳ねる。

 『人魚姫』――それは、去年の文化祭が終わった後の帰り道、夕暮れの校庭で優水菜が言った言葉だった。

『ねえ耕助、来年は演劇やりたいな。私、人魚姫がいい。泡になって消える前に、王子様にちゃんと言葉を伝えるの。それって、すごく素敵じゃない?』

 なぜ、彼女がその演目を知っている。
 偶然か。それとも、やはりあいつの心臓が、血流を通じて彼女の脳にその記憶を流し込んだのか。

「あ、いいかも。人魚姫なら衣装も華やかだし」
「天ヶ瀬さん、雰囲気あるもんね。主役とか似合いそう」

 クラスメイトたちは、それが優水菜の遺志であることも知らず、ただ新しい文化委員の提案として受け入れていく。
 その無邪気な賛同が、僕には耐え難かった。

 彼女はゆっくりと僕の方を向き、その深い琥珀色の瞳で、僕の視線を射抜いた。その瞳は、僕の動揺を静かに見透かしているように見えた。

「……好きにしろよ。多数決で決めるなら、俺に拒否権はない」

 僕は吐き捨てるように言い、チョークを粉々に砕くような勢いで教壇の上に置いた。

 話し合いは、彼女の主導で淡々と進んでいった。驚くほど的確に、彼女はクラスの意見を吸い上げ、スケジュールを割り振っていく。
 その手際の良さ、人を惹きつける天真爛漫な説得力は、かつての優水菜のそれと酷似していた。

 そして、それらすべてが、黒板に大きく書かれた『人魚姫』という文字と重なり合い、僕を袋小路へと追い詰めていく。

「久連くん、脚本はどうする? 既存のものを使うか、それともアレンジするか」
「お前に任せる。……俺は大道具の買い出しにでも行くよ。ここにいても邪魔だろ」
「……そう。わかった」

 彼女の声が、微かに震えた気がした。一瞬だけ、琥珀色の瞳に寂しげな色が差した。
 けれど、僕はそれを見なかったことにして、逃げるように教壇を降りた。



 ◇ ◇ ◇



 放課後、僕は誰もいない校舎の教室にいた。

 窓から差し込む夕日は血のように赤く、古いパネルを不気味に照らし出している。
 僕は独り、舞台背景に使う大きな木製パネルを無心で磨いていた。やすりをかける、しゃり、しゃりという音が、虚ろな教室に空虚に響く。

 何も考えたくなかった。

 転校生の中にいる優水菜。
 優水菜を追い出し、自分の意志で僕に近づこうとする転校生。

 その境界線が曖昧になるほど、僕は自分の輪郭が溶けていくような底知れない恐怖を感じていた。

「……やっぱり、ここにいたんだね」

 背後で扉が開く音がした。振り返らなくても分かった。この、空気の密度を変えるような存在感は彼女のものだ。

「何か用か。委員の打ち合わせなら、明日でいいだろ」
「明日じゃダメなの。……あなたと、二人で話がしたい」

 彼女は僕のすぐそばまで歩み寄り、企画書を机に置いた。

「『人魚姫』を選んだのは、彼女の記憶があったからじゃないよ。……私が、決めたの」
「嘘をつくな」

 僕は手を止め、彼女を睨みつけた。

「お前は、あいつが言っていた言葉をなぞっているだけだ。そうやって、俺の同情を引こうとしてるんだろ。それとも、心臓がそうしろって命じたのか?」
「嘘じゃない!」

 彼女が叫んだ。彼女の叫び声に、教室の空気がビリビリと震える。

「声が出せなくなった人魚姫が、王子様に気づいてもらえなくて、それでも隣にいたいと願う。……その姿が、今の私に重なったから。……真宮寺優水菜としてじゃなく、天ヶ瀬菜々美として、あなたに伝えたいことがあったから、これを選んだの!」

 彼女の瞳に、強い光が宿る。水族館で見せた弱々しさは、そこにはなかった。

「耕助くん。あなたは私を拒絶する。私の存在を、彼女の偽物だと罵る。……でも、文化委員として、私と一緒にこの舞台を作らなきゃいけない。……それは、あなたにとって地獄かもしれないけど、私にとっては、あなたと繋がれる唯一の『役』なの。これしかないの、私には!」

 彼女は僕の手を掴もうと、一歩踏み出した。僕は反射的に、その手を強く振り払う。

「役? ふざけるな! お前はただ、あいつがいなくなって空いた席に座って、あいつの人生を横取りしてるだけだ! あいつのやりたかったことを、自分の舞台にするための踏み台にしてるだけだろうが!」
「そうだよ、奪ったよ!」

 彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「奪ったよ! この心臓も、この居場所も、あなたの隣も!  ……でも、そうしないと私は一秒だって生きていられないの! 優水菜さんのふりをしないと、あなたは私を見てくれない。でも、彼女のふりをすれば、あなたは私を憎む。……私は、どうやってあなたの前にいればいいの? 私自身として生きることは、ここでは許されないの?」

 その涙は、優水菜のような、守りたくなるような綺麗な泣き顔ではなかった。
 もっと剥き出しで、生きることに必死な、一人の人間の絶叫だった。

「……俺は」

 僕は言葉を失った。
 目の前で、天ヶ瀬菜々美が泣いている。
 僕が愛した少女の記憶を抱えながら、その記憶に押し潰されまいと必死にもがいている一人の少女がいる。

 彼女を支えたい、と一瞬でも思ってしまった自分に、激しい嫌悪感を抱く。彼女の手を取ることは、優水菜の死を過去として受け入れてしまうことだ。
 
「……今は、分からないって言っただろ」

 僕は絞り出すように言った。声が震えないように、奥歯を噛み締めて。

「お前が誰なのか。俺が何をしたいのか。……ただ、この文化祭が終わるまで、俺は委員としての仕事はする。……それ以上は、何も期待するな」

 彼女は、涙を拭わずに小さく頷いた。

「……うん。それでいい。……ありがとう、耕助くん」

 彼女は企画書を胸に抱き、ふらつく足取りで準備室を出て行った。

 残されたのは、夕闇と、彼女の叫び声。
 窓の外では、銀杏の葉が狂ったように舞い踊っている。

 文化祭という名の、残酷な祝祭が始まる。
 それは死者の言葉を借りて、生者の心を切り刻む、救いのない劇の幕開けだった。

 僕は再び、やすりを手に取った。掌に残る、彼女の涙の熱さを、必死に削り取ろうとするみたいに。
 
 優水菜を想うほど、彼女の輪郭が深くなる。
 僕の世界は、取り返しのつかない終焉へと、ゆっくりと確実に滑り落ちていた。