君を、ハッピーエンドにしたくない。

「もう俺の前に現れるな」

 そう言い放って、校舎の教室で一人で過ごしていたあの日。僕は自分の心に鍵をかけたつもりだった。しかし、現実はいとも簡単に鍵を開け、土足で踏み込んでくる。



 金曜日の放課後、下駄箱を開けると、再びあの付箋が貼られていた。

『土曜日、十時に駅前で待ってます』

 苛立ちが、胃の奥からせり上がってくる。
 無視すればいい。放っておけばいい。そう自分に言い聞かせながら、土曜日の朝、僕は鏡の前でシャツの襟を整えていた。

 これは彼女に会いに行くのではない。あいつの心臓が、僕をあの場所に呼び寄せているだけだ。そう自分に言い訳をしなければ、一歩も外に出ることができなかった。



 ◇ ◇ ◇



 十時ちょうど。駅前の広場は、週末を楽しむ家族連れや恋人たちで賑わっていた。
 人混みの中に、一人の少女が立っていた。

「……耕助くん、こっち!」
 
 大きく手を振る彼女を見て、僕は息を呑んだ。
 そこにいた天ヶ瀬菜々美は、僕が知っている優水菜とは決定的に違う姿をしていた。

 優水菜はいつも動きやすさ重視のデニムやパーカーを好み、スカートなんてめったに履かなかった。

 だが、目の前の彼女は、柔らかなクリーム色の布地に繊細なフリルがあしらわれたワンピースを纏っていた。
 風が吹くたびに裾がふわりと舞い、彼女の病的なまでの白さを強調している。

「……なんだよ、その格好」

 開口一番、僕は冷たく言い放った。

「似合わないかな? ちょっと張り切ってみたんだけど」

 彼女は少し照れくさそうに、ワンピースの裾を指先で弄ぶ。

「優水菜は、そんな服は絶対に選ばない。……お前の趣味か?」
「……うん。私、こういう可愛い服、ずっと着てみたかったから。ずっとパジャマばっかりだったから」

 菜々美の笑顔が、一瞬だけ揺らいだ。けれど僕は、その微かな陰りにさえ気づかないふりをした。

「勝手にしろ。行くぞ」



 ◇ ◇ ◇



 目的地は、街外れにある大型水族館だった。
 入館した途端、彼女は子供のように瞳を輝かせた。

「わあ……すごい! 耕助くん、見て! 本当に全部、青いんだね!」

 彼女は巨大な水槽のガラスに張り付き、色とりどりの魚たちを追う。その振る舞いは奔放で、危ういほどのエネルギーに満ちていた。

 それは、長年病室という狭い世界に閉じ込められていた反動なのかもしれない。あるいは、内側にある優水菜の好奇心が、彼女を突き動かしているのか。
 
 彼女は僕の腕を掴み、あちこちの展示へとはしごする。サンゴ礁の魚、深海の奇妙な生き物、そして光り輝くクラゲ。

「ねえ、耕助くん! あそこ、行こう!」
 
 連れて行かれたのは、ウミガメが悠々と泳ぐエリアだった。
 大きな水槽の中、一匹の老いた亀が、重力など存在しないかのようにゆっくりと手足を動かし、水の層を掻き分けている。

 彼女はその姿を、飽きることなく見つめていた。
 
「亀って、なんであんなに長生きするか知ってる?」

 ふと、彼女が静かな声で言った。

「さあな。代謝が低いとか、そういう理由だろ」
「ううん。きっとね、ゆっくりゆっくり毎日を生きてるからだよ。急がず、焦らず、自分の歩幅で。……そうすれば、時間は少しだけ、長く味方をしてくれるのかもしれない」
 
 彼女の横顔を横目で見た。逆光に透ける髪、少しだけ震える睫毛。

 その言葉は、優水菜の記憶からの引用ではなく、間違いなく彼女――天ヶ瀬菜々美の内側から漏れ出た祈りのように聞こえた。

 しかし、そのゆっくりした時間は、長くは続かなかった。
 


 深海魚コーナーの暗い通路を歩いている時、彼女の足取りが突然もつれた。

「……っ」
「おい、どうした?」

 慌てて肩を支えると、彼女の手は氷のように冷たく、ひどく震えていた。

「……大丈夫、ちょっと。……心臓が、びっくりしただけ」
 
 彼女の額には汗が浮かび、唇の赤みは完全に消え去っていた。呼吸は浅く、喉の奥から苦しげな音が漏れる。
 僕は彼女を近くのベンチへと抱えるようにして運んだ。
 
「吐き気が……する……」

 彼女は自分の胸を強くかきむしるようにして、背中を丸めた。

 彼女は、まだ移植後の身体に慣れておらず体調を崩したのだろう。
 
「……無茶をするからだ。身体が弱いなら、家で寝てりゃいいだろうが」

 僕は毒づきながらも、彼女の背中をさすった。
 
 苦しそうに顔を歪める彼女を見て、僕の脳裏にかつての光景が蘇る。

 小学生の頃。真夏の炎天下で遊びすぎて、優水菜が熱中症で倒れた時のこと。優水菜は今の彼女と同じような顔で震えていた。
 あの時、僕がしたこと。
 
「……貸せ」

 僕は彼女の手のひらに「静」という文字をひたすら書き殴る。

「え……?」
「おまじないだ。……優水菜が昔、よくやってくれって言ってたんだよ」
 
 僕は彼女の手に文字を書き続ける。
 優水菜は「こうしてると、ちょっとくすぐったくて落ち着くんだ」と言って笑っていた。
 
 一分、二分。
 彼女の荒い呼吸が、次第に整っていく。彼女は、潤んだ瞳で僕の横顔をじっと見つめていた。
 
「……落ち着いたか」
「……うん。ありがとう、耕助くん。……優しいんだね」
 
 その「優しい」という言葉が、今の僕には何よりも辛かった。
 僕が優しくしたのは彼女ではない。彼女の中にいる、僕の愛した少女に対してだったから。



 ◇ ◇ ◇



 帰り道、夕焼けに染まる駅のホーム。
 彼女は、先ほどまでの衰弱が嘘のように、凛とした表情で立っていた。けれど、その足元はまだどこかおぼつかない。
 
「今日は、楽しかった。……優水菜さんも、きっと喜んでると思う」

 彼女はそう言って、僕に背を向けようとした。

「待てよ。……お前、自分の体調くらい分かってるだろ。無理に動いて死んだら、その心臓はどうなると思ってるんだ」
 
 僕の問いに、彼女は立ち止まった。
 彼女はゆっくりと振り返り、寂しげな、けれどどこか清々しい微笑みを浮かべた。
 
「分かってるよ。……私は、器に過ぎないんだもんね」

 彼女の声が、電車の接近を知らせるアナウンスに混じる。

「……ごめんね、耕助くん。彼女じゃないのに、彼女のふりをして。彼女の記憶を盾にして、あなたの優しさを奪って」
 
 彼女は深く頭を下げ、それから一度も振り返ることなく、滑り込んできた電車へと吸い込まれていった。
 
 一人残されたホーム。
 冷たい秋風が通り抜ける。
 僕は、自分の手のひらを見つめた。先ほどまで彼女の冷たい手に触れていた感覚が、今も痺れるように残っている。
 
 優水菜のことを想えば想うほど。
 彼女の面影を追いかければ追いかけるほど。
 
 天ヶ瀬菜々美という、一人の少女の不器用な優しさと、孤独な覚悟の輪郭が、鋭いナイフのように僕の胸に食い込んでくる。
 
 それは優水菜に対する裏切りのような、許容しがたい痛みだった。
 
 僕は、薄っすらとした夜空を見上げた。そこにはまだ、星は見えない。
 ただ、遠くで聞こえる心臓の音だけが、不気味なほど鮮明に耳の奥で鳴り響いていた。