君を、ハッピーエンドにしたくない。

 今日の放課後、坂道で突きつけられたあの鼓動の熱が、拳からいつまでも消えない。



 自宅に逃げ帰り、自分の部屋のベッドに倒れ込んでも、天井を見つめる僕の瞳には琥珀色の瞳と、優水菜の最期の笑顔が代わる代わる投影された。



 優水菜の心臓が、彼女の中で生きている。



 そんな事実は、救いなどではなかった。むしろ、一度埋葬したはずの悲しみを掘り起こされ、塩を塗り込むような残酷な仕打ちに思えた。



 結局、一睡もできないまま僕は朝を迎えた。鏡の中の自分は、幽霊のように青白く、目の下には深い隈ができている。



 重い足取りで登校し、昇降口で自分の下駄箱を開けた瞬間、見覚えのない一枚の付箋が僕の目に映る。



『お昼休み、屋上で待ってます。購買の焼きそばパン、いつもみたいに一緒に食べよう。 菜々美』



 丸みを帯びた、けれどどこか力強い筆跡。優水菜の書く文字に、驚くほど似ていた。



「……いつもみたいに、だと?」



 怒りと困惑が混ざり合った吐息が漏れる。昨日、あんなにひどい言葉をぶつけて別れたというのに、彼女はまるで何事もなかったかのように、僕たちの日常に踏み込もうとしていた。







 ◇ ◇ ◇







 授業中も、その付箋のことばかりが頭を巡った。

 優水菜との昼休みは、いつも賑やかだった。彼女が購買で争奪戦に勝ち抜いた焼きそばパンを自慢げに掲げ、僕が半分呆れながらそれを受け取る。そんな、ありふれた、けれど二度と戻らないはずの光景。



 昼休みのチャイムが鳴ると同時に、僕の机の前に彼女が現れた。

 真宮寺菜々美。

 彼女は周囲の視線など気にせず、僕の席まで一直線に歩み寄ると、有無を言わさぬ力で僕の腕を掴んだ。



「ほら、行くよ耕助くん!」

「おい、ちょっと待て、引っ張るな……!」



 彼女の手は驚くほど細い。なのに、その力は抗あらがいがたいほどに強かった。



 彼女が連れて行ったのは、屋上ではなく、人気のない校舎の空き教室だった。埃が舞い、午後の光が斜めに差し込む空間。



「屋上じゃないのかよ」

「あそこ、今日は風が強いから。……私、まだあんまり身体が強くないんだ」



 彼女は茶目っ気たっぷりに自分の左胸を指さし、机の上に二つの焼きそばパンを並べた。



 彼女の動きは、どこか浮ついていた。椅子に座る時も、パンの袋を開ける時も、まるで初めて自由を手に入れた子供のように、一挙手一投足に過剰なまでのエネルギーが宿っている。



「……お前さ、昨日あんなこと言っといて、よく平気な顔でいられるな」



 僕は彼女から視線を逸らし、吐き捨てるように言った。



「泥棒って言ったんだぞ、俺は」

「覚えてるよ。でも、忘れちゃった」



 彼女は焼きそばパンを頬張りながら、無邪気に笑う。



「私ね、ずっと病室にいたの。走ることも、外の空気を吸うことも、誰かとパンを分け合うことも、全部『いつかやりたいことリスト』の中だけの出来事だった。……だから今、こうして耕助くんの隣にいられるのが、嬉しくてしょうがないの」



 彼女の奔放な振る舞いは、病弱だった過去の反動なのだろうか。それとも、内側にある優水菜の活発さが、彼女の殻を突き破って溢れ出しているのだろうか。

 どちらにせよ、僕にはそれが耐え難かった。



 優水菜がいないのに、優水菜の好きなパンがそこにあり、優水菜のような仕草で笑う少女がいる。その歪なパズルが、僕の精神を消耗させていく。



「やめてくれ」



 僕は彼女の手からパンを奪い取り、机に叩きつけた。



「そんなふうに、あいつの真似事をするのはやめろ。お前がどんなに頑張っても、お前は優水菜じゃない。あいつはもう死んだんだ。この世のどこにもいないんだよ!」



 僕の叫びが、無人の教室に虚しく響く。

 彼女は笑うのを止め、驚いたように僕を見つめた。



「真似じゃないよ、耕助くん。私はただ――」

「ただ何だよ! 心臓が覚えてるとか、夢を見るとか、そんなの全部お前の妄想だろ? もし本当だとしても、それはお前の感情じゃない。お前はただ、あいつの残した意味のないものを押し付けられてるだけだ!」



 言葉が、刃物になって自分の口から溢れ出す。

 彼女を傷つけたいわけじゃない。けれど、彼女を受け入れることは、優水菜を忘れることと同義に思えて、どうしても自分を止められなかった。



「お前がここに転校してきたのも、俺に近づいたのも、全部あいつのせいにするな。お前自身の意志はどうなんだよ。お前は、誰の人生を生きてるんだ?」



 僕は一方的に言葉を浴びせ続けた。沈黙が怖かった。彼女が何かを言い返すたびに、僕の中の優水菜が薄まっていくような気がして。



「俺は、お前なんて知らない。お前のことを見たくもない。……その心臓を返せなんて言わない。お前の命なんだから。でも、俺の前に現れるのだけは、もうやめてくれ。……あいつの思い出を、これ以上汚さないでくれ」



 言い切ると、胸の奥が焼けるように熱かった。最低だ。救われた側の人間を、こんなふうに追い詰めるなんて。

 彼女は、俯いたまま動かなかった。長く艶やかな黒髪が顔を隠し、彼女がどんな表情をしているのか、僕には分からなかった。







 長い沈黙の後。

 彼女がゆっくりと顔を上げた。

 彼女の瞳には、涙は浮かんでいなかった。

 ただ、そこには底知れない虚無感と、諦めにも似た静けさが宿っていた。



「……ねえ、耕助くん。一つだけ教えて」



 彼女の声は、先ほどまでの奔放さが嘘のように、ひどく冷えていた。



「君は今、私を見てるの? それとも、私の中の『彼女』を見てるの?」



 その問いは、僕の心を正確に貫いた。



 僕は、息を呑む。

 目の前にいるのは、天ヶ瀬菜々美という一人の少女だ。

 白く細い指。琥珀色の瞳。僕を困惑させる奔放な言動。



 けれど、その奥に透けて見えるのは、焼きそばパンが好きで、悪戯っぽく笑い、僕の名前を呼んでいた真宮寺優水菜の幻影。



 僕が憎んでいるのは菜々美なのか。それとも、彼女の中に残っている優水菜を救えない自分なのか。



 僕が求めているのは、あの日止まった鼓動なのか。それとも、今こうして目の前で震えている少女の叫びなのか。



「……今は、分からない」



 絞り出すように答えた僕の声は、情けないほどに震えていた。



「お前の中に、あいつがいるのは分かった。でも、お前自身が誰なのか……俺には、もう何も分からないんだ」



 彼女は、ふっと自嘲気味に微笑んだ。

 その微笑みは、優水菜のどの記憶にもない、彼女自身の、寂しさに満ちた色をしていた。



「……そっか。正直だね」



 彼女は立ち上がり、食べかけのパンを手に取った。



「でも、これだけは覚えておいて。……私は、あなたに嫌われるために生きてるわけじゃない。この子がね、どうしてもあなたに『ありがとう』って言いたいって、昨日からずっと、うるさいくらいに夢に出てくるから。……だから私は、ここにいるの」



 彼女は、それだけを残して教室を後にした。



 一人残された僕は、静かな空間で、ただ立ち尽くしていた。



 窓の外では、病的なまでに黄色い銀杏の葉が、風に煽られて地面へと落ちていった。