君を、ハッピーエンドにしたくない。

 真宮寺優水菜がいなくなってから、三ヶ月が過ぎた。

 窓の外では、暴力的なまでに鮮やかだった夏の緑が枯れ果て、校庭の銀杏が病的なほどに黄色く染まっている。

 乾いた秋風が窓を叩く音だけが、死んだように静まり返った十月の教室に響いていた。

 僕は、頬杖をつきながら虚空を見つめていた。教科書を広げてはいるが、活字の一行も頭には入ってきていない。僕の時間は、あの雨の葬儀の日から一秒も進んでいなかった。

 世界は色彩を失い、音を失い、ただ「今日をやり過ごす」という義務だけが、鉛のような重さで肩に乗っている。

「――おい、久連。聞いてるのか」

 担任の野太い声が、耳の奥に溜まった(おり)をかき乱した。僕は力なく視線を教壇へ戻す。そこには、担任の傍らに一人の少女が立っていた。

「ゴホン! 転校生を紹介する。今日からこのクラスの一員となる、天ヶ瀬菜々美さんだ」

 その瞬間、教室の空気が目に見えて震えた。
 男子生徒たちの、期待と好奇が入り混じった溜息。女子生徒たちの、値踏みするような鋭い視線。
 それらすべてを無効化するほどの、圧倒的な存在が彼女の周りには漂っていた。

 天ヶ瀬菜々美。
 雪のように白い肌、長く艶やかな茶髪、そして、感情を一切拒絶したような深い琥珀色の瞳。
 彼女は、この薄汚れた教室という空間に、間違って迷い込んでしまった童話の住人のように見えた。

 だが、僕を硬直させたのは、その美しさではなかった。

「……あ」

 心臓の奥が、ぎりりと音を立てて絞められた。
 彼女が教壇から自分の席へ向かって歩き出した、その一歩。
 
 すれ違いざま、自分の顔にかかった髪を払うように、右手の指先で一房の髪をすくい、耳の後ろへと流すその指の動き。

(嘘だ……)

 指先から血の気が引いていく。
 その動作、その角度、そのタイミング。すべてが、かつて隣にいた少女――真宮寺優水菜のそれと、完全に一致していた。

 転校生は、空席となった僕の隣の隣の席に座った。
 彼女が椅子に深く腰掛けた瞬間、僕の鼻腔をくすぐったのは、消毒薬の匂いと、どこか懐かしい石鹸の香りだった。

 彼女は一度だけ、僕の方を見た。
 初対面のはずの視線。しかし、そこには言いようのない親愛と、底知れない悲しみが同居していた。
 僕は耐えきれず、握りしめた拳を机の下に隠した。



 その日の授業は、もはや地獄だった。
 僕は教科書の隅に、無意識に「誰だ」という二文字を書き殴っていた。

 転校生は授業中、一度もノートを取らなかった。
 ただ、吸い込まれるような瞳で、窓の外を見るか、あるいは――じっと僕の横顔を見つめ続けてきた。

 彼女の視線が肌に触れるたび、僕の脳裏には優水菜の最期の笑顔がフラッシュバックする。

『名誉あるドナーになるんだから』

 あの、痛々しい強がり。

『もっと耕助と遊びたかったよ』

 あの、消え入りそうな本音。

 それらが転校生の姿と重なり、溶け合い、形を崩していく。

 僕は何度も「気のせいだ」と自分に言い聞かせた。臓器くじで死んだ人間と、目の前の転校生。接点などあるはずがない。

 けれど、彼女がふとした瞬間に机を指で叩くリズムさえも、優水菜の癖と合致していた。



 ◇ ◇ ◇



 放課後、帰宅部である僕は、逃げるように教室を飛び出した。

 夕焼けに染まった廊下を、心臓の音を響かせながら駆け抜ける。
 
 校門を出て、住宅街へと続く坂道を登る。
 秋の日は短く、世界はすでに血のような茜色に沈みかけていた。

「……はぁ、はぁ」

 息を吐きながら、ようやく自宅近くの角を曲がろうとした時。

「――久しぶり、耕助」

 背後から届いたその声に、僕の思考は完全に停止した。

 振り返る必要すらなかった。この声は、例の転校生のもの。
 ゆっくりと後ろを振り返ると、そこにはやっぱり彼女がいた。

 長い影をアスファルトに伸ばし、彼女は夕日を背負って立っていた。逆光のせいで表情は見えない。
 けれど、彼女の纏う空気だけが、異常なほどの解像度で迫ってくる。

「……久しぶりって。お前、何なんだよ」

 僕の声は(かす)れ、ひび割れていた。

「今日初めて会ったはずだろ。なんで、お前に名前で呼ばれなきゃいけないんだ」

 怒りと恐怖が混ざり合った叫び。

 だが、転校生は動じなかった。彼女は静かに、けれど迷いのない足取りで距離を詰め、僕の鼻先で足を止めた。

 彼女の瞳が、至近距離で僕を捕らえる。その中には、鏡のように僕の怯えた顔が映っていた。

「私は、耕助が大好きだよ」

 転校生が紡いだ言葉は、告白などという甘い響きを持っていなかった。

「ふざけるな……。頭おかしいのか? ストーカーか何かか? 俺は、お前のことなんて知らない。今日初めて会ったんだ!」
「そう。私たちは今日、初めて出会った。天ヶ瀬菜々美と、久連耕助として」

 彼女は悲しげに首を振った。そして、自分の左胸――制服のエンブレムの下にある、心臓の鼓動が打つ場所に、そっと掌を当てた。

「でも、ここにあるのは、私の心臓じゃないの」

 その声の震えに、僕の怒りが一瞬だけ止まる。

「私ね、この夏に死ぬはずだったの。病院のベッドの上で、ただ機械に繋がれて、静かに冷たくなっていくのを待つだけの毎日だった。……でも、七月。私に奇跡が起きた。あの日、初めて運用された『臓器くじ法』。その第一号のレシピエントが、私」

 僕の頭の中で、パズルのピースが音を立ててはまっていく。
 
「まさか……お前……優水菜の……?」
「真宮寺優水菜さんの心臓。……それが、今、私の身体の中で脈打ってる」

 転校生が、僕の右手を掴んだ。
 彼女の手は、驚くほど冷たかった。まるで死者の体温をそのまま引き継いでいるかのように。

 彼女はその冷たい手で、僕の掌を、自らの左胸へと力強く押し当てた。

 ドクン。ドクン。ドクン。

 掌を伝わってくるのは、力強く、不規則な鼓動。

 忘れようとしても忘れられなかった、あの記憶の中の音。

「……っ!」

 僕は手を引き抜こうとした。だが、転校生の力は異常なまでに強く、僕はその拍動から逃れることができなかった。

「私ね、夢を見るの」

 転校生は、空を見上げて呟いた。彼女の瞳から、一筋の涙が頬を伝う。

「彼女の記憶。彼女が見たかった景色。彼女が伝えたかった想い。……この心臓が、私の脳に直接語りかけてくるの。あなたが好きなこの坂道。あなたがいつも買っていた炭酸飲料の味。……そして、あの日、赤いハガキを見た時の、彼女の本当の気持ち」

 転校生は僕の瞳を覗き込み、囁いた。

「『耕助を一人にしたくない。もっと一緒にいたかった。大好きだよって、一言でも言っておけばよかった』……そんな、行き場のない後悔が、毎晩、私を眠らせてくれないの。彼女は今も、私の中で泣いてる。あなたを求めて、叫んでる」
「やめてくれ……」

 僕は膝から崩れ落ちそうになった。

「それはお前じゃない。お前は優水菜じゃないんだ! お前は、彼女を殺して生き残った……ただの泥棒じゃないか!」

 酷い言葉だった。自分でも分かっていた。
 彼女が望んで心臓を奪ったわけではないことも、彼女自身も苦しんでいることも。

 けれど、こうして誰かの形をして、誰かの記憶を持って目の前に現れることが、僕には耐え難い冒涜に思えた。

「そうだよ、泥棒かもしれない。私は彼女の未来を盗んで、今こうして呼吸している。……でもね、耕助。私は、彼女の後悔を叶えるためにここに来たの」

 転校生は僕の前に膝をつき、僕の視線に自分の瞳を合わせた。

「私を、彼女だと思って接してほしいなんて言わない。私を憎んでもいい。……でも、彼女が私に残した思い出を、一緒に終わらせてくれないかな」

 夕闇が街を包み込み始める。
 街灯がひとつ、ふたつと点り始め、僕たちの影を奇妙な形に歪ませる。

 僕は、目の前の彼女の中に、確かに優水菜を感じていた。
 その仕草、その音、その温度。

 けれど同時に、彼女は決定的に優水菜ではなかった。
 優水菜よりもどこか静かで、壊れやすく、そして、自分自身の意志で立ち向かおうとしている一人の少女。

「……私、夢を見るの。あなたと行くはずだった、これからを」

 転校生の声は、夜風に混じって消えていった。
 僕は、自分の掌に残った鼓動の感触を見つめた。
 それは、僕が何よりも憎み、何よりも切望した、愛しい人の残響。

「⋯⋯名前なんだっけ?」
「菜々美。私は菜々美だよ」
「そっか。一応覚えとく」

 この日、僕の世界は再び動き出した。

 それは再生への道ではなく、僕と、死者に生かされた者との、あまりにも残酷で狂おしい旅の始まりだった。