君を、ハッピーエンドにしたくない。

「本日より、わが国では『適格ドナー選定制度』──通称『臓器くじ法』が施行されます。並びにこの後、厳正なる抽選の結果、初めての当選者が選出される模様です。国民の皆様におかれましては、救える命のための崇高な義務であることを、改めてご理解いただき……」

 朝の静寂を切り裂くように、テレビから流れるアナウンサーの声は、まるで明日の降水確率を告げるかのように淡々としていた。

 僕は、いつものように鏡の前で窮屈な制服のネクタイを締め直しながら、その声を右から左へと聞き流していた。

「臓器くじ、か」

 独り言のように呟いてみるが、実感は湧かない。
 それはどこか遠い国の、あるいは映画の中の出来事のように思えた。

 健康な若者からランダムにドナーを選び、難病患者にその命を譲渡する。

 非人道的だと叫ぶ海外メディアの声も、国内のデモも、この国の巨大な歯車を止めるには至らなかった。

「耕助、早くしないと遅れるわよ!」

 台所から母親の声が響く。テレビの中では、救われる側の患者家族の涙ながらのインタビューが始まっていた。

 僕はリモコンを手に取り、無造作にスイッチを切った。画面が暗転し、無音になったリビングに、セミの鳴き声だけがなだれ込む。

 自分は健康だ。だが、この国には何千万という若者がいる。自分が当選者になる確率なんて、宝くじに当たるよりも低いはずだ。

 僕はカバンを掴み、いつものように家を出た。

 その時の僕は、まだ知らなかった。
 この他人事だったはずのニュースが、明日の昼、自分の世界のすべてを粉々に破壊することを。



 ◇ ◇ ◇



 翌日。
 校舎の屋上へと続く階段の踊り場で、僕は彼女を待っていた。

 幼馴染の、真宮寺優水菜(まみでらゆずな)

 生まれた時から隣にいて、喧嘩をしては仲直りを繰り返し、言いたいことを言い合ってきた。僕にとって空気のように当たり前で、けれどなくてはならない存在。

「お待たせ、耕助!」

 背後から明るい声がした。振り返ると、優水菜がいつものように悪戯っぽく笑いながら駆け寄ってくるところだった。

 夏の日差しを浴びて、彼女のポニーテールが軽やかに揺れる。

「なんだよ、改まって呼び出しなんて」

 僕が照れ隠しにぶっきらぼうに言うと、優水菜は「えへへ」と喉を鳴らして笑った。
 そして、背中に隠していた右手を、スッと僕の目の前に突き出した。

「じゃーん。見て見て、これ。すごいでしょ?」

 僕の視界が、一瞬で真っ赤に染まった。

 優水菜の細い指先に握られていたのは、一枚の真っ赤なハガキ。
 その中央には、仰々(ぎょうぎょう)しい国章とともに、太い黒文字でこう記されていた。

【適格ドナー選定通知書】

「……え?」

 僕の思考が停止した。心臓が嫌な跳ね方をする。
 赤い紙。それは昨日、テレビで何度も映し出されていた「当選」の証。

「私、選ばれちゃった。第一号だって。すごくない? 宝くじにも当たったことないのにさ」

 優水菜は笑っていた。まるで、放課後に一緒に買い食いするアイスが当たったかのような、軽い調子で。

「……嘘だろ。冗談、だよな? それ、偽物だろ?」

 僕の声が震える。

「本物だよ。来週には、検査のために入院しなきゃいけないんだって」
「笑ってる場合かよ!」

 僕は思わず彼女の手首を掴んだ。

「臓器くじだぞ!? 選ばれたら、その、もう……」
「わかってるよ」

 優水菜は笑顔を崩さない。だが、僕が掴んだ彼女の手首は、真夏の熱気の中でも凍りつくように冷たかった。

「私ね、思ったんだ。私の心臓で誰かが助かるなら、それはそれでカッコいいかなって。ほら、私って勉強もスポーツも中途半端だったでしょ? 最後に誰かの役に立てるなら、それもアリかなって」
「ふざけるな! ありなわけないだろ!」

 僕の叫びが階段に響く。
 優水菜は一瞬、眉を下げて困ったような顔をした。その瞳の奥に、言葉とは裏腹の、底知れない暗闇が見えた。

「……本当はね、もっと耕助と遊びたかったよ」

 ポツリと、彼女が零した。

「冬になったら、また一緒にスケート行くって約束したもんね。新しいカフェも行こうって言ったし。……でも、しょうがないじゃん。決まっちゃったんだもん」

 彼女は再び、満面の笑みを作った。無理やり口角を引き上げ、自分自身を騙し込むような、痛々しいまでの笑顔。

「だからさ、耕助。悲しい顔しないでよ。私は『名誉あるドナー』になるんだから」

 その笑顔が、僕には助けてという悲鳴にしか聞こえなかった。
 けれど、僕はその手を握り返すことしかできなかった。

 国家という巨大な怪物に、自分たちの小さな日常が飲み込まれていくのを、ただ呆然と見送ることしかできなかった。

 ──そして、別れは。残酷なほどあっけなかった。



 ◇ ◇ ◇



 優水菜の葬儀は、厳かな空気の中執り行われた。

 斎場には、泣き崩れる彼女の両親。肩を震わせるクラスメイトたち。

 遺影の中の優水菜は、あの日と同じように、何もかもを受け入れたような顔で笑っている。

 僕は、その輪の中に加わることができなかった。
 斎場の隅に立ち、ただ一点を見つめていた。

(なんでだよ……)

 込み上げてくるのは、行き場のない怒りだった。

 あんなに健康で、あんなに笑って、あんなに生きたがっていた彼女を、どうして「くじ」の一言で殺せるんだ。

 制度を作った政治家か。それとも、心臓を受け取ったどこかの誰かか。あるいは、あのニュースを他人事だと聞き流していた、自分自身か。

 苛立ち、不満、後悔。
 あの日、もっと強く彼女を抱きしめていれば。
 あの日、行くなと、制度なんて無視して逃げようと言っていれば。

 一度も伝えられなかった、好きだという言葉が、喉の奥で泥のように沈殿している。

 ふと気づくと、斎場の窓の外が急激に暗くなっていた。
 数分前まで照りつけていた夏の日差しはどこへやら、厚い鼠色の雲が空を埋め尽くしている。
 バラバラと、屋根を叩く音がし始めた。
 雨だ。

 それは、しっとりとした雨ではない。
 湿り気を帯びた重苦しい空気が、一気に爆発したような、荒れ狂う夕立だった。
 雨粒が、アスファルトを叩きつけ、視界を遮っていく。

(神様も、泣いてるのか?)

 いや、違う。
 この雨は、悲しみなんてものじゃない。
 言葉にならない絶望と、吐き気のするような不条理への、どす黒い叫びだ。

「……ふざけんなよ」

 僕は誰にも聞こえない声で毒づいた。
 ただ、激しさを増す雨音の中で、僕は自分の鼓動だけを異様に大きく感じていた。

 優水菜が止めてしまった音が、自分の胸の中で、皮肉なほど力強く鳴り響いている。

 雷鳴が轟き、一瞬、世界が真っ白に染まった。
 その光の中に、あの日、赤いハガキを前にして強がって笑った、優水菜の最後の顔が焼き付いて離れなかった。

「生きて、耕助」

 幻聴のように聞こえた彼女の声。
 僕は震える拳を強く握りしめ、土砂降りの雨の中へと、一歩を踏み出した。

 この不条理な社会で、彼女の鼓動が消えた世界で、どうやって生きていけばいいのか。
 答えはまだ、雨の音にかき消されて、何ひとつ聞こえてはこなかった。