体育館の床は、いつもより広く見えた。
天井の蛍光灯が白くて、バスケットゴールの影がゆらゆら揺れている。スピーカーの前に集まった私たち中学3年生の生徒たちは、同じTシャツを着て、同じ方向を向いて、同じように息を整えていた。
――あと三週間。
最後の体育祭まで。
「じゃあ一回、通してみるよ!8カウントで、いったん列に戻って」
学年ダンスのリーダー、美波の声が体育館に響く。
美波は派手なタイプじゃない。でも真面目で、責任感が強くて、みんなの空気を変える力がある。そんな彼女が、いまは私を見ないようにしているのが分かった。
見ないようにしてるのに、気を遣ってるのが伝わってくる。
それが、いちばん苦しい。
私は右足の義足を、もう一度だけ確かめた。
ベルトの締まり。金具の位置。靴紐の結び目。擦れているところに貼った保護テープ。
大丈夫。今日はいける。
いや、いけるじゃなくて、いく。
みんなと同じように踊りたい。
そのために、私はここにいる。
「音、出すよー!」
誰かが再生ボタンを押す。低音が床からせり上がってきて、心臓の鼓動と重なる。
ワン、ツー、スリー、フォー。
私は口の中で数える。数えないと、怖い。
最初の振りは得意だ。腕を大きく回して、肩を落として、視線を斜めに切る。足より先に上半身を決めれば、遅れた分をごまかせる。
――ごまかす、って言葉が嫌いなのに。
ファイブ、シックス。
体重移動。義足側に乗せる瞬間だけ、どうしても一拍遅れる。自分の脚じゃないから。私のものなのに、完全には私の言うことを聞かない。
セブン、エイト。
列に戻る。
戻れた。
よし、いける。
次の8カウント。問題はここだ。
ターン。踏み込んで、回って、着地。最後に軽くジャンプみたいに弾む。
みんなが揃って跳ねたら、きれいだ。
私も、揃いたい。
ワン。ツー。スリー。
回る。視界が一瞬ぐるんと流れて――
カチン。
小さな音。
私の義足のどこかが、擦れた音。
いまの、聞こえちゃったかな?
その瞬間、身体の芯が固くなる。
フォー。ファイブ。
ベルトが、ほんの少しだけ緩んだ気がした。気がしただけ。そう思いたい。
私は無意識にスピードを上げる。遅れたくない。目立ちたくない。特別だって思われたくない。
シックス。セブン。
跳ぶ――
その瞬間、義足側の足首が、ほんのわずか沈んだ。
沈んだ分だけ、私の膝が抜ける。
あ、と思ったときには遅かった。
床が近づく。
世界がスローモーションになって、体育館の天井が遠ざかる。
次の瞬間、肩から落ちた。肘が擦れて、痛みが遅れて追いかけてくる。
音楽が止まった。
「雫!」
誰かの声がした。咲の声だった気がする。
いろんな足音が近づいてきて、私の周りで止まる。視線が降ってくる。
優しさの雨は、冷たい。
「大丈夫!?痛くない!?」
「立てる?」
「……いったん休も、雫」
私は床に手をついて起き上がろうとして、義足がうまく噛み合っていないのに気づく。
金具が外れかけていた。ベルトがズレている。
ほら。やっぱり……。
悔しさが、喉の奥に詰まる。
「……平気」
平気、って言うのは癖だ。
平気って言わないと、終わるから。
「ちょっと、待って。私、直すから」
私は笑ってみせた。笑えば、みんなも笑ってくれる。そうすれば空気が軽くなる。
空気が軽くなれば、「私のせい」が薄まる。
でも、みんなの顔は笑わなかった。
笑えなかったんだと思う。真面目な美波の顔は、責任の重さで固まっていた。
「雫……今日は、見学にしよ」
美波の声は、優しい。
優しいから、刺さる。
「危ない。転んだら、もっと――」
美波が言いかけて止める。
もっとの続きを、私は勝手に補ってしまう。
もっと迷惑。もっとみんなの時間を奪う。もっと……。
私は口角だけ上げた。
「うん。分かった」
そう言った瞬間、自分の胸の奥がひび割れる音がした。
休憩の合図が出て、みんなは水分を取りに散っていく。
私は体育館の隅、カーテンの陰に隠れるように座り込んで、義足のベルトを締め直した。テープがずれて、皮膚が赤くなっているのが見える。
痛い。
でも、この痛さは、まだ我慢できる。
我慢できる痛さは、痛くないってことにしてしまう。
「雫……ごめんね。さっき、無理させた」
咲がしゃがみこんで、私の顔を覗き込む。
咲は私の親友で、いつも真っ直ぐだ。
「ううん。私が勝手に――」
「勝手に、じゃないよ。だって雫、ずっと頑張ってたじゃん」
その言葉が、ありがたくて、苦しい。
私は咲の手を軽く押して、笑った。
「大丈夫。ほんとに」
咲は納得してない顔をしたけど、呼ばれて立ち上がった。
私の周りから、人が一人、また一人と離れていく。
私は聞こえないふりをした。
聞こえないふりが、いちばん得意だ。
「……雫、やっぱ外した方がいいのかな」
「安全のためって言ってもさ、本人がやりたいって……」
「でも転んだじゃん。体育祭、本番で転んだら――」
声は、体育館の反対側から飛んできた。
私のことを心配している声だ。責めていない。悪意もない。
それが余計に、逃げ場をなくす。
私がいるだけで、みんなを困らせる。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
泣くのは嫌だ。泣いたら本当にかわいそうになってしまう。
みんなと同じ、って……そんなに欲張りかな……。
欲張り、って言葉が嫌いなのに。
欲張りだって思われるのが嫌なのに。
でも、諦めるのはもっと嫌だった。
「……さっきの」
近くから声がして、私は肩を跳ねさせた。
顔を上げると、カーテンの隙間に誰かが立っていた。
背は高くない。髪は黒くて、前髪が少し長い。存在感が薄いのに、目だけは真っ直ぐ。
同じクラスの、律だった。
目立たない子。
いつも窓際で、ノートに何か書いている子。
話したことは……ほとんどない。
「……律?」
「ごめん。驚かせた」
律はそう言って、目を逸らした。
でも、私の義足を見ない。見ないで、私の手元だけを見る。
その視線が、変に落ち着く。
「さっきのターン、4拍目で体重が抜けてた」
「……見てたの?」
口調がきつくなるのが分かった。
見られたくなかった。転ぶところなんて、特に。
律は頷いた。
「見てた。というか……全体の動きを、見てた」
「何それ。偵察?」
「違う。……振付、好きなんだ」
律は鞄から、一冊のノートを取り出した。
表紙は地味なグレーで、角が少し擦れている。私の知らない、律の時間が詰まっている感じがした。
「これ」
律はノートを私の前に置く。
私は反射的に、手を引っ込めた。
「……何?」
「学年ダンス。ここ、動線がきつい。雫の脚に、合ってない」
「……合ってないって」
私の声が、かすれた。
合ってないって言葉が、すごく優しくて、すごく残酷に聞こえる。
律はノートを開いた。
そこには、線と数字がぎっしり書かれていた。
ワン、ツー、スリー、フォー。
8カウントごとに区切られたページ。棒人間みたいな図。矢印。隊形。
そして――私の名前。
『雫:ジャンプなし/右足で踏み替え→上体で見せる』
『雫:5で肩入れ、6で視線、7・8で腕を大きく』
目の前が、ぼやけた。
涙じゃない。そんなものじゃない。単に、理解が追いつかない。
「……なんで、私の名前が」
「さっき転んだとき、ベルトがズレた。たぶん、難い動きが続いて緩んだんだ。だから――」
「だから、私だけ別の動き?」
言ってしまってから、後悔した。
律の言葉を潰すみたいで。
でも、止まらなかった。
「私、みんなと同じように踊りたいんだよ」
「同じ、って……何?」
「同じは、同じだよ。揃って、同じタイミングで、同じように――」
言いながら、喉が痛くなった。
私が欲しかった「同じ」は、本当に「同じ」だったのか。
それとも――「外されないこと」だったのか。
律は少しだけ眉を寄せて、でも怒らなかった。
代わりに、鉛筆を持ってノートの余白に線を引く。
「雫が同じ動きをすると、転ぶ確率が上がる」
「……」
「転んだら、外される」
「……」
「外されないために、同じ動きをする。……それ、逆じゃない?」
私は何も言えなかった。
律は顔を上げて、真っ直ぐ私を見る。
その目は優しいっていうより、冷静だった。冷静だから、信用できた。
「変えるのは、雫じゃない。踊りの方」
「……踊りを、変える?」
「振付変更。全員が揃って見えるように、動きを組み直す。雫だけのためじゃない。全体がきれいになる」
律の言葉が、胸の奥で音を立てた。
「そんなの……みんなが嫌がる」
「嫌がるかもしれない。でも、理由を作れる。きれいになるなら、納得する人は増える」
「……なんで、そこまで」
律は一瞬、黙った。
それから、ぽつりと言う。
「雫、さっき転んだとき……」
「やめて」
「……転んだ瞬間、音が止まった。全員の呼吸も止まった。あれって、怖い」
「……」
「雫がいない踊りにしたら、たぶん、あの怖さは消える。でも――」
律の声が少しだけ揺れた。
初めて、感情の波が見えた。
「雫がいない踊りは、きっと、つまんない」
私は息を呑んだ。
つまんない、なんて言い方。
上手いとか、強いとか、かわいそうとか、そういう言葉じゃない。
ただ、私がそこにいることを、必要だって言われた気がした。
涙が出そうになって、私は慌てて視線を落とした。
泣くのは嫌だ。泣いたら、また「かわいそう」になる。
「……私、弱いのかな」
「弱いんじゃない」
律は即答した。
「条件が難しいだけ。難しいなら、簡単にする方法を考えればいい」
すごく当たり前みたいに言う。
当たり前みたいに言われたら、私の中の無理が、少しだけ軽くなる。
私はノートを指でなぞった。
8カウントごとに、私のための逃げ道がある。
逃げ道じゃない。選択肢だ。
選べるってことは、前に進めるってことだ。
「……これ、私がやってもいいの?」
「雫がやるから意味がある」
「私、みんなに説明できないよ」
「説明は、俺がする」
「……え」
律が小さく笑った。
「俺、目立つのは得意じゃないけど……ノートでなら、言える」
そのとき、カーテンの向こうで足音がした。
「雫?……あ、律もいたんだ」
美波だった。
美波は私と律とノートを見て、状況を一瞬で理解した顔をする。理解が早いのも、責任感が強いのも、美波の良さだ。
「何してるの」
「……提案。振付、少し変えた方がいい」
律が言う。
美波は驚いたように目を見開いて、それから眉を寄せた。
「今さら変えるの?時間、ないよ」
「時間がないから、変えた方がいい。雫が転んだのは、雫のせいじゃない。振付が合ってない」
「……律、言い方」
美波は困ったみたいに笑った。
でも否定はしない。否定できないんだと思う。私が転んだ事実が、そこにあるから。
美波は私を見る。
「雫、これ……やれる?」
私はノートを抱きしめる。
「……やりたい」
「……危なくない?」
「危ないのは、同じ動きを無理にする方だと思う」
自分の声が、意外とちゃんと響いた。
美波は少しだけ目を丸くして、それから、ゆっくり頷いた。
「分かった。じゃあ、次の練習で試そう」
「美波……」
「条件がある」
美波の目が真剣になる。
「一回でも危ないって思ったら、そのときは……雫は外す。体育祭は、全員のものだから」
その言葉は冷たい。
でも、逃げ道を作ってくれている。
責任感の強い美波が、私に賭けてくれている。
私は深く息を吸って、頷いた。
「うん。……成功させる」
美波が去っていく足音が遠ざかる。
カーテンの向こうで、また音楽が流れ始めた。
私は立ち上がる。
義足をはめ直す。ベルトを締める。痛みが走る。でも、さっきより怖くない。
「……やってみる?」
律が言った。
私は頷く。
律がノートを開いて、鉛筆の先で8カウントを叩く。
「ワン、ツー、スリー、フォー」
私は右足を一歩、滑らせる。
跳ばない。跳ばなくても、腕で風を切る。
「ファイブ、シックス、セブン、エイト」
肩を入れて、視線を切る。腕を大きく回す。
――転ばない。
たったそれだけで、胸の奥が熱くなる。
「……できた」
「うん。できた」
律の声が、少しだけ嬉しそうだった。
私はノートを閉じて、表紙を撫でた。
この一冊に、私のできるが書かれている。
それって、すごい。
私は小さく笑って、律を見る。
「律。……ありがとう」
「まだ始まったばかりだよ」
そう言って、律は初めて、私の目を見た。
転んだ瞬間、青春が始まった。
最初の一歩は、二人で踏めばいい。
天井の蛍光灯が白くて、バスケットゴールの影がゆらゆら揺れている。スピーカーの前に集まった私たち中学3年生の生徒たちは、同じTシャツを着て、同じ方向を向いて、同じように息を整えていた。
――あと三週間。
最後の体育祭まで。
「じゃあ一回、通してみるよ!8カウントで、いったん列に戻って」
学年ダンスのリーダー、美波の声が体育館に響く。
美波は派手なタイプじゃない。でも真面目で、責任感が強くて、みんなの空気を変える力がある。そんな彼女が、いまは私を見ないようにしているのが分かった。
見ないようにしてるのに、気を遣ってるのが伝わってくる。
それが、いちばん苦しい。
私は右足の義足を、もう一度だけ確かめた。
ベルトの締まり。金具の位置。靴紐の結び目。擦れているところに貼った保護テープ。
大丈夫。今日はいける。
いや、いけるじゃなくて、いく。
みんなと同じように踊りたい。
そのために、私はここにいる。
「音、出すよー!」
誰かが再生ボタンを押す。低音が床からせり上がってきて、心臓の鼓動と重なる。
ワン、ツー、スリー、フォー。
私は口の中で数える。数えないと、怖い。
最初の振りは得意だ。腕を大きく回して、肩を落として、視線を斜めに切る。足より先に上半身を決めれば、遅れた分をごまかせる。
――ごまかす、って言葉が嫌いなのに。
ファイブ、シックス。
体重移動。義足側に乗せる瞬間だけ、どうしても一拍遅れる。自分の脚じゃないから。私のものなのに、完全には私の言うことを聞かない。
セブン、エイト。
列に戻る。
戻れた。
よし、いける。
次の8カウント。問題はここだ。
ターン。踏み込んで、回って、着地。最後に軽くジャンプみたいに弾む。
みんなが揃って跳ねたら、きれいだ。
私も、揃いたい。
ワン。ツー。スリー。
回る。視界が一瞬ぐるんと流れて――
カチン。
小さな音。
私の義足のどこかが、擦れた音。
いまの、聞こえちゃったかな?
その瞬間、身体の芯が固くなる。
フォー。ファイブ。
ベルトが、ほんの少しだけ緩んだ気がした。気がしただけ。そう思いたい。
私は無意識にスピードを上げる。遅れたくない。目立ちたくない。特別だって思われたくない。
シックス。セブン。
跳ぶ――
その瞬間、義足側の足首が、ほんのわずか沈んだ。
沈んだ分だけ、私の膝が抜ける。
あ、と思ったときには遅かった。
床が近づく。
世界がスローモーションになって、体育館の天井が遠ざかる。
次の瞬間、肩から落ちた。肘が擦れて、痛みが遅れて追いかけてくる。
音楽が止まった。
「雫!」
誰かの声がした。咲の声だった気がする。
いろんな足音が近づいてきて、私の周りで止まる。視線が降ってくる。
優しさの雨は、冷たい。
「大丈夫!?痛くない!?」
「立てる?」
「……いったん休も、雫」
私は床に手をついて起き上がろうとして、義足がうまく噛み合っていないのに気づく。
金具が外れかけていた。ベルトがズレている。
ほら。やっぱり……。
悔しさが、喉の奥に詰まる。
「……平気」
平気、って言うのは癖だ。
平気って言わないと、終わるから。
「ちょっと、待って。私、直すから」
私は笑ってみせた。笑えば、みんなも笑ってくれる。そうすれば空気が軽くなる。
空気が軽くなれば、「私のせい」が薄まる。
でも、みんなの顔は笑わなかった。
笑えなかったんだと思う。真面目な美波の顔は、責任の重さで固まっていた。
「雫……今日は、見学にしよ」
美波の声は、優しい。
優しいから、刺さる。
「危ない。転んだら、もっと――」
美波が言いかけて止める。
もっとの続きを、私は勝手に補ってしまう。
もっと迷惑。もっとみんなの時間を奪う。もっと……。
私は口角だけ上げた。
「うん。分かった」
そう言った瞬間、自分の胸の奥がひび割れる音がした。
休憩の合図が出て、みんなは水分を取りに散っていく。
私は体育館の隅、カーテンの陰に隠れるように座り込んで、義足のベルトを締め直した。テープがずれて、皮膚が赤くなっているのが見える。
痛い。
でも、この痛さは、まだ我慢できる。
我慢できる痛さは、痛くないってことにしてしまう。
「雫……ごめんね。さっき、無理させた」
咲がしゃがみこんで、私の顔を覗き込む。
咲は私の親友で、いつも真っ直ぐだ。
「ううん。私が勝手に――」
「勝手に、じゃないよ。だって雫、ずっと頑張ってたじゃん」
その言葉が、ありがたくて、苦しい。
私は咲の手を軽く押して、笑った。
「大丈夫。ほんとに」
咲は納得してない顔をしたけど、呼ばれて立ち上がった。
私の周りから、人が一人、また一人と離れていく。
私は聞こえないふりをした。
聞こえないふりが、いちばん得意だ。
「……雫、やっぱ外した方がいいのかな」
「安全のためって言ってもさ、本人がやりたいって……」
「でも転んだじゃん。体育祭、本番で転んだら――」
声は、体育館の反対側から飛んできた。
私のことを心配している声だ。責めていない。悪意もない。
それが余計に、逃げ場をなくす。
私がいるだけで、みんなを困らせる。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
泣くのは嫌だ。泣いたら本当にかわいそうになってしまう。
みんなと同じ、って……そんなに欲張りかな……。
欲張り、って言葉が嫌いなのに。
欲張りだって思われるのが嫌なのに。
でも、諦めるのはもっと嫌だった。
「……さっきの」
近くから声がして、私は肩を跳ねさせた。
顔を上げると、カーテンの隙間に誰かが立っていた。
背は高くない。髪は黒くて、前髪が少し長い。存在感が薄いのに、目だけは真っ直ぐ。
同じクラスの、律だった。
目立たない子。
いつも窓際で、ノートに何か書いている子。
話したことは……ほとんどない。
「……律?」
「ごめん。驚かせた」
律はそう言って、目を逸らした。
でも、私の義足を見ない。見ないで、私の手元だけを見る。
その視線が、変に落ち着く。
「さっきのターン、4拍目で体重が抜けてた」
「……見てたの?」
口調がきつくなるのが分かった。
見られたくなかった。転ぶところなんて、特に。
律は頷いた。
「見てた。というか……全体の動きを、見てた」
「何それ。偵察?」
「違う。……振付、好きなんだ」
律は鞄から、一冊のノートを取り出した。
表紙は地味なグレーで、角が少し擦れている。私の知らない、律の時間が詰まっている感じがした。
「これ」
律はノートを私の前に置く。
私は反射的に、手を引っ込めた。
「……何?」
「学年ダンス。ここ、動線がきつい。雫の脚に、合ってない」
「……合ってないって」
私の声が、かすれた。
合ってないって言葉が、すごく優しくて、すごく残酷に聞こえる。
律はノートを開いた。
そこには、線と数字がぎっしり書かれていた。
ワン、ツー、スリー、フォー。
8カウントごとに区切られたページ。棒人間みたいな図。矢印。隊形。
そして――私の名前。
『雫:ジャンプなし/右足で踏み替え→上体で見せる』
『雫:5で肩入れ、6で視線、7・8で腕を大きく』
目の前が、ぼやけた。
涙じゃない。そんなものじゃない。単に、理解が追いつかない。
「……なんで、私の名前が」
「さっき転んだとき、ベルトがズレた。たぶん、難い動きが続いて緩んだんだ。だから――」
「だから、私だけ別の動き?」
言ってしまってから、後悔した。
律の言葉を潰すみたいで。
でも、止まらなかった。
「私、みんなと同じように踊りたいんだよ」
「同じ、って……何?」
「同じは、同じだよ。揃って、同じタイミングで、同じように――」
言いながら、喉が痛くなった。
私が欲しかった「同じ」は、本当に「同じ」だったのか。
それとも――「外されないこと」だったのか。
律は少しだけ眉を寄せて、でも怒らなかった。
代わりに、鉛筆を持ってノートの余白に線を引く。
「雫が同じ動きをすると、転ぶ確率が上がる」
「……」
「転んだら、外される」
「……」
「外されないために、同じ動きをする。……それ、逆じゃない?」
私は何も言えなかった。
律は顔を上げて、真っ直ぐ私を見る。
その目は優しいっていうより、冷静だった。冷静だから、信用できた。
「変えるのは、雫じゃない。踊りの方」
「……踊りを、変える?」
「振付変更。全員が揃って見えるように、動きを組み直す。雫だけのためじゃない。全体がきれいになる」
律の言葉が、胸の奥で音を立てた。
「そんなの……みんなが嫌がる」
「嫌がるかもしれない。でも、理由を作れる。きれいになるなら、納得する人は増える」
「……なんで、そこまで」
律は一瞬、黙った。
それから、ぽつりと言う。
「雫、さっき転んだとき……」
「やめて」
「……転んだ瞬間、音が止まった。全員の呼吸も止まった。あれって、怖い」
「……」
「雫がいない踊りにしたら、たぶん、あの怖さは消える。でも――」
律の声が少しだけ揺れた。
初めて、感情の波が見えた。
「雫がいない踊りは、きっと、つまんない」
私は息を呑んだ。
つまんない、なんて言い方。
上手いとか、強いとか、かわいそうとか、そういう言葉じゃない。
ただ、私がそこにいることを、必要だって言われた気がした。
涙が出そうになって、私は慌てて視線を落とした。
泣くのは嫌だ。泣いたら、また「かわいそう」になる。
「……私、弱いのかな」
「弱いんじゃない」
律は即答した。
「条件が難しいだけ。難しいなら、簡単にする方法を考えればいい」
すごく当たり前みたいに言う。
当たり前みたいに言われたら、私の中の無理が、少しだけ軽くなる。
私はノートを指でなぞった。
8カウントごとに、私のための逃げ道がある。
逃げ道じゃない。選択肢だ。
選べるってことは、前に進めるってことだ。
「……これ、私がやってもいいの?」
「雫がやるから意味がある」
「私、みんなに説明できないよ」
「説明は、俺がする」
「……え」
律が小さく笑った。
「俺、目立つのは得意じゃないけど……ノートでなら、言える」
そのとき、カーテンの向こうで足音がした。
「雫?……あ、律もいたんだ」
美波だった。
美波は私と律とノートを見て、状況を一瞬で理解した顔をする。理解が早いのも、責任感が強いのも、美波の良さだ。
「何してるの」
「……提案。振付、少し変えた方がいい」
律が言う。
美波は驚いたように目を見開いて、それから眉を寄せた。
「今さら変えるの?時間、ないよ」
「時間がないから、変えた方がいい。雫が転んだのは、雫のせいじゃない。振付が合ってない」
「……律、言い方」
美波は困ったみたいに笑った。
でも否定はしない。否定できないんだと思う。私が転んだ事実が、そこにあるから。
美波は私を見る。
「雫、これ……やれる?」
私はノートを抱きしめる。
「……やりたい」
「……危なくない?」
「危ないのは、同じ動きを無理にする方だと思う」
自分の声が、意外とちゃんと響いた。
美波は少しだけ目を丸くして、それから、ゆっくり頷いた。
「分かった。じゃあ、次の練習で試そう」
「美波……」
「条件がある」
美波の目が真剣になる。
「一回でも危ないって思ったら、そのときは……雫は外す。体育祭は、全員のものだから」
その言葉は冷たい。
でも、逃げ道を作ってくれている。
責任感の強い美波が、私に賭けてくれている。
私は深く息を吸って、頷いた。
「うん。……成功させる」
美波が去っていく足音が遠ざかる。
カーテンの向こうで、また音楽が流れ始めた。
私は立ち上がる。
義足をはめ直す。ベルトを締める。痛みが走る。でも、さっきより怖くない。
「……やってみる?」
律が言った。
私は頷く。
律がノートを開いて、鉛筆の先で8カウントを叩く。
「ワン、ツー、スリー、フォー」
私は右足を一歩、滑らせる。
跳ばない。跳ばなくても、腕で風を切る。
「ファイブ、シックス、セブン、エイト」
肩を入れて、視線を切る。腕を大きく回す。
――転ばない。
たったそれだけで、胸の奥が熱くなる。
「……できた」
「うん。できた」
律の声が、少しだけ嬉しそうだった。
私はノートを閉じて、表紙を撫でた。
この一冊に、私のできるが書かれている。
それって、すごい。
私は小さく笑って、律を見る。
「律。……ありがとう」
「まだ始まったばかりだよ」
そう言って、律は初めて、私の目を見た。
転んだ瞬間、青春が始まった。
最初の一歩は、二人で踏めばいい。



