寝返りをうつと同時に背中に冷気を感じて、黒見結衣は目を覚ました。
「寒っ」
布団が捲れて背中が剥き出しになっていることに違和感を覚える。
「えっっ!?」
結衣は布団を纏って飛び起きた。
「なんで!?」
寝起きにもかかわらず、心臓だけが全力疾走した後のようにバクバクと脈打っている。
「うーわ、怖っ」
結衣は悲鳴のような独り言を次々と上げた。
辛うじてショーツは履いていたが、上は真っ裸だった。寒いのもそのはず、十月も半ばを過ぎたというのに、エアコンからは冷風が勢いよく吹き出していた。けれども、冷房を入れた記憶はない。
そろりとベッドから降り、サイドテーブルに置かれたメモを目にした瞬間、頭の中が真っ白になった。
《鍵は新聞受けに入れておきます。新田》
――やってしまった。
結衣は頭を抱えながら昨夜の記憶を辿った。
昨日は仕事帰りに会社の飲み友達と会社近くの行きつけの居酒屋で他愛のない話に花を咲かせ、時間を忘れるほど楽しく飲んだ。店を出て解散する時、飲み会に初参加だった後輩の新田賢吾と自宅最寄り駅が一緒だと知って驚きつつ、二人で駅まで歩いて同じ電車に乗った。
車内では最近駅前にできた人気スープカレー店の話になり、「今度一緒に行ってみよう」などと盛り上がった。ほろ酔いの結衣は気分が高揚して、駅前の居酒屋で飲み直そうと提案した。といっても、禁酒中の新田は酒を飲まない。それでも、楽しい飲みの席は好きだと言って飲み会に参加し、結衣の誘いも断らなかった。
家のそばという安心感でつい深酒してしまい、会計を終えて立ち上がった時に初めて、歩いて帰れるか不安になるほど足元がおぼつかない状態の自分に気付いた。けれども、徒歩五分はタクシーに乗るほどの距離ではない。
壁を伝うようにしてどうにか店を出たところで、不意にしゃがみこんだ新田に視線を落とすと、「どうぞ」と言っておんぶの体勢で見上げてきた。酔っているとはいえ、さすがにおんぶは恥ずかしいと理性が働いたが、誰かに頼るより他に無事に帰宅できる手段がないと判断した結衣は、しぶしぶ新田の背中に体を預けた。
見た目に反して新田の背中はがっしりとしていて、その背中から伝わる力強さに安心できた。鼻腔を蕩かすほんのり甘い香水の香りと揺れが心地よくて――
そこで記憶が途絶えている。いつもはどんなに酔っていても家に帰るまでの記憶はしっかりとあるのに、昨夜は鍵を開けた記憶もない。
ふと我に返った結衣は時計に目をやり、慌ててバスルームに向かった。とりあえずシャワーを浴びて会社に向かわなければならない。
街路樹の隙間から差し込む朝日がまるでスポットライトのように結衣を照らし、歩道を行き交う人々と目が合うと全てを見透かされているような気分になり、思わず肩を竦めた。
どんな顔をして会えばいいのだろう。こういう時は謝るべきなのだろうか。酔っていたのは自分だけで、新田は素面だった。どんなタイミングときっかけで、どっちから誘ったのだろうか。
そんなことを考えているうちに会社が見えてきた。後ろから駆け寄る足音が真横で止まった瞬間、昨夜の甘美で官能的なオリエンタル調の香りが漂った。
「おはようございます」
「あ、おはよう」
動揺を必死に隠して返したが、後に言葉が続かない。
「先輩って、いつもあんな感じなんですか?」
声のボリュームを落とした新田が、意味ありげな視線を向けてきた。
「あー、いやぁ……昨日はちょっと飲み過ぎちゃったかな」
「ですよね」
結衣は苦笑いするしかなかった。
「先輩」
「はひ?」
隠しきれない動揺が、喉から漏れた。
「リボン、ほどけてますよ」
胸元を見ていた新田の手が伸びてきた。
そんな風にして、昨夜はブラウスのボタンを――
「はい、これで大丈夫です」
新田はほどけていた結衣のブラウスのボウタイを素早く蝶に結び直した。
「あ、ありがとう」
「いえ。俺、コンビニ寄ってからすぐ行きますね」
爽やかな笑顔でそう言うと、新田はコンビニに入っていった。
「結衣ちゃん、おはよう!」
昨夜一緒に飲んだ同僚の木村雅哉ことまさやんの声がフロアに響く。
「まさやん、おはよー」
「昨日は無事に帰れた?」
飲み会翌日の常套句だ。
「あ、う、うん。まあ……」
言いよどんだ自分が滑稽で、結衣はまたもや苦笑いを浮かべた。
「木村先輩、おはようございます。昨日は俺がちゃんとマンション前まで黒見先輩をお送りしましたよ」
振り返ると、いつの間にかすぐ後ろにいた新田が、まさやんに笑顔を向けていた。
「そっかそっか、それなら良かった。いつも結衣ちゃんひとりになるから俺らも心配なんだけど、新田が一緒だと安心だな」
「はい、任せてください」
新田のスマートなフォローに感謝しながら、結衣はそそくさと自分の席へと向かった。あの場で雑談を続けていたら、せっかくのフォローを台無しにしてしまいそうな気がした。
始業のチャイムが鳴ってパソコンに向かったが、全く集中できずにいた。普段ならどうということもない新田が視界に入るたびに胸がざわつく。時折視線を感じるような気がして顔を上げると、一瞬だけ目を合わせた新田が、何事もなかったように目を逸らした。
自意識過剰? いや、あんなことがあったのだから、気にせずにはいられない。しかも、誠実な新田に嘘までつかせてしまった。このまま、なかったことになんて出来るわけがない。
記憶を飛ばしてしまっている以上、事の真相を知っているのは新田だけということになる。無理やり酒を飲まされた未成年でもあるまいし、もうすぐ三十路を迎える女が飲み過ぎて晒した恥態は、全て自分の責任だ。相手が新田だったことだけが救いなのかもしれないと思えた。
人を、ましてや先輩を弄って面白がるようなタイプではないとわかっているし、口が軽そうにも見えない。真面目できっちりとした性格の新田は、入社して半年だというのに、文句の付けようがないくらい完璧に仕事をこなす優秀すぎる後輩だった。そんな新田に、結衣も同僚たちも信頼を寄せていた。
一見無口そうに見えるのは、人見知りのせいだという。そんな性格で営業の仕事が務まるのかと、入社当初は気になったが、実は人当たりが良くユーモアもあることを知った。あとは、笑顔が最高に素敵だということ――
「新田君」
休憩所で二人きりになったタイミングで声を掛けた。
「昨日は、その……ごめんね」
結衣は新田の出方を窺うつもりで言った。
「ああ、気にしないでください」
新田は笑みを浮かべたが、結衣が聞きたかったのは、もう少し踏み込んだ部分だった。
「かなり酔ってて、駅前の店出た後の記憶が曖昧なんだよね」
と、さらに探りを入れてみる。
「俺は全然嫌じゃなかったんで」
その言葉で、今朝の自分のあられもない姿が蘇った。
そりゃそうだろう。ピチピチではないにしても、女として、身なりや体型維持のために結構気を使っている。恋人だって三ヶ月前までいた。勝負下着ではなかったが、普段からちゃんと上下セットを着けている。やらかしてしまったことはこの上なく恥ずかしいことだけれど、見られて恥ずかしい体はしていない。
それでも、相手が会社の人間となると話は変わってくる。
「なかったことにしてもらえるかな」
「何をですか?」
「いや、だから、それはさぁ……」
こんな状況にもかかわらず、新田は動揺ひとつ見せない。
「楽しかったです。また誘ってください」
いやいやいやいや。なんでそうなる? ただの社交辞令? それとも体が目当て? いや、新田に限ってそれはないと思いたいし、そもそも、もう二度と彼を誘うことなんてないだろう。
そう思っていたのに――
「あ、黒見先輩、お疲れ様です」
一週間ぶりにいつもの居酒屋の暖簾をくぐると、満面に笑みを浮かべる新田の姿があり、結衣は息を呑んだ。
「あ、新田くん。お疲れ様」
「また参加させてもらってます。先輩、ここどうぞ」
うんうん、と頷きながら、結衣は促された新田の隣に腰を下ろした。
「こないだ新田が『のんべえ会』のメンバーになりたいって言ってたから、さっそく声掛けたんだよ」
向かいに座るまさやんが笑顔で言った。
「あ、そうだったよねー」
と、如何にも喜ばしげに笑いながら、結衣は既に帰りのことを考えていた。
このままいくと、同じ電車でまた二人きりになってしまう。
「先輩はビールですよね?」
新田が顔を覗き込んだ。
「ああ、うん」
返事すると同時に新田は振り返って手を上げ、店員に注文した。後輩の立場で気を遣っているのか、その後も皆の飲み物を気にしたり空いた皿をさげたりと、新田の甲斐甲斐しさが結衣の心をくすぐった。
素面で酔っ払いの相手は疲れるだろう、と思いながらも、心の中では「どの口が言う」と突っ込んだ。
「新田君、食べてる?」
そんな新田を気の毒に思い、結衣は声を掛けた。
「はい、食べてますよ。料理は旨いし、すげえ楽しいです」
笑顔が眩しすぎて、目眩を起こしてしまいそうだ。
「ちゃんと送りますから、安心して飲んでください」
結衣は思わず目を見開いた。
けれども、動揺したのは結衣だけで、同僚二人は上司ネタで盛り上がり、爆笑の最中だった。新田が僅かに口角を上げたのを、結衣は見逃さなかった。
今のは、絶対にわざとだ。
当然、帰りは二人きりになった。
酔ってはいたが、意識ははっきりしていた。素面の新田ほど足取り軽くとまではいかないが、おんぶは必要ない。
「歩けますか?」
今考えていたことを見透かされてしまったように思えて恥ずかしくなり、結衣はきっぱりと言い放った。
「大丈夫」
それでも、駅の階段を上る時はふらつかないかと慎重になった。そんな結衣のぎこちない動作を見て察したのだろう。並んで階段を上っていた新田が然り気無く後ろに回ってくれたのがわかった。指一本触れない大人の気遣いに、思わず惚れてしまいそうになる。
かと思えば、電車に乗り込むと軽く背中に触れ、空いた席へと促してくる。そして当たり前のように結衣の前に立ってつり革を掴んだ。
「楽しかったですね」
言われて見上げると、柔らかな笑顔が降り注いだ。
新田はイケメンだ。それに背が高く、手足も長くてスーツがよく似合う。会社の後輩でなければ関わりを持つことなどなく、手の届かない存在なのかもしれないと、新田に向ける乗客の恍惚とした視線で知らされた。
あの夜の出来事は、どちらかといえば新田のほうが被害者だったのかもしれないとさえ思えてきた。
申し訳ないことをしてしまった。
そう思いながら、結衣は目を伏せた。
「降りますよ」
と聞こえた時には、バッグと一緒に抱えられていた。
「足元、気を付けてください」
言われて、結衣は反射的に電車とホームの間を跨いだ。
「ごめん。寝てた」
「マジで一瞬でしたよ」
新田が可笑しそうに笑う。
「危なっかしいんで家まで送ります」
結衣はその言葉に抗うことが出来なかった。
徒歩五分の距離はあっという間で、マンションの前で「じゃあ、また明日」と言われた時には、思わず彼の袖を掴んでいた。
「良かったら、コーヒーでも飲んでいって」
「はい、ありがとうございます」
新田は断ることを知らない人種のようだ。
はっとして目覚め、無意識にサイドテーブルの上を見た。
「嘘でしょ!?」
結衣は思わず声を上げた。
《鍵はいつものところに入れておきます。新田》
あろうことか、また記憶を飛ばしている。時計を見ると午前二時を少し回っていた。
帰宅したのは十一時過ぎだったはずだ。新田とコーヒーを飲んだことは覚えているが、新田を見送った記憶も、ソファからベッドへ移動した記憶もない。けれど、今回はちゃんと服を着ていた。
会社で顔を合わせた新田の様子がぎこちなく思えるのは、気のせいではないだろう。さすがに二度目となると、軽蔑の目を向けられても仕方がない。
食堂で新田を捕まえ、結衣は声を潜めて尋ねた。
「私、寝ちゃった?」
「え、覚えてないんですか?」
新田は軽蔑とも失望ともとれそうな表情を見せた。
「えっとぉ……なんか、ごめんね」
自分から誘っておいて、かなり失礼なことをしてしまったという自覚はあるが、覚えていないだけに、やんわりとした謝罪になってしまう。けれども、別れ際にもう少し一緒にいたいと思って引き止めたのは本心からだったと、はっきり言える。
「俺はすげえ楽しかったです。また誘ってください」
それはきっと、憐れみの社交辞令だろう。
十一月に入り、売上データの集計後、営業報告書と月次資料の作成を無事に終え、一区切りついた結衣はコーヒーを飲みながら解放感に浸っていた。革製品メーカーは秋冬が繁忙期となるが、冬の需要にギフト需要も重なり、これからどんどん忙しくなる。
「先輩、今日は『のんべえ会』行くんですか?」
不意に耳に届いた新田の声に、結衣の心臓が跳ねた。
「ああ、うん。行くつもりだけど」
「じゃあ、俺も行きますね」
その言葉がやけに引っ掛かり、聞き流すことができなかった。
「あのさあ、新田君。もしかして私に気を遣ってくれてるんだったら、大丈夫だからね。今まで何十回と飲み会あったけど、ひとりでちゃんと帰れてたんだから」
「いえ、俺が行きたいから行くだけです」
新田の弾けるような笑顔を目にして、結衣は拍子抜けした。
「ああ、そう……」
てっきり、もう付き合いきれないと呆れられているものだと思い込んでいた。さすがにこれ以上醜態を晒すわけにはいかないし、迷惑をかけるわけにもいかないと、折を見て新田に伝えなければいけないと考えていたところだった。
「お疲れ~」
結衣の声に続いて、ジョッキが心地よい音で触れあった。いつものメンバーといつもの場所で、のんべえ会が始まった。気掛かりが一つ払拭されて気分がすっきりした結衣は、晴れやかな気分でジョッキを傾けた。
「のんべえ会の中で、恋愛感情が芽生えたりすることってないんですか?」
唐突に新田が言った。
「「「ない」」」
気持ちいいくらいに三人の声が揃う。
「確かに結衣ちゃんは可愛いけど、恋愛対象としては見ないかな。俺ら彼女もいるし、結衣ちゃんも最近まで彼氏いたし、お互いに相談に乗ったり乗ってもらったりする仲だしね」
「だな」
まさやんの意見に、同僚の中島源ことなかじーも賛同した。
「けどさあ、前にのんべえ会のメンバーだったあいつ……佐々木。あいつは酒癖悪かったよな」
なかじーが顔をしかめながら言った。
「ああ、あいつは酒癖っていうか、中身がクソ過ぎだろ」
珍しくまさやんが怒りを露にした。
「佐々木さんって、営業の佐々木さんですか?」
新田が尋ねた。
「そう、あの佐々木。あいつ明るくていい奴かと思ってたけど、飲み会で結衣ちゃんが席外した時に『ワンチャンやれんじゃね?』とか言いやがってさ。即刻退場させて、それっきり。仕事以外では付き合いやめた」
「へえ。そんなことがあったんですか」
「そうだったみたい。あの時、トイレから戻ったら佐々木君が消えててびっくりしちゃったの。まあ、だから、この二人のことだけは本当に信頼してるの」
結衣は新田に向けてそう言ったが、疚しさからその目を真っ直ぐに見ることは出来なかった。
「へえ。素敵な関係ですね。俺もぜひ仲間に入りたいです」
そう口にした新田を横目に、結衣は心の中で呟いた。
――いや、もう無理でしょ。
「まあ、何より一番の理由は、俺らが全く結衣ちゃんの好みじゃないってことが大きいんじゃないかな」
そう言ってなかじーが笑うと、「それな!」とまさやんも釣られるように笑った。
「先輩の好みって?」
新田が少し前のめりになり、興味津々な表情を向けている。
一瞬、躊躇うような間があった。
「「ちょい悪セクシー」」
まさやんとなかじーが声を揃えた。
「やだぁ、ばらさないでよー!!」
「へえ、そうなんですか。……意外です」
新田があの日と同じように、僅かに口角を上げた。
その後も恋愛話で盛り上がり、酒のペースもつい上がる。けれどもそれは、新田がいるのをいいことに、とも言えた。
「先輩、今日もコーヒーご馳走してくださいね」
「ああ、うん……」
新田は遠慮も知らない人種のようだが、逆にそこが良いところでもある。年下のくせに、人に気を遣わせない術を知っている。
結衣は新田の背中にぴったりと張り付いて、甘い香りと心地よい揺れを感じていた。本当は歩けないほど酔ってはいなかったが、新田の好意に甘えた形だ。理性はあるが恥じる気持ちがなくなっているのは、アルコールのせいなのか、相手が新田だからなのか――
「お邪魔します」
新田の自由さと品格のバランスが、相手に不快感を与えない要因だろう。新田はいつでも礼儀正しい。
「コーヒー淹れるね」
「ありがとうございます」
新田がコートを脱いでソファに腰を下ろす様子をキッチンから眺めながら、結衣はコーヒーケトルに水を注ぎ、火にかけた。
よくよく考えると、おかしな光景だ。飲み仲間で付き合いの長いまさやんとなかじーは一度も来たことがないのに、入社して数ヶ月の後輩が深夜にソファで寛いでいる。こんなことがもし社内に知れ渡ったら、自分よりも彼のほうが被害を被るだろう。村八分とまではいかないにしても、変な噂を立てられれば居づらくなるに違いない。ましてや、真面目で誠実だと知られている彼なら尚更だ。
新田の視線が部屋の中をゆっくりと移動しながら、結衣に向けられた。
「先輩、ぬいぐるみ好きなんですか?」
「え? うん。普通に……可愛いでしょ? そのカモノハシのぬいぐるみは、この前つい衝動買いしちゃったんだよね」
「以外です」
「どういう意味?」
結衣は笑いながら、コーヒーカップを二つ持ってテーブルに移動した。
「先輩は可愛いっていうより、格好いいってイメージが強くて。……いただきます」
新田がカップを手にして、息を吹き掛けた。
「へえ。私ってそんなイメージなんだ」
「面倒見が良くて、姉貴的な……」
「ふうん。そっか」
「……酔った時は違いますけど」
「え、今それ言う?」
結衣は思わず苦笑いした。
「先輩、俺のこと好きですか?」
「え?」
「この前は好きだって言ってくれましたよね?」
「え? そんなこと言ったかなぁ……」
「言いましたよ。言ったじゃないですか。この前先輩を送ってコーヒーをご馳走になった時、このソファに座って」
新田が畳み掛けるように言った。
「それはさあ、後輩としてってことだよね?」
全く記憶にない結衣は、まるで他人事のように言った。
「なんだ。……がっかりです」
そう言うと、新田は一気にコーヒーを飲み干した。
「ご馳走さまでした」
「え? あ、ううん。こっちこそ送ってくれてありがとう」
結衣は足早に玄関へと向かう新田の後ろを慌てて追った。この後味の悪さはなんだろう。悪いことをしたわけでもないのに、罪悪感にも似た感情に満たされている。
初めて見送る新田の背中は、やけに小さく見えた。ドアが閉まった瞬間、飛ばした記憶の重さが、不意に結衣にのしかかってきた。
自分の知らない自分が、何かを動かしているように思えた。
結衣はどうしてもそれを知りたくなった。
「寒っ」
布団が捲れて背中が剥き出しになっていることに違和感を覚える。
「えっっ!?」
結衣は布団を纏って飛び起きた。
「なんで!?」
寝起きにもかかわらず、心臓だけが全力疾走した後のようにバクバクと脈打っている。
「うーわ、怖っ」
結衣は悲鳴のような独り言を次々と上げた。
辛うじてショーツは履いていたが、上は真っ裸だった。寒いのもそのはず、十月も半ばを過ぎたというのに、エアコンからは冷風が勢いよく吹き出していた。けれども、冷房を入れた記憶はない。
そろりとベッドから降り、サイドテーブルに置かれたメモを目にした瞬間、頭の中が真っ白になった。
《鍵は新聞受けに入れておきます。新田》
――やってしまった。
結衣は頭を抱えながら昨夜の記憶を辿った。
昨日は仕事帰りに会社の飲み友達と会社近くの行きつけの居酒屋で他愛のない話に花を咲かせ、時間を忘れるほど楽しく飲んだ。店を出て解散する時、飲み会に初参加だった後輩の新田賢吾と自宅最寄り駅が一緒だと知って驚きつつ、二人で駅まで歩いて同じ電車に乗った。
車内では最近駅前にできた人気スープカレー店の話になり、「今度一緒に行ってみよう」などと盛り上がった。ほろ酔いの結衣は気分が高揚して、駅前の居酒屋で飲み直そうと提案した。といっても、禁酒中の新田は酒を飲まない。それでも、楽しい飲みの席は好きだと言って飲み会に参加し、結衣の誘いも断らなかった。
家のそばという安心感でつい深酒してしまい、会計を終えて立ち上がった時に初めて、歩いて帰れるか不安になるほど足元がおぼつかない状態の自分に気付いた。けれども、徒歩五分はタクシーに乗るほどの距離ではない。
壁を伝うようにしてどうにか店を出たところで、不意にしゃがみこんだ新田に視線を落とすと、「どうぞ」と言っておんぶの体勢で見上げてきた。酔っているとはいえ、さすがにおんぶは恥ずかしいと理性が働いたが、誰かに頼るより他に無事に帰宅できる手段がないと判断した結衣は、しぶしぶ新田の背中に体を預けた。
見た目に反して新田の背中はがっしりとしていて、その背中から伝わる力強さに安心できた。鼻腔を蕩かすほんのり甘い香水の香りと揺れが心地よくて――
そこで記憶が途絶えている。いつもはどんなに酔っていても家に帰るまでの記憶はしっかりとあるのに、昨夜は鍵を開けた記憶もない。
ふと我に返った結衣は時計に目をやり、慌ててバスルームに向かった。とりあえずシャワーを浴びて会社に向かわなければならない。
街路樹の隙間から差し込む朝日がまるでスポットライトのように結衣を照らし、歩道を行き交う人々と目が合うと全てを見透かされているような気分になり、思わず肩を竦めた。
どんな顔をして会えばいいのだろう。こういう時は謝るべきなのだろうか。酔っていたのは自分だけで、新田は素面だった。どんなタイミングときっかけで、どっちから誘ったのだろうか。
そんなことを考えているうちに会社が見えてきた。後ろから駆け寄る足音が真横で止まった瞬間、昨夜の甘美で官能的なオリエンタル調の香りが漂った。
「おはようございます」
「あ、おはよう」
動揺を必死に隠して返したが、後に言葉が続かない。
「先輩って、いつもあんな感じなんですか?」
声のボリュームを落とした新田が、意味ありげな視線を向けてきた。
「あー、いやぁ……昨日はちょっと飲み過ぎちゃったかな」
「ですよね」
結衣は苦笑いするしかなかった。
「先輩」
「はひ?」
隠しきれない動揺が、喉から漏れた。
「リボン、ほどけてますよ」
胸元を見ていた新田の手が伸びてきた。
そんな風にして、昨夜はブラウスのボタンを――
「はい、これで大丈夫です」
新田はほどけていた結衣のブラウスのボウタイを素早く蝶に結び直した。
「あ、ありがとう」
「いえ。俺、コンビニ寄ってからすぐ行きますね」
爽やかな笑顔でそう言うと、新田はコンビニに入っていった。
「結衣ちゃん、おはよう!」
昨夜一緒に飲んだ同僚の木村雅哉ことまさやんの声がフロアに響く。
「まさやん、おはよー」
「昨日は無事に帰れた?」
飲み会翌日の常套句だ。
「あ、う、うん。まあ……」
言いよどんだ自分が滑稽で、結衣はまたもや苦笑いを浮かべた。
「木村先輩、おはようございます。昨日は俺がちゃんとマンション前まで黒見先輩をお送りしましたよ」
振り返ると、いつの間にかすぐ後ろにいた新田が、まさやんに笑顔を向けていた。
「そっかそっか、それなら良かった。いつも結衣ちゃんひとりになるから俺らも心配なんだけど、新田が一緒だと安心だな」
「はい、任せてください」
新田のスマートなフォローに感謝しながら、結衣はそそくさと自分の席へと向かった。あの場で雑談を続けていたら、せっかくのフォローを台無しにしてしまいそうな気がした。
始業のチャイムが鳴ってパソコンに向かったが、全く集中できずにいた。普段ならどうということもない新田が視界に入るたびに胸がざわつく。時折視線を感じるような気がして顔を上げると、一瞬だけ目を合わせた新田が、何事もなかったように目を逸らした。
自意識過剰? いや、あんなことがあったのだから、気にせずにはいられない。しかも、誠実な新田に嘘までつかせてしまった。このまま、なかったことになんて出来るわけがない。
記憶を飛ばしてしまっている以上、事の真相を知っているのは新田だけということになる。無理やり酒を飲まされた未成年でもあるまいし、もうすぐ三十路を迎える女が飲み過ぎて晒した恥態は、全て自分の責任だ。相手が新田だったことだけが救いなのかもしれないと思えた。
人を、ましてや先輩を弄って面白がるようなタイプではないとわかっているし、口が軽そうにも見えない。真面目できっちりとした性格の新田は、入社して半年だというのに、文句の付けようがないくらい完璧に仕事をこなす優秀すぎる後輩だった。そんな新田に、結衣も同僚たちも信頼を寄せていた。
一見無口そうに見えるのは、人見知りのせいだという。そんな性格で営業の仕事が務まるのかと、入社当初は気になったが、実は人当たりが良くユーモアもあることを知った。あとは、笑顔が最高に素敵だということ――
「新田君」
休憩所で二人きりになったタイミングで声を掛けた。
「昨日は、その……ごめんね」
結衣は新田の出方を窺うつもりで言った。
「ああ、気にしないでください」
新田は笑みを浮かべたが、結衣が聞きたかったのは、もう少し踏み込んだ部分だった。
「かなり酔ってて、駅前の店出た後の記憶が曖昧なんだよね」
と、さらに探りを入れてみる。
「俺は全然嫌じゃなかったんで」
その言葉で、今朝の自分のあられもない姿が蘇った。
そりゃそうだろう。ピチピチではないにしても、女として、身なりや体型維持のために結構気を使っている。恋人だって三ヶ月前までいた。勝負下着ではなかったが、普段からちゃんと上下セットを着けている。やらかしてしまったことはこの上なく恥ずかしいことだけれど、見られて恥ずかしい体はしていない。
それでも、相手が会社の人間となると話は変わってくる。
「なかったことにしてもらえるかな」
「何をですか?」
「いや、だから、それはさぁ……」
こんな状況にもかかわらず、新田は動揺ひとつ見せない。
「楽しかったです。また誘ってください」
いやいやいやいや。なんでそうなる? ただの社交辞令? それとも体が目当て? いや、新田に限ってそれはないと思いたいし、そもそも、もう二度と彼を誘うことなんてないだろう。
そう思っていたのに――
「あ、黒見先輩、お疲れ様です」
一週間ぶりにいつもの居酒屋の暖簾をくぐると、満面に笑みを浮かべる新田の姿があり、結衣は息を呑んだ。
「あ、新田くん。お疲れ様」
「また参加させてもらってます。先輩、ここどうぞ」
うんうん、と頷きながら、結衣は促された新田の隣に腰を下ろした。
「こないだ新田が『のんべえ会』のメンバーになりたいって言ってたから、さっそく声掛けたんだよ」
向かいに座るまさやんが笑顔で言った。
「あ、そうだったよねー」
と、如何にも喜ばしげに笑いながら、結衣は既に帰りのことを考えていた。
このままいくと、同じ電車でまた二人きりになってしまう。
「先輩はビールですよね?」
新田が顔を覗き込んだ。
「ああ、うん」
返事すると同時に新田は振り返って手を上げ、店員に注文した。後輩の立場で気を遣っているのか、その後も皆の飲み物を気にしたり空いた皿をさげたりと、新田の甲斐甲斐しさが結衣の心をくすぐった。
素面で酔っ払いの相手は疲れるだろう、と思いながらも、心の中では「どの口が言う」と突っ込んだ。
「新田君、食べてる?」
そんな新田を気の毒に思い、結衣は声を掛けた。
「はい、食べてますよ。料理は旨いし、すげえ楽しいです」
笑顔が眩しすぎて、目眩を起こしてしまいそうだ。
「ちゃんと送りますから、安心して飲んでください」
結衣は思わず目を見開いた。
けれども、動揺したのは結衣だけで、同僚二人は上司ネタで盛り上がり、爆笑の最中だった。新田が僅かに口角を上げたのを、結衣は見逃さなかった。
今のは、絶対にわざとだ。
当然、帰りは二人きりになった。
酔ってはいたが、意識ははっきりしていた。素面の新田ほど足取り軽くとまではいかないが、おんぶは必要ない。
「歩けますか?」
今考えていたことを見透かされてしまったように思えて恥ずかしくなり、結衣はきっぱりと言い放った。
「大丈夫」
それでも、駅の階段を上る時はふらつかないかと慎重になった。そんな結衣のぎこちない動作を見て察したのだろう。並んで階段を上っていた新田が然り気無く後ろに回ってくれたのがわかった。指一本触れない大人の気遣いに、思わず惚れてしまいそうになる。
かと思えば、電車に乗り込むと軽く背中に触れ、空いた席へと促してくる。そして当たり前のように結衣の前に立ってつり革を掴んだ。
「楽しかったですね」
言われて見上げると、柔らかな笑顔が降り注いだ。
新田はイケメンだ。それに背が高く、手足も長くてスーツがよく似合う。会社の後輩でなければ関わりを持つことなどなく、手の届かない存在なのかもしれないと、新田に向ける乗客の恍惚とした視線で知らされた。
あの夜の出来事は、どちらかといえば新田のほうが被害者だったのかもしれないとさえ思えてきた。
申し訳ないことをしてしまった。
そう思いながら、結衣は目を伏せた。
「降りますよ」
と聞こえた時には、バッグと一緒に抱えられていた。
「足元、気を付けてください」
言われて、結衣は反射的に電車とホームの間を跨いだ。
「ごめん。寝てた」
「マジで一瞬でしたよ」
新田が可笑しそうに笑う。
「危なっかしいんで家まで送ります」
結衣はその言葉に抗うことが出来なかった。
徒歩五分の距離はあっという間で、マンションの前で「じゃあ、また明日」と言われた時には、思わず彼の袖を掴んでいた。
「良かったら、コーヒーでも飲んでいって」
「はい、ありがとうございます」
新田は断ることを知らない人種のようだ。
はっとして目覚め、無意識にサイドテーブルの上を見た。
「嘘でしょ!?」
結衣は思わず声を上げた。
《鍵はいつものところに入れておきます。新田》
あろうことか、また記憶を飛ばしている。時計を見ると午前二時を少し回っていた。
帰宅したのは十一時過ぎだったはずだ。新田とコーヒーを飲んだことは覚えているが、新田を見送った記憶も、ソファからベッドへ移動した記憶もない。けれど、今回はちゃんと服を着ていた。
会社で顔を合わせた新田の様子がぎこちなく思えるのは、気のせいではないだろう。さすがに二度目となると、軽蔑の目を向けられても仕方がない。
食堂で新田を捕まえ、結衣は声を潜めて尋ねた。
「私、寝ちゃった?」
「え、覚えてないんですか?」
新田は軽蔑とも失望ともとれそうな表情を見せた。
「えっとぉ……なんか、ごめんね」
自分から誘っておいて、かなり失礼なことをしてしまったという自覚はあるが、覚えていないだけに、やんわりとした謝罪になってしまう。けれども、別れ際にもう少し一緒にいたいと思って引き止めたのは本心からだったと、はっきり言える。
「俺はすげえ楽しかったです。また誘ってください」
それはきっと、憐れみの社交辞令だろう。
十一月に入り、売上データの集計後、営業報告書と月次資料の作成を無事に終え、一区切りついた結衣はコーヒーを飲みながら解放感に浸っていた。革製品メーカーは秋冬が繁忙期となるが、冬の需要にギフト需要も重なり、これからどんどん忙しくなる。
「先輩、今日は『のんべえ会』行くんですか?」
不意に耳に届いた新田の声に、結衣の心臓が跳ねた。
「ああ、うん。行くつもりだけど」
「じゃあ、俺も行きますね」
その言葉がやけに引っ掛かり、聞き流すことができなかった。
「あのさあ、新田君。もしかして私に気を遣ってくれてるんだったら、大丈夫だからね。今まで何十回と飲み会あったけど、ひとりでちゃんと帰れてたんだから」
「いえ、俺が行きたいから行くだけです」
新田の弾けるような笑顔を目にして、結衣は拍子抜けした。
「ああ、そう……」
てっきり、もう付き合いきれないと呆れられているものだと思い込んでいた。さすがにこれ以上醜態を晒すわけにはいかないし、迷惑をかけるわけにもいかないと、折を見て新田に伝えなければいけないと考えていたところだった。
「お疲れ~」
結衣の声に続いて、ジョッキが心地よい音で触れあった。いつものメンバーといつもの場所で、のんべえ会が始まった。気掛かりが一つ払拭されて気分がすっきりした結衣は、晴れやかな気分でジョッキを傾けた。
「のんべえ会の中で、恋愛感情が芽生えたりすることってないんですか?」
唐突に新田が言った。
「「「ない」」」
気持ちいいくらいに三人の声が揃う。
「確かに結衣ちゃんは可愛いけど、恋愛対象としては見ないかな。俺ら彼女もいるし、結衣ちゃんも最近まで彼氏いたし、お互いに相談に乗ったり乗ってもらったりする仲だしね」
「だな」
まさやんの意見に、同僚の中島源ことなかじーも賛同した。
「けどさあ、前にのんべえ会のメンバーだったあいつ……佐々木。あいつは酒癖悪かったよな」
なかじーが顔をしかめながら言った。
「ああ、あいつは酒癖っていうか、中身がクソ過ぎだろ」
珍しくまさやんが怒りを露にした。
「佐々木さんって、営業の佐々木さんですか?」
新田が尋ねた。
「そう、あの佐々木。あいつ明るくていい奴かと思ってたけど、飲み会で結衣ちゃんが席外した時に『ワンチャンやれんじゃね?』とか言いやがってさ。即刻退場させて、それっきり。仕事以外では付き合いやめた」
「へえ。そんなことがあったんですか」
「そうだったみたい。あの時、トイレから戻ったら佐々木君が消えててびっくりしちゃったの。まあ、だから、この二人のことだけは本当に信頼してるの」
結衣は新田に向けてそう言ったが、疚しさからその目を真っ直ぐに見ることは出来なかった。
「へえ。素敵な関係ですね。俺もぜひ仲間に入りたいです」
そう口にした新田を横目に、結衣は心の中で呟いた。
――いや、もう無理でしょ。
「まあ、何より一番の理由は、俺らが全く結衣ちゃんの好みじゃないってことが大きいんじゃないかな」
そう言ってなかじーが笑うと、「それな!」とまさやんも釣られるように笑った。
「先輩の好みって?」
新田が少し前のめりになり、興味津々な表情を向けている。
一瞬、躊躇うような間があった。
「「ちょい悪セクシー」」
まさやんとなかじーが声を揃えた。
「やだぁ、ばらさないでよー!!」
「へえ、そうなんですか。……意外です」
新田があの日と同じように、僅かに口角を上げた。
その後も恋愛話で盛り上がり、酒のペースもつい上がる。けれどもそれは、新田がいるのをいいことに、とも言えた。
「先輩、今日もコーヒーご馳走してくださいね」
「ああ、うん……」
新田は遠慮も知らない人種のようだが、逆にそこが良いところでもある。年下のくせに、人に気を遣わせない術を知っている。
結衣は新田の背中にぴったりと張り付いて、甘い香りと心地よい揺れを感じていた。本当は歩けないほど酔ってはいなかったが、新田の好意に甘えた形だ。理性はあるが恥じる気持ちがなくなっているのは、アルコールのせいなのか、相手が新田だからなのか――
「お邪魔します」
新田の自由さと品格のバランスが、相手に不快感を与えない要因だろう。新田はいつでも礼儀正しい。
「コーヒー淹れるね」
「ありがとうございます」
新田がコートを脱いでソファに腰を下ろす様子をキッチンから眺めながら、結衣はコーヒーケトルに水を注ぎ、火にかけた。
よくよく考えると、おかしな光景だ。飲み仲間で付き合いの長いまさやんとなかじーは一度も来たことがないのに、入社して数ヶ月の後輩が深夜にソファで寛いでいる。こんなことがもし社内に知れ渡ったら、自分よりも彼のほうが被害を被るだろう。村八分とまではいかないにしても、変な噂を立てられれば居づらくなるに違いない。ましてや、真面目で誠実だと知られている彼なら尚更だ。
新田の視線が部屋の中をゆっくりと移動しながら、結衣に向けられた。
「先輩、ぬいぐるみ好きなんですか?」
「え? うん。普通に……可愛いでしょ? そのカモノハシのぬいぐるみは、この前つい衝動買いしちゃったんだよね」
「以外です」
「どういう意味?」
結衣は笑いながら、コーヒーカップを二つ持ってテーブルに移動した。
「先輩は可愛いっていうより、格好いいってイメージが強くて。……いただきます」
新田がカップを手にして、息を吹き掛けた。
「へえ。私ってそんなイメージなんだ」
「面倒見が良くて、姉貴的な……」
「ふうん。そっか」
「……酔った時は違いますけど」
「え、今それ言う?」
結衣は思わず苦笑いした。
「先輩、俺のこと好きですか?」
「え?」
「この前は好きだって言ってくれましたよね?」
「え? そんなこと言ったかなぁ……」
「言いましたよ。言ったじゃないですか。この前先輩を送ってコーヒーをご馳走になった時、このソファに座って」
新田が畳み掛けるように言った。
「それはさあ、後輩としてってことだよね?」
全く記憶にない結衣は、まるで他人事のように言った。
「なんだ。……がっかりです」
そう言うと、新田は一気にコーヒーを飲み干した。
「ご馳走さまでした」
「え? あ、ううん。こっちこそ送ってくれてありがとう」
結衣は足早に玄関へと向かう新田の後ろを慌てて追った。この後味の悪さはなんだろう。悪いことをしたわけでもないのに、罪悪感にも似た感情に満たされている。
初めて見送る新田の背中は、やけに小さく見えた。ドアが閉まった瞬間、飛ばした記憶の重さが、不意に結衣にのしかかってきた。
自分の知らない自分が、何かを動かしているように思えた。
結衣はどうしてもそれを知りたくなった。



