◇◇◇ 8 兄 ◇◇◇
とうとう、この日が来てしまった。
今日は平日。学校を休んだ。……兄の指示で。
昨日の夜……私の生い立ちについて、兄に質問しようと思っていたのに。仕事を終えて帰宅した兄に言われたのだ。「玻璃。明日は学校を休め。遠出するから今日の内に準備しておけ。……お前の話は、行った先で聞いてやる」……と。
指示された内容を、訝しんでいた。
学校を休んでまで、遠出……?
兄らしくない。学校を休む程の用事があるのだろうか?
眉をひそめる。壁に掛けてあったカレンダーを確認する。
七月、一日……?
口があんぐり開いてしまうのを自覚する。
七月一日って……確か!
「例のゲーム」で、エンディングの一つである「逃避行ルート」へ……分岐する日だったよね? もう明日なの?
主人公に設定したキャラと意中の相手キャラが、手を取り合って遠くの町を旅する……駆け落ちめいた雰囲気のイベントだ。
「エンディング」のイベントになるか「エンディングの前にあるイベント」になるのかは、今の私には判断がつかない。逆ハーレムを完成できなかったから。
このイベントは、とても厄介で……かなりの危険が近付いているのかもしれなかった。もし「エンディング」の方なら、待つのは大怪我か死……。「エンディングの前にあるイベント」の方であるなら、助かる見込みもある。
何故そんな危険が迫っているのかというと。「黒幕」であるキャラクターが動くから。遠出した先で出くわすのだ。
その人物は、主人公に執着している。
この時点で逆ハーレムのメンバーたちの「主人公への好感度」が高ければ、水面下で「黒幕」を妨害してくれる。「黒幕」を倒す事は無理でも。足を引っ張ったり体力を削ってくれたりと、アシストを期待できるのだが……。
私の逆ハーレムは完成しなかった。メンバーは、タイチ君一人だし。
そう言えば、おかしいな。私……タイチ君に、名前を明かした。お兄ちゃんには、教えていないのに。相手役が、お兄ちゃんになっている?
ハッと、思い至る。
……そうか。
タイチ君は、私を選ばなかったんだね……。
気持ちが暗く陰る。
……これでよかった。最後に、彼を巻き込まなくて済んだ。
越えられるのか分からない。でも越えなきゃ。「黒幕」に、殺される訳にはいかない。兄が悲しむから。
ここで、このイベントから逃げたとしても多分……黒幕の脅威からは逃れられない。対決するしかない。
列車の窓硝子越しに、外の景色を眺めている。田舎町の山や畑が、後方へ流れて行く。長閑な日和に、目を細める。
こんなに平和な場所なのに。向かう先で、生きるか死ぬかの戦いに臨まないといけないかもしれない。
兄には、この件を伝えていない。予定を変更されると思ったから。黒幕には、出て来てもらわないと困る。
今回の機会を逃したら、更に厄介な事になる。黒幕が誰か分からないと、この先も怯えながら生活しないといけなくなる。
……「黒幕」は恐らく、私の知っている人だと思う。「登場人物」の内の一人だから。
窓から視線を外す。横のシートにいる兄へ、顔を向ける。仕事で疲れていたのだろう。寝こけている。
腕組みして上半身をやや斜めに、こちらへ傾けた姿勢で……口が少し開いている。無防備な兄の顔を見つめる。心が落ち着く。
…………もしも。兄が「黒幕」だったとしたら。
考えて、背筋がヒヤリとする。
私は、どうするのだろう。大人しく殺されるのだろうか。それとも、止めようとするだろうか。
変な想像をしてしまった。首を横に振って、不安を払いのける。
きっと「黒幕」は兄じゃない。「かまいたち」らしき現象は、教室で起きた。
薄らと浮かぶ考えに、顔をしかめる。
教室で花瓶が割れた時……花瓶があった場所の最も近くにいたのは、直前に私が逆ハーレムのメンバーに誘っていた子たちだ。ジン君、ミツヤ君、キョージ君、ケンゴ君。……そしてタイチ君。
友達を疑うなんてと思いつつ、考えてしまう。
あの時は、るりちゃんとクラスメイトの女子たちが険悪な雰囲気で……まさか、るりちゃんじゃないよね?
自分でも「ないない」と苦笑する。すぐに彼女じゃないと断じてしまう程に。あの日……るりちゃんが怒ってくれた事は、胸の深くに響いていた。
無闇に友達を疑うのはよそう。
そう言えば……以前、ジン君が「噂は、デマだって分かってる」と呟いていた。何の件だったのだろう?
噂……。記憶を辿る。タクマ君に屋上へ呼び出された際に「オレの言う通りにしないと、悪い噂をばら撒く事になる」って言われたっけ。タクマ君が、何か噂を流したって事……?
タクマ君は「黒幕」ではない……よね? 別のクラスだし。
列車がトンネルへ入る。外の景色が暗くなる。窓硝子に自分が映っている。とても辛気臭い顔をしていた。
胸に手を当て、深呼吸する。
「黒幕」が誰であっても。万一、私が死んだとしても。
このイベントで「黒幕」の正体をあぶり出せる。
私の好きな人たちに生きていてもらえるなら。挑むよ。
その日、私たちはビジネスホテルで一泊した。
兄のせいで、悩ましい夜を過ごすなどと……この時は、思いもしなかった。
列車を降り、駅から続く道路を暫く進む。
街中にある、ビジネスホテルにチェックインする。
夕御飯が豪華だった。
「たらふく食っとけ!」
兄に言われるまでもなく、満腹になるまで食べた。
本当に、兄はどうしたのだろう。普段、節約を徹底している兄が……こんな何でもない日に、お金を使っている。
もしかして。兄も「何でもない日」ではないと、知っている……?
僅かな疑惑が、心の隅に留まった。
食事の後、部屋へ戻る。
トイレとお風呂が付いた洋室には、ベッドが二つ置いてある。
シャワーを済ませ、それぞれベッドに入って電気を消す。
何と切り出そうか考えていた。
お兄ちゃんと一緒の部屋で寝るのも、久々な気がする。
幼少の頃……お化けが怖くて、よく兄の布団に潜り込んでいた。
思い出して小さく笑う。
「何だよ」
話し掛けられた。少し不機嫌そう。楽しくなって、言い及ぶ。
「フフ……私の初恋の人の話をしようかな」
兄が静かになった。追い討ちを掛けてみる。
「聞きたい?」
「オレ、もう寝るから」
兄は話題に触れたくないと言いたげに、会話を終わらせようとする。寝返りを打つような布団の擦れる音が聞こえる。私は構わず続ける。
「幼心に、その人のお嫁さんになりたかった。だけど……振られたの」
「まだ、根に持ってんの?」
「もちろん!」
言い切った。瞼を伏せる。懐かしくて胸が切ない。
兄と、こんな風に語らう夜も最後かもしれないから。何か残したかったのかもしれない。
暗闇の向こうを見つめる。薄く微笑む。
「私。絶対に、お兄ちゃんより幸せになってやるって……その時、決めたの」
「生意気」
呆れているような、少し面白がるような雰囲気の返事だった。
望みを唱える。
「お兄ちゃん、協力して」
間があった。
もう一度、心に刻み込むつもりで口にする。
「私が幸せになれるように、協力してほしい」
暗闇に目が慣れてきた。身を起こして見つめる。お願いする。
「知っている事、全部教えて」
私の不思議過ぎる境遇同様……もしくは。それ以上に兄の辿って来た道程も、ファンタジー色が濃いものだった。
昔話をする如く語られる話に、耳を傾ける。
兄は何度も、同じ人生を繰り返し経験したと言った。毎回、どこか少し違っていて。中にはヘンテコなものもあったそうだ。
話の途中、彼は「違うかもしれない」と言い直す。
「オレの基準が狂っているのなら、ヘンテコが普通って事もありえたり……。いや、深く考えるのは、よそう。頭が痛くなりそうだ」
頭を抱えて首を横に振る兄へ、視線を送る。圧が届いたのかもしれない。続きを聞けた。
「一番……記憶に印象深く刻まれていた人生では、オレは養子で。別の家の子になっていた。元の親や兄弟の事も好きだったが、もらわれた先の親の事も気に入っていた。養母に子供ができにくい持病があって。親戚だった元の親と相談して、オレを養子にしたらしい。けど、三年後に妹が生まれた。両親もオレも、凄く喜んだよ」
沈黙があった。
「それから?」
先を急かす。兄の声が返ってくる。
「幸せに暮らした」
「何で、私に両親の記憶がないの?」
「……人生の繰り返しがあって。思い出との間に、距離ができたのかもな。それに。オレたちは弾かれたんだ。この怪奇な人生のループから」
「ファンタジックだね」
「だよな。ははっ」
笑う兄の声が不意に、独り言めいた小さなものに変わる。
「……オレたちの両親は、その人生でしか子供を作らなかった」
「待って。じゃあ今……私はここにいない筈だよね?」
再び兄が黙った。
「お兄ちゃん?」
微かな息遣いが聞こえてくる。
「えっ? まさか。この流れで寝てる? 信じられない! 一体どういう事なのか知りたいよ。気になって眠れないよ……!」
酷く悩ましい。悶々とした夜を過ごす。
私の苦悩など気にも留めず、兄は朝まで起きなかった。
この時……兄が寝たフリをしていたなんて。考えもしなかった。

