【応募版】夫に穢された純愛が兄に止めを刺されるまで


◇◇◇ 7 ① ルート ◇◇◇


 血の気が引く。とんでもなく大事な件を、今日まで忘れていた事にゾッとする。忘れたまま過ごしていたら、もしかすると……何も知らない内に、殺されていたかもしれない。今の私は、名前が「玻璃」になっているし。

 ゲームを最後までプレイするのは時間が掛かるので、途中でセーブして止めた。

 納戸を漁っていた際に引っ張り出した荷物を片付ける。
 箱を持ち上げた時に、何かが……ひらりと落ちる。箱を納戸に仕舞った後に戻り、拾い上げる。小学校の卒業時、同じクラスの子たちと一緒に撮影した写真だった。

 そう言えば……。

 引っ掛かりを感じ、記憶を辿る。
 かつての未来で、夫から聞いていた。いつだったか。「タクマさん」についての話。

 酔っ払った夫が「中学生の頃、同級生だった」と口にしたのを覚えていて、卒業アルバムを開いてみた事がある。「タクマ」という名前の子は見当たらなかった。「転校したのかな?」と、不思議に感じていたけど。妙に気に掛かる。何日か経って思い至った。

 暴力事件を起こして退学になった子が一人いた。その子の下の名前は、確か『タクマ』だった。



 夜、悪夢を見た。うなされて起きた。
 正体の分からない不安が心に巣くっている。

 汗をかいているのに寒い。そして、やっと。私は……不安の一端に気付いた。


「あれ……?」

 かつての中学時代を思い浮かべても、小学生だった頃の記憶を探ってみても。

「いない」

 あるのは、兄との思い出ばかり。

「あれれ……?」

 絶対におかしい。私の、お父さんとお母さんは?



 兄の部屋のドアを開ける。暗がりの中、窓から僅かに、月明かりが差している。

「玻璃?」

 私に気付いた兄が、布団から身を起こす。

「お兄ちゃん」

 涙が零れる。側に座り訴える。

「変だよ」

 溢れて、ぐちゃぐちゃになりそうな思考に囚われ口走る。

「私は誰? 誰なの?」

 分からない。思い出せないよ。

 兄が頭を撫でてくれている。少し気持ちが落ち着く。目を閉じる。
 密やかに溜め息が聞こえる。




 いつの間にか眠っていた。

 瞼を開ける。自室のカーテン越しに、外から入る光が明るい。
 昨晩、兄は何と言ったのだろう。


 階下へ下り、歯を磨いていた兄に声を掛ける。

「お兄ちゃん。今日さ。仕事が終わってから時間作って」

「……分かった」

 昨日の件があったからか、兄はすんなり頷いてくれた。



 学校の帰りに誘われて、久しぶりにタイチ君のお家へお邪魔した。
 兄との約束した時間まで、まだ間がある。

 タイチ君の部屋、懐かしいなぁ……。

 私の実家と同じくらいの築年数だろう新しくはない造りで、畳の敷いてある彼の部屋には窓際にシンプルな机、壁際に本棚とベッドがある。

 彼は荷物を置き、振り返った。詰め寄って来る。

「もう誰か……オレのほかに、お前の逆ハーにメンバーはいるのかよ」

「えっ? いないけど。…………当てはある」

 答えると一瞬、タイチ君に息を呑むような瞳で見つめられた気がした。

「誰だよ」

 強めの声で聞かれる。
 気圧されて一拍ほど言葉に詰まった後、漸く口にする。

「お兄ちゃん」

「兄妹で?」

「血は繋がってないよ」

「…………はーー……」

 タイチ君が長めの溜め息をついた。呆れているのかもしれない。
 結局、逆ハーレムのメンバーを集められなかったけれど。最後まで足掻こうと決めていた。

「がむしゃらに、やれる事はやる。そう決めたの」

「ダメだ」

 私の言葉は、タイチ君の意見に遮られる。相手は、怒っているように顔をしかめている。

「どこにも行かせない」

 低く、はっきりとした調子で言われる。
 凄く真剣な瞳に怯んで一歩、後退る。相手も、こちらへ近付いて来る。

 ドアに壁ドンされたような格好で、間近から見られている。平常心でいられない。
 顔を横へ逸らして、言い訳する。

「今日、お兄ちゃんに色々……教えてもらう約束してるし。もう帰らないと」

「煽ってんの?」

 左頬にキスされた。驚いて見つめ返す。

「オレと、すればいいじゃん。練習」

 望んでくれた。どこか切実な響きが、胸の奥に落ちてくる。

 タイチ君は多分、勘違いしている。
 以前、彼にお願いした「私が喪女を脱却する為の練習」を、兄と私がすると思っている?

 実際の兄は、恋愛経験が少なそうだった。本人も教えるの無理そうな物言いだったし。
 今日、兄には……私の生い立ちについて教えてもらうつもりだ。

 そんな思考を巡らせている間にも、タイチ君との状況は進んでいる。
 切なくなる程に抱き締められて、退路を塞がれた心持ちになる。弱々しく口にする。

「だって、心の準備がまだ……」

 密着が緩んだので、ドキドキする胸をどうにか落ち着けようと息をする。
 しかし直後、左頬を撫でられ身が竦む。動悸が増す。

 好きなのに。

 間近になり、怖くなる。

 自分が変わってしまうような、違う世界に生まれ変わってしまう如き……確実に今までの自分ではいられなくなる予感がする。

 逃げていたのかもしれない。これまで、本当に正面から向き合っていなかったのかもしれない。中途半端なまま、問題を先送りにしていた節もあったのかも。

 彼を巻き込んだ。私の我儘に。

 …………覚悟を決めた。

 泣き出しそうになる目元に力を入れ堪えたから、睨むような不細工な顔になっているだろうなと……取り留めもない考えが、薄く浮かんでは流れ去る。

 相手と眼差しを合わせる。

「タイチ君。私の名前、本当は『玻璃』じゃないの」

「え……?」

 打ち明ける。タイチ君の目が大きく開かれる。続きを話す。

「この世界に転生したらしくて。本当の名前を共有する事で色々あるらしいの。この世界は前世でプレイしていたゲームの要素も入っていて…………えっと。もしかして私、今めちゃくちゃ中二病な事を言ってる?」

 説明しながら少し笑う。目の前の彼は、私を凝視している。緊張している様子にも窺える。

「本当の名前を共有した人のルートに入るって言われた。説明してくれた人がいてね。声だけしか聞こえなかったんだけど。……こんな事を言ってるの、自分でもどうかしてるって思うけど…………信じてくれる?」

「信じるよ」

 すぐに返事をくれた。絆を感じて、尊くて……抑えていた涙が零れてしまった。

「名前を教えたら、元の世界での記憶を呼び起こすらしいの。前の世界で、タイチ君は多分……私の事が嫌いだった。記憶を思い出しても……」

 続きを、言えなかった。
 前世の記憶を取り戻したら、彼は恐らく…………私を嫌うだろう。

 震える手を落ち着けたくて、制服の胸元を握り締める。涙を止める事も叶わない。精一杯はっきりと言ったつもりだったけど、低くしゃがれた声になる。

「本当の名前を、聞いてほしい」

 私は、現実と向き合わないといけない。遅かれ早かれ、直面する問題だった。
 ともすれば閉ざしたくなる口を必死に動かす。

「私のっ……! 本当の名前はっ……!」


 本当の名を伝えた。


 タイチ君に異変があった。一瞬……彼の上半身が、僅かに揺らいだように見える。
 目元を押さえている様子に、不安が募る。

「タイチ君?」

 心配で声を掛ける。

 彼は俯きがちに視線を彷徨わせた後、自らの口を手で覆い……荒くドアを開け放つ。凄い勢いで部屋を出るタイチ君に驚きつつ、後を追う。

 トイレで吐いている姿を目にした。

 彼にとって前の人生の記憶は……吐く程につらいものだったのかと衝撃を受ける。

「ご……めん。今日はもう帰って」

 彼は、私の方を見なかった。

 告げられた言葉に、きっと……そんな意味はないと思いたいのに。突き放された心地がして、胸が痛い。

「……うん」

 了承して、その場を後にする。

 「こちらこそ、思い出させてしまってごめんね」とか「私の事、嫌いになったよね?」などと言い出しそうな複雑な気持ちを全部、呑み込む。

『ああ、やっぱり』

 胸に、囁きが落ちる。

 私は「玻璃」のままでいた方が……元の「私」に戻らないでいた方が……よかったのかもしれない。夢に溺れているのは幸せだった。現実は、つらいから。

 どうしようもない自分を慰める為に、微かに笑う。

 我が家まで続く……細い坂道を下る。
 涙を払うように走った。



 そして間もなく。

 エンディングのイベントが発生するルートへ入ったのだと、知るのだった。



◇◇◇ 7 ② side story 【妹】 ◇◇◇


 オレはその日、自分の生い立ちを思い出した。


 地面に膝をつく。
 胸に妹を抱え、運命を呪っていた。




 雪がちらつく十二月。夕方頃に仕事が終わり、現場近くのコンビニでコーヒーを買って飲もうとしていた。コンビニに行く手前に公園がある。通り抜けて近道をしようと考え、足を踏み入れる。

 前方のベンチに見た事ある奴がいる。……妹だ。

 今日はクリスマスイブというのに。独り、公園で肉まんを食べている妹の行動が不自然に思える。旦那とケンカでもしたのか?

 妹が唐突に立ち上がる。こちらとは反対の方へ行こうとしている。
 直後、彼女は盛大に転んだ。恐らく……地面が凍っていたのだろう。

 仰向けに倒れている妹の側へ駆け寄る。

「大丈夫か?」

 助け起こそうとする。頭を支えた時、手に、ぬるっとしたものが付く。
 ――血だ。

 震える。

「嘘だろ? おい!」

 必死に名を呼ぶ。応えがない。

 背中を、冷や汗が伝う。
 その時、「奴」の気配を感じた。

 近くに……いる。

 妹の上半身を抱き起した格好で、注意深く目を凝らす。
 オレたちの側には、誰もいないように見える。でも確実に「いる」と分かる。
 凄く懐かしい感覚に、目の奥がジンとする。

 姿の見えない「気配」は言う。

「久しぶりだね」

 それまでの繰り返される人生に疲れ、忘れかけていた。
 だが、声を聞いて確信する。


 ――父だ。