『氷の聖女は推しボイスに溶かされたい〜完璧な私が深夜にスパチャしている相手は、冷徹な鬼部長でした〜』

1. 成功の裏側に潜む「毒」
 金曜日。昨日のプレス発表会は大成功を収め、主要なガジェット誌や経済ニュースは「サンスターツの革新」と、その立役者である「美しきプロデューサー・氷室凛」をこぞって称賛した。
 だが、光が強ければ影も濃くなる。それはビジネスの、そしてSNS時代の残酷な真理だ。
「……おはようございます」
 凛がオフィスに入ると、いつもの羨望の眼差しに混じって、粘りつくような不快な視線が突き刺さった。耳に痛いほどの沈黙。誰かがスマートフォンをこちらに向けて、こそこそと指を動かしている。
 自席に着き、震える指で社内掲示板を開いた凛は、心臓を直接冷たい手で握られたような衝撃を覚えた。
『氷室凛、完璧な仕事の裏側は部長への枕営業?』
『実力じゃなくて「枕」で掴んだプロデューサーの座。聖女の仮面の下は淫乱』
 アップされていたのは、昨夜のイベント後、一ノ瀬の高級車にエスコートされて乗り込む凛の姿だ。一ノ瀬の大きな手が彼女の腰に添えられたその瞬間を、悪意ある角度で切り取っている。
(……大丈夫。私は完璧。こんなもの、感情を切り離してロジカルに処理すればいいだけ。解析して、投稿ログを追って、削除依頼を出せば済む話……)
 凛は無表情の仮面を被り、機械的にキーボードを叩く。だが、マウスを持つ指先が、微かに、けれど確実に震えていた。
 オタクとしての凛は知っている。推しが汚される痛み、そして自分の「純粋な熱量」が泥を塗られる絶望を。一ノ瀬と二人、不眠不休で作り上げたプロジェクトが「不純なもの」として扱われることに、彼女の心は悲鳴を上げていた。
2. 決壊した「聖女」の仮面
「氷室さん、昨日のパーティー、ずいぶん部長と『密着』してたみたいじゃない。成功の秘訣は、夜のプレゼンかしら?」
 隣のチームの女性社員が、わざとらしく凛のデスクの横に立った。その目は同情を装いながらも、スキャンダルの真相を引き摺り出そうとする下劣な好奇心に満ちている。
「……業務上のコミュニケーションです。事実無根の噂には関与いたしません。失礼します」
 凛の声が、わずかに掠れた。
 その時、フロアの向こうから一ノ瀬が歩いてくるのが見えた。普段なら、その姿を見るだけで心拍数が上がる救世主。だが今は違う。今彼と一緒にいるところを見られれば、さらに火に油を注ぐことになる。
「部長、来ないで……っ」
 凛は心の中で叫び、一ノ瀬と目が合う直前で資料を抱え、逃げるように給湯室へと駆け込んだ。
 扉を閉めた瞬間、張り詰めていた糸が切れ、肺の中の空気が一気に漏れ出す。
(完璧じゃなきゃ。私は彼の盾なんだから。泣いちゃダメ。泣いたら、その汚い言葉を認めることになる……!)
 蛇口を全開にし、冷たい水で無理やり動揺を押し流そうとしたその時。
 背後の扉が乱暴にロックされ、凛の華奢な体は強い力で壁際へと押しやられた。
「……何をしている。俺から逃げて、こんな場所で震えているのが『完璧な氷室凛』のやり方か」
 一ノ瀬の声だ。ナイトとしての甘い声ではない。冷徹な一ノ瀬駿としての、だが底知れぬ怒りを孕んだ重い声。
「部長、離してください。誰かに見られたら、本当に取り返しが……!」
「取り返しがつかないのは、お前のその泣きそうな顔だ」
「だって、私が隙を見せたから……! あなたのキャリアに泥を塗るなんて、ファンの風上にも置けない……プロデューサー失格です……っ!」
 凛の瞳から、ついに大粒の涙が溢れ出した。完璧な「氷壁の聖女」の仮面が、音を立てて粉々に砕け散る。
 凛は一ノ瀬の胸元を拳で叩き、声を殺して泣いた。
3. ハイスペ男子の「本気の甘やかし」
 一ノ瀬は凛の拳を優しく包み込み、そのまま彼女を壊れ物を扱うように強く抱きしめた。高級なサヴィル・ロウのスーツから、微かに香る彼の体温。
「……馬鹿な女だ。俺の評価など、お前が一人で背負う必要はないと言っているだろう」
 一ノ瀬は凛の耳元に顔を寄せ、今度は「ナイト」の、あの世界中のリスナーが跪く、最も優しく、最も深いトーンで囁いた。
「『……よく頑張ったね、凛。もう、完璧なフリなんてしなくていい。俺の前では、ただの泣き虫な女の子でいろ。お前の弱さは、俺だけが守ってあげるから』」
「…………っ、ぅ、うぁああ……!」
 心に突き刺さっていた棘が、その一言で溶けていく。凛は一ノ瀬のシャツを掴み、子供のように声をあげて泣きじゃくった。
 一ノ瀬は凛を軽々と抱き上げると、給湯室の隅にあるソファに座らせ、彼女を自分の膝の上に固定した。
「業務命令だ。今日はもう、仕事はするな。……今からお前を、俺の家へ連れて帰る」
「えっ、でも、まだ定時前……それに掲示板の対応が……」
「掲示板だと? そんな塵(ゴミ)溜め、俺の専属弁護士が五分後に根こそぎ消し去る。……お前を壊そうとした連中には、明日、辞標の準備をさせておく。だがその前に、俺にはやるべきことがある」
 一ノ瀬は凛の濡れた睫毛を指先でなぞり、陶酔したような瞳で見つめた。
「ボロボロになった俺の最愛のファン(プロデューサー)を、俺の声と体温で、徹底的に修復(リストア)してやる。……一晩中、俺の腕の中で甘やかされていろ。お前の涙の一滴まで、俺が飲み干してやるから」
4. 伏線回収:ナイト様の「最初の投稿」
 一ノ瀬の超高級マンション。
 最高の音響設備を備えたリビングで、一ノ瀬は凛をシルクのブランケットで包み、暖かいココアを差し出した。凛は彼の膝の間で、まだ時折小さく肩を震わせている。
「……部長。どうして、私なんかにそこまで。私はただの、一介の社員で……ただのオタクなのに」
 凛が弱々しく尋ねると、一ノ瀬は大きなモニターを操作し、ナイトとしての「最初の投稿動画」を表示させた。
 それは、三年前の日付。一ノ瀬が配信を始めた初日の音声だった。
『……こんばんは。今日は、ある一人の女性に贈るために、このチャンネルを作りました。彼女は今、自分の無力さに絶望しているかもしれないけれど。……俺は知っている。彼女の声が、どれほど美しく、力強いか。……いつか、彼女が笑って俺の隣に立つ日まで、俺はこの場所で叫び続けます。……負けないで、君のままで』
「……これ、私へのメッセージだったんですか?」
「ああ。面接の日、お前の声に惚れた俺が、お前を元気づけるために、名前も知らないお前に向けて放った独白だ。……あの時、圧迫面接で傷ついたお前の背中を見て、俺は決めたんだ。いつかお前が、俺の声を見つけてくれるまで、俺が最強の『盾』になると」
 一ノ瀬は凛の指に絡めたダイヤモンドのリングを愛おしそうに見つめた。
「お前は完璧だから愛しているんじゃない。……お前が不器用で、熱くて、一生懸命だから、俺は世界中の誰よりもお前が欲しかったんだ。……凛。お前を汚す奴は、俺が絶対に許さない。お前は俺の光なんだから」
(……ああ。生きててよかった。……推しが、私のために存在してくれていたなんて。……これ以上の「神回」が、私の人生にあるの……?)
 凛は一ノ瀬の深い愛の源泉に触れ、再び涙を流した。だが今度は、悲しみの涙ではない。推しに、そして最愛の男に、魂ごと救済された喜びの涙だった。
「……さて。修復の第一段階は終了だ。……次は、第二段階。……凛、耳を貸せ」
 一ノ瀬は凛を抱きしめたままベッドへと倒れ込み、耳元で、これまでで最も甘く、危険な声で囁いた。
「『……今夜は、配信では流せない、俺の本当の「声」を……たっぷり聴かせてあげるよ。……もう、誰にもお前を触らせない。お前を、俺だけの声で満たしてやる』」
 完璧なヒロイン・氷室凛。
 彼女は、汚されたプライドを推しの愛で洗い流し、更なる深い溺愛の海へと沈んでいくのであった。

つづく