『氷の聖女は推しボイスに溶かされたい〜完璧な私が深夜にスパチャしている相手は、冷徹な鬼部長でした〜』

1. 完璧な秘書の、不完全な心音
 火曜日。午前十時。
 サンスターツ本社、地下二階。ここには最新の音響測定を行うための「完全防音スタジオ」が存在する。
 氷室凛は、手にしたタブレットが震えるほどに緊張していた。隣を歩く一ノ瀬駿は、いつものように涼しげな顔で、だがその瞳には「獲物を追い詰めた」男特有の悦びが滲んでいる。
「凛。今日のテスト収録だが、アロマ連動システムの最終調整も兼ねている。……わかっているな?」
「は、はい。企画書に基づき、特定のキーワードによる香りの噴霧タイミングを確認します」
 凛は努めて冷静に応じた。だが、手元の資料には、彼女が深夜のテンションで書き殴った「究極の萌え台本」が載っている。
 本来ならプロのナレーターに頼むはずだったが、一ノ瀬は「プロジェクトの機密保持と、俺自身のスキルの証明だ」と言い張り、自らマイクの前に立つことを決めたのだ。

2. 密室の主従関係
 重厚な防音扉が閉まり、世界から音が消えた。
 照明が落とされ、淡いブルーのライトがスタジオを包む。ガラス一枚を隔てたブースの中に、一ノ瀬が入る。
「……チェック。凛、聞こえるか?」
 ヘッドフォンを通じて、凛の脳内に「ナイト」の声が直接流し込まれた。
(ひっ……!)
 耳元で、一ノ瀬の低い吐息が爆発する。
「聴感、感度、ともに良好です。……では、シーン14、深夜の独白シーンのテストをお願いします」
「了解した。……ふっ、そんなに震えるな。ヘッドフォン越しでも、お前の呼吸が乱れているのが手に取るようにわかるぞ?」
 一ノ瀬はコントロールルームにいる凛をまっすぐに見つめ、いたずらっぽく微笑んだ。

3. 「官能的」なアロマと、誤算の伏線
 収録が始まる。
『……ねぇ、まだ起きてるの? ……そんなに寂しそうな顔をしないで。俺が、君の全部を包んであげるから』
 一ノ瀬の声が響くと同時に、スタジオ内に甘く重厚な「イランイラン」の香りが立ち込めた。
(えっ、ちょっと待って! 設定が……!)
 凛は慌ててコンソールを操作する。キーワード設定にミスがあったのか、それとも一ノ瀬の声が「官能的」すぎたのか。システムが「愛の告白」だと誤認し、最高濃度の官能アロマを噴霧し始めたのだ。
「部長、止めてください! 設定ミスです、一度換気を――」
「いや、いい。このまま続けるぞ。……凛、次の台詞は何だ?」
 一ノ瀬がブースを出て、コントロールルームの凛の背後に立った。
 逃げようとする凛の肩を掴み、椅子ごと自分の方へ回転させる。
「次は……確か、『俺以外の男を、二度と視界に入れるな』だったか?」
 一ノ瀬の顔が、凛の唇が触れそうなほどに近づく。イランイランの香りと、一ノ瀬本人の清潔なシトラスの香りが混ざり合い、凛の脳は、もはや「爆死」を通り越して「蒸発」寸前だった。
「……それは、冴木主任への牽制ですか?」
 凛は震える声で、昨日の「剥き出しの独占欲」を指摘した。
 一ノ瀬はフッと目を細め、凛の顎を指先で掬い上げた。
「牽制? 違うな。あれは『警告』だ。……凛、お前は気づいていないようだが。俺が配信者としてお前に目をつけたのは、偶然じゃない」
「……え?」
 ここで、第一話から張り巡らされていた伏線が回収される。
「三年前、お前の最終面接。あの日、極度の緊張で声が出なくなったお前に、俺が言った言葉を覚えているか?」
 凛の脳裏に、入社試験の記憶が蘇る。真っ白になった自分に、面接官席の端にいた若い男が、マイクを通さず地声で囁いた。
『——君の声は、人を動かす力がある。自信を持って』
「……あの時の、声……」
「そうだ。俺はあの時から、お前の『完璧な仮面』の下にある情熱を知っていた。……だから、お前が俺の配信のリスナーだと知った時、どれほど歓喜したか、想像できるか?」
 一ノ瀬の手が、凛の耳元を掠め、イヤホンを外す。
「もう、機械越しじゃなくていい。……俺の本当の声だけを、ここで聴け」

4. 爆死不可避の「実地訓練」
 一ノ瀬は凛を抱き寄せ、耳元で、これまでで最も低く、熱い声を落とした。
「『……愛してる。俺の薔薇。お前を誰にも渡さない』」
「…………っ!」
 それは、凛が台本に書いたセリフではなかった。
 一ノ瀬の、完全なるアドリブ。本心の告白。
 凛はあまりの尊さと、心臓を直接握り潰されたような衝撃で、ついに「氷壁の聖女」の仮面を完全に剥ぎ取り、一ノ瀬の胸の中でぐったりと力尽きた。
「……凛? おい、寝るな、爆死するな」
「……無理……です……一ノ瀬部長……いや、ナイト様……尊死確定チケット……受理、しました……」
 密室のスタジオに、システムの誤作動で止まらなくなった「官能のアロマ」と、二人の乱れた吐息だけが重なり合う。
 完璧なヒロイン・氷室凛は、ついに「推し」という名の「愛」に、完全に陥落したのである。

つづく