『氷の聖女は推しボイスに溶かされたい〜完璧な私が深夜にスパチャしている相手は、冷徹な鬼部長でした〜』

1. 聖域を侵すノイズと、帝王の静かなる亀裂
 一ノ瀬グループ総帥室。
 地上二百メートル、東京のすべてを眼下に従えるその部屋は、日本経済の心臓部であり、一ノ瀬駿という帝王以外、何者も立ち入ることを許されない、無機質で完璧な「聖域」だ。
 壁一面を埋め尽くす高精細モニターには、世界中のマーケットが刻一刻と刻む数字の羅列が躍り、窓の外には跪くようなビル群がどこまでも広がっている。
 私は今、その王座――重厚なデスクのすぐ隣に新設された、「総帥補佐(パートナー)」としてのデスクに座っていた。ハネムーンから戻って以来、駿さんは私を文字通り「一分一秒たりとも視界から外さない」と冷徹に宣言し、私をこの贅を尽くした密室に閉じ込めたのだ。
「……駿さん。この資料、一ノ瀬グループが戦略的提携を検討している『アスター・グローバル』の担当者から届いた最終修正案です。……あの、さっきから視線が痛いんですけど。私の顔に、何かデータの不備でも書いてあります?」
 私がタブレットを差し出すと、眉間に深い皺を寄せていた駿さんが、ゆっくりと顔を上げた。その銀色の瞳には、冷徹な理性を焼き切らんとするほどの、暗くドロリとした熱が宿っている。
「……『アスター・グローバル』の担当者。……あいつか。……久我(くが)とかいう、あの不快な周波数を出す男か」
「不快だなんて。久我さんはこの業界でも非常に有能な方ですよ。私の周波数解析ロジックを、一目見ただけで完璧に理解してくれましたし。……さっきも『凛さんの声には、理屈を超えて人を動かす特別な引力がある。直接お会いして、その理論を深く伺いたい』なんて、素敵なメールをくださって……」
 その瞬間。
 総帥室を一定に保っていた空調の音さえ消えたかのような、絶対的な「静寂」が訪れた。
 空気がマイナス四十度まで一気に氷結し、私の背筋に、本能的な警報が鳴り響く。
「……凛。……今、何と言った?」
「え? ……あ、ですから、久我さんが、私の声を褒めてくれたって……」
 駿さんは無言で椅子を蹴るように立ち上がり、私の方へと歩み寄ってきた。一歩一歩、高級な革靴が大理石を叩く音が、処刑台へ向かう足音のように重く響く。その瞳の奥には、これまで見たこともないような、剥き出しの「焦燥」と「独占欲」が渦巻いていた。
2. 帝王の理性、その崩壊の音
「……あいつに聴かせたのか。……俺の許可なく、お前の、その声を」
 駿さんは私の椅子の両肘を掴み、逃げ場を完全に奪うようにして私を覗き込んだ。至近距離で見つめられるその視線は、もはや上司でも夫でもない。自分の宝物を泥棒に狙われた、凶暴な獣のそれだった。
「……仕事ですから、会議もしますし、電話で説明することだってありますよ……」
「……俺以外の男に、その心地よい響きを届け、あまつさえ『引力がある』などと品評させたというのか。……俺が十年前から見守り、三年前から一円単位、一秒単位で管理し、俺だけのものにしてきた……この声を、あんな男に汚させたのか!」
 駿さんの声が、地声でありながら、配信者「ナイト」の時よりも深く、重く、私の脳髄を直接掴んで揺さぶった。
 彼は私の顎を壊れそうな強さで持ち上げると、言葉を奪うように、唇を噛み付くように奪った。
「……っ、ん……! 駿……さん、ここ、会社……中、誰か来たら……っ!」
「黙れ。……ここは俺の城だ。俺が何をしようと、この世界のルールは俺が決める。……凛、お前は分かっていない。……お前のその声は、一度でも耳にすれば魂ごと絡め取られる、致死量の毒なんだ。……それを安売りした罪、今ここで、お前の身体の芯まで刻んで分からせてやる」
 駿さんは私を軽々と抱き上げると、広大な黒檀のデスクの上に乱暴に座らせた。数千億円規模の重要書類が虚空を舞い、最高級のステーショナリーが音を立てて床に弾け飛ぶ。
(……ひゃ……っ! 駿さん、本当に、余裕がない……!? ……こんなに、誰かに嫉妬して、形振り構わず私を貪ろうとする駿さん、初めて……!)
 普段は、どんなトラブルも数式のように冷徹に処理する彼が、たった一人の男が送ってきたメール一通に、お門違いなほどの嫉妬を燃やしている。その「醜くも美しい執着」と「剥き出しの独占欲」に、私のオタク脳は、恐怖を通り越して「最高に尊い……! 供給が過多すぎる……!」と、狂喜の悲鳴を上げた。
3. 総帥室での「再受理(リアクセプト)」
 駿さんは私のドレスの襟元を掴み、その白くなめらかな首筋に、所有を強烈に誇示するような深い痕をつけた。鏡を見なくてもわかる。これは数日は消えない、彼からの「刻印」だ。
「『……凛。……今から、この部屋の音響システムを、お前の声に最適化させる。……お前が俺の名前を呼ぶたびに、室内を漂うアロマが、俺への「依存」を深める成分に切り替わるように設定した』」
 彼がデスクのタッチパネルを操作すると、室内を支配していた清潔なサンダルウッドの香りが、一瞬にして、脳を直接麻痺させるような甘く重厚なバニラとムスクの香りに書き換えられた。
「『……さあ、鳴らしてみろ。……あの久我とかいう男には、逆立ちしても出せない……俺だけのための、蜜のような甘い声をな。……それとも、全社員に向けて、お前の乱れた吐息をライブ配信してやろうか? 俺は本気だぞ』」
「……っ、そんなこと、絶対にしないで……! 駿、さん……っ、好き、大好きです……! 私の声は、あなたのものだけ……あなたに受理されるためだけに、私は鳴いているんですから……っ!」
 私は涙目で彼の首にしがみつき、理性が溶けるような香りに包まれながら、必死に愛を叫んだ。
 駿さんはその言葉を待っていたかのように、私の耳朶を熱く甘噛みし、私の身体の最奥まで響くような、地を這う低音を放った。
「『……いい声だ。……三年前、お前を「ナイト」の声で騙し、自分の檻に誘い込んだ俺の判断は、一分一秒の狂いもなく正しかった。……俺は、お前を騙してでも、この声を手に入れたかったんだ。……誰にも渡さない。たとえ神が許さなくても、お前は俺の檻の中で、俺の声だけに犯され続けろ』」
 デスクの上で、激しく重なり合う二人の体温。
 強化ガラスの向こうでは、東京の街が何食わぬ顔で動いている。その中心で、世界を動かす総帥は、ただ一人の女の「声」を完全に独占するためだけに、その全権力と理性のすべてを、凄まじい熱量で使い果たそうとしていた。
4. 孤独なナイトの吐露、真実の共鳴
 荒い呼吸がようやく落ち着き、散乱した書類の山の上で、私は駿さんの逞しい腕の中に横たわっていた。
 窓から差し込む午後の光が、彼の銀色の髪を透かしている。彼は私の髪を、壊れ物を扱うように愛おしそうになぞりながら、初めて、自らの仮面の奥に隠した「弱さ」を、掠れた声で口にした。
「……凛。俺は、幼い頃から人の『声』に含まれる悪意に敏感すぎた。一族の連中が吐く、嘘と打算に満ちた汚い周波数に、耳を塞ぎたいとずっと思っていた。……だから、あの日。大学の階段の踊り場で、お前の透明で、純粋な祈りのような声を聴いた時……俺の、とっくに壊れかけていた世界が、一瞬で救われたんだ」
「……駿さん……」
「……お前を騙していたことは、今でも、俺という人間の唯一の、そして致命的な『欠陥』だと思っている。……だが、そうしなければ、お前のような光が、俺の隣にいてくれるはずがないと絶望していた。……俺は、お前に嫌われ、拒絶されるのが……この世界で、何よりも怖いんだ」
 無敵の帝王が見せた、震えるような「怯え」。
 その人間らしい脆さに、私の胸は張り裂けそうなほど締め付けられた。
 これまで私を苦しめてきた執拗な独占欲も、狂気的な管理愛も、そのすべては、彼がたった一人で抱えてきた深い「孤独」の裏返しであり、私を失いたくないという切実な悲鳴だったのだ。
「……駿さん。……もう、怖がらないで。……三年前、私がナイト様の声に魂を救われたのと同じように、今は私が、あなたの……『一ノ瀬駿』としての本当の声を、一生かけて、一番近くで守ってあげますから」
 私は彼の頬を愛おしく両手で包み、その唇に、慈しみと執着を込めた、愛という名の「最終受理」のキスを捧げた。
「……凛。……お前は本当に……俺の、人生そのものだ。代わりなど、この宇宙のどこにもいない」
 夕闇が迫る総帥室に、深い沈黙と、アロマの残り香が漂う。
 二人の物語は、もはや「支配」と「被支配」という次元を超え、二つの魂が同じ周波数で、永遠に響き合う唯一無二の調べへと昇華していった。
(……受理。……はい、駿さん。……私は一生、この総帥室という名の檻の中で……あなたの孤独を塗りつぶす、最高の『声』になり続けます。だって、私をこんなに狂わせてくれるのは、世界中であなただけなんだから!)

つづく