『氷の聖女は推しボイスに溶かされたい〜完璧な私が深夜にスパチャしている相手は、冷徹な鬼部長でした〜』

1. 社交界の毒牙と、鋼の聖女
 一ノ瀬巌(父)の病状が安定し、駿が事実上の「一ノ瀬グループ総帥」として全権を掌握してから数日が経過した。日本経済の頂点に君臨する一族、政財界の重鎮たちが一堂に会する、伝統あるチャリティーパーティーが今夜、開催される。
 会場は、一ノ瀬家が代々所有する迎賓館。壁一面を彩るバロック期の巨匠による名画と、天井から降り注ぐ何万個ものクリスタル・シャンデリアの輝きが、そこに集う人々の「選民意識」を静かに、かつ傲慢に助長していた。
 私は、駿さんのエスコートを受けながら、その重厚なマホガニーの扉を潜った。
 纏っているのは、駿さんが「今夜のお前は、一ノ瀬の威信そのものだ。誰一人としてお前から目を逸らすことを許さない」と豪語して用意させた、真夜中の深海を思わせるミッドナイトブルーのロングドレス。最高級のシルクが私の身体のラインを完璧に拾い、背中が肩甲骨の下まで大胆に開いたデザインは、彼が昨夜つけた「独占の痕(しるし)」を隠すどころか、透けるような肌の白さを毒々しいまでに際立たせていた。
「……駿さん、視線が痛いです。……あそこで扇子を動かしている奥様方、絶対に私の悪口を言っていますよね?」
「放っておけ。……羽虫が何を囁こうと、帝王の耳には届かない。……だが、もしお前の耳にその毒がわずかでも触れるというなら、話は別だ。俺がその舌をすべて引き抜いて、二度と音を発せないようにしてやるまでだ」
 駿さんは私の腰を、周囲を威嚇するかのような強さで引き寄せた。その独占欲を隠そうともしない不遜な仕草に、周囲からは「まあ、なんて露骨な……」「あんな下賎な女に、一ノ瀬の次期総帥がこれほどまでに入れあげるとは……」という微かな、けれど棘を含んだノイズが漏れ聞こえてくる。
(……聴こえてるわよ、全部。……私を『オタク上がりのシンデレラ』だと蔑んで、勝手に物語の結末を予想しているんでしょうけど……。こちとら三年間、あの魔王・一ノ瀬部長の下で、数々の無理難題と深夜残業という名の死線を潜り抜けてきた『氷壁の聖女』なのよ。……この程度の視線の刃、私たちが開発したアロマスピーカーの重低音で、分子レベルまで粉砕してやるわ!)
 私は、駿さんから贈られたロイヤルブルーのサファイアのピアスを揺らし、凛として微笑んだ。その姿は、本物の女王さえも圧倒する気品に満ちていた。
2. 淑女たちの包囲網
 パーティーが中盤に差し掛かった頃、駿さんが取引先の重鎮――一ノ瀬グループの主要バンクの頭取に呼ばれ、私は一人でテラス近くのビュッフェエリアに立った。
 その瞬間を待っていたかのように、社交界の重鎮と呼ばれる婦人たちと、かつて駿さんの「正妻候補」として名前を連ねていた令嬢たちが、獲物を囲む野犬のように私を包囲した。
「あら、一ノ瀬夫人。……サンスターツという、電子機器を売るだけの小さな会社の、しがない社員だったんですって? ……お里が知れるというのかしら。一ノ瀬の格式ある歴史の中に、そんな殺風景な経歴の女が立っているなんて、あまりに滑稽で、見ていられませんわ」
 刺繍の施された扇子で口元を隠した中年の婦人が、鼻で笑う。その瞳には、私という「異物」を排除しようとする冷酷な差別意識が宿っていた。
「……ええ、私は社員でした。……駿さんの下で、彼の壮大なビジョンを形にし、世界に届けるために、命を削って働いてまいりました。……それが私の何よりの誇りであり、彼と私が繋がった唯一無二の真実です」
「ふふ、健気なこと。……でも、駿様があなたのような女を選んだのは、一時的な気まぐれ。……例えるなら、高級なフルコースの合間に口にする、安っぽい駄菓子のようなものに過ぎないわ。……彼は『完璧』を愛する男。……背景も教養も持たないあなたに、いつまで彼がその『声』をかけてくれるかしらね?」
 令嬢の一人が、勝ち誇ったように笑い声を上げた。
「知っていますか? 駿様は、類稀なる『声』を愛する方よ。……あなたの平凡で平坦な声に、彼が飽きるのも時間の問題だわ。……次は、もっと高貴な血筋から生まれた、天上の『旋律』を持つ方が選ばれるに決まっているの」
(……平凡な声? ……私の声を、平凡と言ったの? ……この、ナイト様の、世界でたった一人のプロデューサーである私の声を……! 彼の孤独な夜を、三年間も支え続けてきた、この周波数を……!)
 私の内側で、静かに、けれど激しく「オタクの逆鱗」が触れた。
 この女たちには、絶対に分からない。私がどれだけの夜、画面越しに駿さんの「声」と向き合い、その微かな震えから彼の絶望や歓喜を読み解き、彼が最も望む言葉を届けてきたのか。そして彼が、私の声なしでは安眠することさえできないほど、深く「受理(アクセプト)」し合っているということを。
 
 その時。会場を流れていた優雅なバロック音楽が、まるで断頭台の斧が落ちたかのように、ふっと途絶えた。
3. 帝王の公開処刑
「……随分と楽しそうだな。……俺の許可なく、俺の『檻』の住人を囲んで、何をしている?」
 冷徹な氷柱が背骨を突き刺すような、極低温の声。
 振り返ると、そこにはクリスタルグラスを片手にした駿さんが立っていた。その瞳は、獲物を引き裂く直前の飢えた猛獣のように、底知れない闇を宿している。
「あ、あら駿様。……少し、奥様と親交を深めていただけですのよ。一ノ瀬家のマナーを、優しくお教えしていただけで……」
 婦人たちが慌てて扇子を閉じ、取り繕ったような笑顔を作る。だが、駿さんはそれを一切視界に入れず、会場の壁の至る所に設置された最新型の「一ノ瀬・アロマスピーカー」のメインコントロールパネルへと、迷いのない足取りで向かった。
「親交だと? ……お前たちが、彼女の経歴を、そしてその『声』を侮辱していたのはすべて聴こえていた。……俺は、この会場のすべての隠しマイクとスピーカーを、リアルタイムで波形解析していると言ったはずだ。……俺の凛の周波数が乱れる原因がどこにあるか、俺が把握していないと思ったのか?」
 駿さんは不敵に微笑むと、指先一つで会場全体の音量を最大に引き上げた。
 次の瞬間、豪華絢爛な会場に響き渡ったのは、優雅な音楽ではなく――。
『……凛。……愛してる。……お前のその、俺にしか出せない「特別な声」を……一生、俺の檻の中で、俺のためだけに鳴らし続けろ。……誰にもその音を聴かせるな。お前は俺の最高傑作なんだから』
 それは、昨夜、ベッドの中で駿さんが私の耳元に囁いた、世界で一番甘くて重い「ナイト」の、生々しい告白音声だった。
「……っ、駿さん! 何を……! それ、内緒だって言ったのに……!」
 私は羞恥心で顔を覆った。だが、駿さんは冷酷なまでにその音声をループさせ続けた。
「聴け、無能な羽虫ども。……これが、俺が心酔し、俺が跪いている『声』だ。……彼女の声こそが、俺の人生のすべての指揮棒(タクト)だ。……彼女を否定することは、一ノ瀬グループの総帥である俺の審美眼を、そして俺の人生そのものを否定することに他ならない。……つまり、今この瞬間から、我が一族とお前たちの一族との関係は、資本提携から個人的な付き合いに至るまで、すべてを破棄させてもらう」
 会場が、絶叫に近い驚愕と沈黙に包まれた。
 一ノ瀬グループとの縁を切られる。それは、この社交界にいる者たちにとって、社会的な死、あるいは破滅を意味する宣告だった。
「……駿様、お待ちください! 冗談でしょう!? ほんの少しの口実で、我が家との数十年におよぶ契約を……!」
「冗談? ……俺が、妻のことで冗談を言うと思うか? ……去れ。……二度と、俺の凛の視界に、その醜い姿を晒すな」
 駿さんは、私の肩を抱き寄せ、震える婦人たちを一瞥して、ゴミを捨てるように冷たく切り捨てた。
4. 騎士(ナイト)の独占、永遠の証明
 騒然とするパーティー会場を後にし、私たちは月明かりが冷たく照らす、中庭の奥深くにあるガゼボへと移動した。
 夜の静寂が、私たちの周囲を濃密に包み込む。
 
「……駿さん。……あんなことしちゃって、本当に大丈夫なんですか? 経済界のバランスとか、株価とか……」
「知るか。……俺は、お前を中傷する世界を守るつもりはない。……凛、言っただろう。……お前は俺の檻(なか)で、世界で一番大切に愛でられる女王なんだ。……お前を泣かせる奴は、それが親族だろうと権力者だろうと、俺がそのすべてを灰にしてやる。……一ノ瀬の権力は、お前を守り、お前を甘やかすためにのみ存在する」
 駿さんは、私の首筋に鼻先を寄せ、深くその香りを吸い込んだ。
「……それに、今の『公開告白』……。……お前の頬が、これ以上ないほど紅潮し、瞳が潤んでいる。……俺の声は、お前を辱め、同時に最高の快感を与えるためのものだ。……そうだろ?」
 駿さんの指が、ドレスの背中の開いた部分を、愛おしそうに、けれど執拗になぞる。
 
(……ああ。……本当に、この人は。……私のために世界を敵に回すことを、微塵もためらわない。……その狂気的なまでの愛が、今の私には……何よりも誇ろしくて、尊くて、死ぬほど愛おしい)
 私は、駿さんの首に手を回し、自ら唇を重ねた。
 
「……はい。……駿さん。……私のこの『平凡な声』は、あなたにしか聴かせないし、あなたにしか届かせない。……だから、一生、私をあなたの声で支配し続けてください……!」
 駿さんは満足げに目を細め、ナイトの周波数を最大にして囁いた。
「『……合格だ。……凛。……今夜は、お前の声を一滴残らず、俺の鼓膜で受理(アクセプト)してやる。……パーティーの続きは、俺たちの寝室で、明け方までお前の全周波数を「録音」し続けようか』」
 月光の下、帝王の腕の中で、凛は再び「爆死」した。
 社交界の嵐さえも、二人の愛の周波数を高めるための心地よいノイズに過ぎない。
 
 一ノ瀬家の真の支配者は、もはや「帝王」駿ではなく、その心を「声」ひとつで完全に掌握した「聖女」凛であることを、世界が知る日は近い。

つづく