『氷の聖女は推しボイスに溶かされたい〜完璧な私が深夜にスパチャしている相手は、冷徹な鬼部長でした〜』

1. 帝王の孤独と、無機質な世界
 六月、ハネムーンの地であるプライベートアイランドに到着した夜。
 波の音が心地よく響く水上ヴィラのテラスで、俺はシャンパングラスを傾けながら、隣で波音に耳を澄ませる凛の横顔を眺めていた。
 海風に揺れる彼女の黒髪、月光を反射して潤む瞳。
 
「……駿さん。三年前の面接のとき、あんな風に助けてくれた理由、やっと分かりました。でも……さっき仰った『もっと前』っていうのは、本当なんですか?」
 
 凛が不思議そうに首を傾げる。
 俺は彼女の細い肩を引き寄せ、耳元に囁いた。
「ああ。……お前にとっては数分間の出来事だったかもしれないが、俺にとっては、人生が数式から音楽に変わった瞬間だった」
 ――記憶は、さらに数年を遡る。俺がまだ二十歳、一ノ瀬家の「完璧な後継者」として、感情を殺して大学に通っていた頃のことだ。
 当時の俺は、すべてに絶望していた。
 周囲に集まるのは、一ノ瀬の看板に群がる羽虫のような人間ばかり。誰もが俺の顔色を伺い、期待された通りの「完璧な回答」を俺に求めた。
 俺にとって世界は、冷たい数式と、予測可能なノイズの集合体でしかなかった。
 そんなある日。俺は他大学との合同で開催された「ビジネスプレゼン大会」に、審査員席のオブザーバーとして出席していた。
 壇上で繰り広げられるのは、野心に満ちた学生たちの「作り込まれた声」。どれもが俺の鼓膜を素通りし、退屈な眠気を誘うだけだった。
 休憩時間、俺は喧騒を逃れて、舞台裏の非常階段へと足を向けた。
 そこは、埃っぽくて暗い、誰にも顧みられない場所。
 だが、そこから「その音」が聞こえてきた。
2. 階段踊り場の「聖域」
「……世界を変えるのは、大きな技術だけじゃありません。……小さな『声』が、誰かの夜を照らすこと。……私は、そんな未来を作りたいんです」
 震える、けれど凛とした声。
 俺は足を止めた。
 階段の踊り場で、一人の女子高生が、壁に向かって必死にプレゼンの練習をしていた。
 それが、まだ制服を着ていた頃の――氷室凛だった。
 彼女は俺の存在に気づいていない。
 暗い階段室で、彼女の声だけが、月光のように透明に響いていた。
 
 俺は衝撃を受けた。
 彼女の声には、打算も、虚栄も、俺を操ろうとする下劣な意志も一切なかった。
 ただ、「自分の言葉を届けたい」という純粋な祈りのような振動。
 その周波数は、俺の凍りついていた心臓を、直接掴んで揺さぶった。
 
(……なんだ、この音は。……この声の持ち主は、誰だ?)
 俺は無意識に、ポケットに入れていたICレコーダーを取り出した。普段は講義や会議を記録するために持ち歩いている、無機質な機械。
 俺はそれを彼女に向け、その「祈り」を録音し始めた。
 
 それが、俺の人生で初めての「サンプリング」であり、初恋の始まりだった。
 彼女は練習を終えると、大きく深呼吸をして、ステージの方へと走っていった。
 結局、彼女はその大会で賞を獲ることはなかった。
 あまりに繊細で、あまりに商業的ではなかったからだ。
 
 だが、俺の中では、彼女こそが唯一の勝者だった。
 
 俺はその日から、その「数分間の録音データ」を、守り神のように持ち歩くようになった。
 孤独な夜、一ノ瀬家の重圧に押し潰されそうな夜、俺はヘッドフォンを装着し、彼女の声を聴いた。
『……小さな「声」が、誰かの夜を照らすこと。……私は、そんな未来を作りたいんです』
 
 その声を聴くたび、俺は救われた。
 同時に、ある一つの「狂気」が俺の中で芽生え、肥大化していった。
 
(……この声を、俺だけのものにしたい。……この声が、世界で一番甘く、そして俺のためだけに鳴り響く場所を作りたい)
3. 「ナイト」という名の報復
 大学を卒業し、サンスターツに入社してからも、俺は彼女を探し続けた。
 「氷室凛」という名前。あの日の名簿から特定するのは容易だった。
 
 彼女が大学を卒業し、就職活動を始めたことを知ったとき、俺はあらゆる手を回した。
 彼女が受けるであろう企業のリストを把握し、彼女がサンスターツの門を叩くように、就職エージェントのアルゴリズムを密かに操作した。
 
 すべては、彼女を「俺の檻」に誘い込むための布石。
 
 そして三年前。面接会場で、ついに彼女と再会した。
 彼女は俺のことを覚えていなかったが、俺は彼女が部屋に入ってきた瞬間の歩幅、呼吸の深さ、そして——あの階段室で聴いたのと変わらない、至高の声の響きをすべて認識した。
 
 面接官として、無能な役員から彼女を守り、内定を出した夜。
 俺は一人、防音室で、あの階段室の録音データと、今日録音した彼女の声を交互に再生した。
 
「……ああ、凛。……やっと、手が届く場所にきた」
 
 俺は狂おしい悦びに浸りながら、マイクを握った。
 彼女がかつて言った『誰かの夜を照らす声』に、俺自身がなるために。
 そして、俺が彼女を照らす光になることで、彼女を俺以外、何も見えない暗闇へと追い込むために。
 
『……こんばんは。ナイトです。……今夜も、君の声が聴きたくて、ここに来たよ』
 
 それが、「ナイト」の本当の原点。
 俺の配信は、彼女へのラブレターであり、同時に、彼女を俺なしでは生きていけない身体にするための「甘い毒」だったのだ。
4. ハネムーンの夜、真実の受理
「…………駿さん、嘘……。……そんな前から、私の声を録音してたんですか?」
 
 モルディブの夜。
 俺が当時のICレコーダー――今は一ノ瀬家の家宝レベルの金庫に保管されている、あの小さな機械を見せると、凛は顔を覆って、その場に崩れ落ちた。
 
「ああ。……お前の知らないところで、俺はお前の声と何千回、何万回も対話してきた。……お前が俺に出会う前から、お前は俺に犯されていたも同然だ」
 
「……っ、……ひぃい! 重い! 重すぎます、駿さん! でも……」
 
 凛は涙を浮かべながら、俺の胸に飛び込んできた。
 
「……でも。……あの時、誰も聴いてくれなかった私の独り言を、駿さんだけが聴いていてくれた……。……それって、オタク的には……最高のファンサービスです……っ!」
 
「……ファンサービスだと? 違うな。……これは、生涯をかけた『独占』の始まりだ」
 
 俺は凛を抱き上げ、ヴィラの天蓋付きベッドへと運んだ。
 
「凛。……今日から、お前の声はもう、録音データなんかじゃない。……俺の肌で、俺の鼓膜で、直接受け止めてやる。……あの階段室で言っていた未来を、俺が叶えてやるよ」
 
 俺は彼女の耳元に唇を寄せ、これまでの人生で最も深く、甘い周波数を放った。
 
「『……凛。……お前のその、俺にしか出せない「特別な声」……一晩中、俺のためだけに鳴らしてみろ。……いいな?』」
 
「…………はい。……駿さん。……一生、あなただけに、受理され続けます……」
 
 新感覚ラブコメ、ここに極まれり。
 
 一人の男の執念が生んだ「ナイト」という奇跡は、今、一人の女性の「真実の愛」と共鳴し、永遠に続くハネムーンの海へと溶けていく。
 
(さあ、凛。……今夜のサンプリングは、少し激しくなるぞ。……お前のすべてを、俺が記録(愛)してやるからな)

つづく