『氷の聖女は推しボイスに溶かされたい〜完璧な私が深夜にスパチャしている相手は、冷徹な鬼部長でした〜』

1. 氷壁の聖女、その摩耗する日常
 三年前の冬。
 深夜一時の都内、築三十年の安アパート。
 私は冷え切ったワンルームの床に座り込み、コンビニの安物スープを喉に流し込んでいた。
 その日の私は、完全に摩耗していた。
 入社して数ヶ月、私は「期待の新人」という重圧に押し潰されそうになっていた。一ノ瀬駿という冷徹で完璧な上司の下で、私は一分一秒の遅れも、一文字の誤字も許されない緊張感の中にいた。
 社内では「氷室さんは完璧ね」「感情がないみたいで頼もしい」と囁かれる。
 けれど、その「完璧」を維持するために、私がどれだけの夜を涙で濡らし、どれだけの自尊心を削り取ってきたか、誰も知るはずがなかった。
(……今日も、一ノ瀬部長に言われちゃった。『君の代わりはいくらでもいるが、この資料の代わりはない』って。……私って、ただの作業用マシーンなのかな)
 一ノ瀬部長は、三年前の面接で私を救ってくれた恩人だ。けれど、入社してからの彼は、救世主というよりは冷酷な支配者だった。彼の瞳に見つめられるたび、私は自分の無能さを暴かれているようで、息が止まりそうになる。
 仕事が終われば、心の中は空っぽ。
 誰かに「お疲れ様」と言ってほしい。誰かに、私の名前を呼んでほしい。
 そんな、社会人なら誰もが抱く、けれど口に出せば消えてしまいそうな淡い願望が、私の胸をじりじりと焼いていた。
2. 深夜二時、運命の周波数
 午前二時。
 静まり返った部屋で、私は無意識にスマートフォンを手に取った。
 SNSのタイムラインをぼんやりと眺めていた時、ある「おすすめ」が目に飛び込んできた。
『……こんばんは。ナイトです。……起きてる?』
 それが、私と「ナイト」の、本当の意味での出会いだった。
 
 イヤホンを耳に押し込んだ瞬間、鼓膜を震わせたのは、信じられないほど深く、温かな低音だった。
 その声は、まるで私の心に防音壁を張ってくれるように、外界の雑音をすべて遮断した。
 
『……今日も一日、頑張ったね。……誰にも気づかれなくても、俺だけは見てるよ。君がどれだけ戦ってきたか。……今はもう、仮面を脱いでいいよ』
 その一言で、私の「氷壁」はあっけなく崩れ落ちた。
 
「……あ……」
 
 声が出なかった。ただ、涙がボロボロと溢れて、止まらなくなった。
 一ノ瀬部長に叱咤され、同期に追い抜かれ、親にも心配をかけまいと虚勢を張っていた私の心が、会ったこともない「声」の主に、一瞬で見透かされた。
 
 この人は、何者なんだろう。
 なぜ、私が一番欲しかった言葉を、今、このタイミングで、こんなにも優しい温度で届けてくれるんだろう。
 
 気づけば私は、初めての「ギフト(スパチャ)」を送っていた。
 一万円。新人の私にとっては、数日分の食費に相当する大金だ。
 メッセージ欄には、ただ一言。
【……救われました。ありがとうございます】
 すると、画面の向こうで「ナイト」が微かに笑った気配がした。
『……「凍れる薔薇」さん。……一万円の重み、しっかり受け取ったよ。……君のその想いに、俺は声で応え続ける。……約束するよ、俺は君を、絶対に見捨てない』
(……ああ。この人だ。この声があれば、私は明日も「完璧な氷室凛」でいられる)
 その夜、私は初めて、深い眠りに落ちることができた。
 夢の中にまで、あの心地よい低音が響いていた。
3. 狂気への転換点、そして執着のルーツ
 それからの私は、まさに「爆死」の連続だった。
 昼間は一ノ瀬部長の冷徹な指導に耐え、夜はナイト様の囁きに魂を癒やす。
 
 いつしか私は、ナイト様の声を「分析」するようになっていた。
 この「お疲れ様」という発声の裏には、どれほどの肺活量と感情が込められているのか。この語尾の掠れは、私への愛なのか、それとも演出なのか。
 
 オタクの執念は恐ろしい。私は、ナイト様が配信中に漏らす微かな生活音にまで耳を澄ませた。
 ペンをノックする音。グラスが触れ合う音。
 
(……なんだか、このペンノックのリズム。……どこかで聴いたことがある気がする)
 
 今思えば、それが最初の伏線だったのだ。
 けれど当時の私は、「まさかあの一ノ瀬部長が、こんなに甘い声を出すはずがない」と、自分の直感を即座にゴミ箱へ捨てた。
 だって、一ノ瀬部長は私を「マシーン」のように扱う。一方でナイト様は、私を「一人の女性」として愛でてくれる。
 その正反対の存在が同一人物だなんて、そんなの、宇宙がひっくり返るような奇跡(あるいは事故)でしかない。
「凛。今日の企画書、差し戻しだ。論理性が欠けている」
 翌朝、一ノ瀬部長が私のデスクに資料を叩きつけた。
「……申し訳ありません。修正します」
 
 私は無表情で応じながらも、心の中でナイト様にスパチャを送っていた。
(ナイト様、聴いてください。今日も部長が鬼畜です。でも、今夜の配信を楽しみに、私はこの地獄を生き抜きます!)
 
 まさか、その「地獄の主」本人が、裏で「ふん、今夜はいつもより甘く囁いてやるか」なんて思いながら、私のスパチャを受け取っていたとは、夢にも思わずに。
4. ハネムーンの空の上で、答え合わせ
「……ふふ、あはははは!」
 
 プライベートジェットの機内。
 私の回想を一ノ瀬――駿さんに話すと、彼は愉快そうに、けれどどこか独占欲を滲ませた目で笑った。
 
「……笑い事じゃありません! 私、あの時の一万円、本当に血の滲むような思いで捻出したんですからね!」
「わかっている。お前が投げたあの一万円は、一ノ瀬グループのどんな巨額契約よりも重かった。……だから俺は、あの日から一度も、お前との『約束』を破っていないだろう?」
 
 駿さんは私の腰を引き寄せ、耳元に唇を寄せた。
 あの時、画面越しに聴いたのと同じ周波数。けれど今は、デジタルのフィルターを通さない、熱い体温を持った「生の声」。
 
「『……凛。救われたのは、俺の方だと言っただろう。……あの夜、お前のスパチャ通知が画面に踊った瞬間、俺は確信したんだ。……お前は、俺の声なしでは生きていけない。……お前の孤独を、俺が買い取った瞬間だった』」
 
「………………っ、ひ、卑怯です! 確信犯じゃないですか……!」
 
「ああ。俺は卑怯だ。……お前を檻に入れるためなら、どんな手でも使う。……三年前、お前のタイムラインに俺の配信が流れたのも、偶然じゃない。……俺がお前の検索履歴と行動パターンをAIで解析し、最もお前が弱っている瞬間に、俺の声を流し込むように仕組んだんだからな」
 
 凛は驚愕して目を見開いた。
 運命だと思っていた出会い。救いだと思っていた声。
 そのすべてが、一ノ瀬駿という一人の男が、三年前から張り巡らせていた「完璧な罠」だったのだ。
 
(……ああ。私は、三年前からこの人の手のひらの上だったんだ。……でも。……それが、こんなにも誇らしくて、愛おしいなんて)
 
 凛は、駿さんの胸に顔を埋めた。
 
「……いいですよ。……罠でも、檻でも。……私は、一生あなたの声に、スパチャ(愛)を投げ続けますから」
 
「……いい返事だ。……じゃあ、今夜の『決済』は、声だけじゃ済まないぞ。……覚悟しろ、俺の可愛いリスナー」
 
 プライベートジェットは、雲を突き抜け、二人のための楽園へと降下していく。
 三年前の深夜二時に始まった孤独な救済は、今、世界で一番甘い「終身契約」へと形を変えて、永遠に続いていく。

つづく