『氷の聖女は推しボイスに溶かされたい〜完璧な私が深夜にスパチャしている相手は、冷徹な鬼部長でした〜』

1. 楽園への翼、帝王の独白
 六月。雨の匂いが残る日本を離れ、プライベートジェットの機内はサンダルウッドとオレンジの柔らかなアロマに満たされている。
 雲海を黄金色に染める夕日を眺めながら、俺は隣で安らかな寝息を立てる凛の横顔を見つめていた。
 長い睫毛が微かに震え、俺が贈ったカシミアのガウンに顔を埋めている彼女は、今、世界で一番無防備な存在だ。左手薬指には、俺が意図的に「重すぎる」ほどの大粒を選んだダイヤモンドが、機内のライティングを反射して虹色の火花を散らしている。
(……凛。お前は、俺が面接会場でお前に『一聴き惚れ』したと思っているようだが……実は少し違うんだ)
 俺は手元のタブレットを開き、厳重にプロテクトされた隠しフォルダを呼び出した。
 そこにあるのは、三年前――いや、それよりももっと前から、俺が彼女を「観測」し続けてきた記録の一部だ。
 
 三年前の俺は、一ノ瀬家の次期後継者という退屈な椅子を半分蹴り飛ばし、サンスターツの最年少部長として、冷徹な効率主義を貫いていた。
 世界は数式と効率、そして損得で動いている。そう信じていた俺の耳に、その「ノイズ」が飛び込んできたのは、ある蒸し暑い午後のことだった。
2. 面接会場の「聖域」
 当時、俺は中途採用の最終面接官として、あくびを噛み殺しながら椅子に座っていた。
 並み居る候補者たちは、判で押したような自己PRと、どこかで聞きかじったようなビジネス用語を、個性のない「営業用の声」で並べ立てていた。
「……次の方、氷室凛さん。入ってください」
 その名前を呼んだ瞬間、俺の胸の中に奇妙なざわつきが生まれた。
 部屋に入ってきた彼女は、今よりもずっと痩せていて、今よりもずっと不安そうだった。けれど、一ノ瀬財閥の重鎮たちが放つ威圧感の中を、背筋をピンと伸ばして歩いてきた。
「……氷室凛です。よろしく、お願いいたします」
 その第一声を聞いた瞬間。
 俺の心臓の奥にある、冷え切った機械のような部分が、火花を散らしてショートしたのを今でも鮮明に覚えている。
 
 彼女の声は、決して大きくはなかった。だが、その周波数は、俺がこれまで聴いてきたどの楽器よりも、どの音楽よりも完璧だった。
 高すぎず、低すぎず、清流のように澄んでいるのに、その奥底には「誰かに何かを届けたい」という切実な熱情が、結晶のように固まっている。
 
 俺は無意識に、デスクの下でペンを三回ノックした。
 カチッ、カチッ、カチッ。
 俺が極度の興奮を覚えた時の、無意識の癖。
(……この声だ。この声を、一生聴いていたい)
 
 だが、隣に座っていた老年の役員が、彼女の控えめな態度を「覇気がない」と一蹴した。
「君のような、自分を押し殺したような声では、我が社の最前線では通用しないよ」
 その言葉に、彼女の肩が微かに震えた。彼女の瞳に、絶望の影が差した。
 
 俺は許せなかった。この至高の芸術品のような声を、無能な老害の言葉で汚されることが。
 俺はマイクのスイッチを切り、身を乗り出して、彼女にだけ聞こえる地声で囁いた。
「——君の声は、人を動かす力がある。自信を持って」
 それが、俺たちの一度目の「邂逅」だった。彼女は驚いたように俺を見つめ、その瞳には小さな光が宿った。
 この瞬間、俺は確信した。彼女という楽器を奏でることができるのは、世界中で俺一人だけだと。
3. 「ナイト」の誕生、あるいは檻の建設
 彼女を採用した後、俺の執着は加速した。
 上司として彼女のそばにいるだけでは、彼女の「本当の声」を独占できない。仕事中の彼女は「完璧な部下」であろうとして、その本来の艶やかな響きを隠し、鉄の仮面を被ってしまうからだ。
 俺は、彼女が夜、一人で何を考え、どんな声で泣き、どんな言葉に救われるのかを知りたくなった。
 
「……部長。お疲れ様でした。お先に失礼します」
 退社する彼女の背中を、セキュリティモニター越しに見送るのが日課になった。
 彼女の住所、家族構成、SNSの裏アカウント、購入履歴――そんなものを調べるのは、俺の権力を使えば造作もないことだった。
 
 彼女は、孤独だった。
 昼間の仕事での「完璧さ」を求められる反動で、夜は推し活に没頭し、画面越しの誰かに「愛してる」と呟くことで自分を保っている。
 
(ならば、俺がその『誰か』になればいい。彼女の孤独を、俺の色で染め上げてしまえばいい)
 その夜、俺は一ノ瀬家の資産を惜しみなく投じ、最高級のコンデンサーマイクを購入し、マンションの一室に完璧な防音室を特注した。
 さらにAIによるアルゴリズム操作を命じた。彼女のタイムラインに、俺の声が「偶然」流れるように。彼女が最も弱っている深夜二時に、俺の周波数が彼女の脳をジャックするように。
『……こんばんは。ナイトです』
 初めて配信ボタンを押したとき、俺が考えていたのは全世界のリスナーのことではない。
 ただ一人、都内の狭いアパートで膝を抱えているはずの、彼女のことだけだった。
 
 案の定、彼女は俺の声に捕まった。
 彼女が初めて俺に投げた「ギフト」の通知を見たとき、俺は暗い部屋で一人、狂喜の笑みを浮かべた。
「ああ、凛。お前は、自ら俺の声という檻に飛び込んできたんだな。……もう、逃がさない」
4. 執着の正体と、真夜中の機密
 回想から現実に戻ると、プライベートジェットの高度が少し下がった。
 凛が目を覚まし、眠たげな目で俺を見上げた。その潤んだ瞳は、三年前の面接会場で見たものよりも、ずっと深い愛に満ちている。
「……駿さん? 何を見ていたんですか?」
「……お前の、一番古い『記録』だ」
「えっ、恥ずかしい……! 三年前の私の仕事ぶりなんて、今見たらミスだらけですよ」
「いいや。お前は三年前から、一度もミスなどしていない。……お前が俺を好きになったことも、俺に身を委ねたことも、すべてが俺の計算通り、完璧な正解だ」
 俺は凛を抱き寄せ、彼女の耳元に唇を寄せた。
 
「凛。お前は、俺に救われたと思っているだろう。……だが、救われたのは俺の方だ。……俺は、お前の声を独占するためだけに、この三年間、帝王の椅子を維持してきた。……お前のために、一ノ瀬のすべてを改造してきたんだからな」
 凛は真っ赤になり、「また大げさなこと言って……」と俺の胸に顔を埋めた。
 
 彼女はまだ知らない。
 三年前の面接の後、俺が彼女が座っていた椅子の温度を確かめたことも、彼女が落としていった一本の髪の毛を、今も会社の金庫の最奥に保管していることも。
 そして、このプライベートジェットのスピーカーに、彼女の声の微かな震えを感知してアロマを自動調整するシステムを組み込んでいることも。
(お前は完璧なプロデューサーであり、俺の最高傑作だ、凛。……そして俺は、お前を完璧に飼い慣らすために生まれた、お前だけの『ナイト』だ)
 俺は凛の細い首筋に、所有印を刻み直した。
 ハネムーンの地に着く頃には、彼女の声をもっと深い場所から、もっと甘い響きで、俺だけのものにするために。
「『……凛。今日は一晩中、俺の隣で……三年前からお前の耳に流し込みたかった「愛の言葉」を……全部、実地で聴かせてあげるからな』」
「…………っ、駿さん……爆死します……もう、受理です……」
 プライベートジェットは、夕闇の空を切り裂き、二人のための楽園へと降下していく。
 そこは、世界で一番甘く、そして逃げ場のない、俺の声という名の檻だ。

つづく