『氷の聖女は推しボイスに溶かされたい〜完璧な私が深夜にスパチャしている相手は、冷徹な鬼部長でした〜』

1. 完璧な花嫁、最後の防戦
 六月、ジューンブライド。
 サンスターツ社が誇る「アロマスピーカー」の爆発的ヒットは、音響業界の勢力図を一夜にして塗り替えた。その立役者であり、今や「伝説のプロデューサー」と呼ばれる氷室凛の結婚式は、一ノ瀬家の財力と一ノ瀬駿の狂気的な執着が注ぎ込まれ、都内最高級ホテルの巨大なボールルームを貸し切って執り行われようとしていた。
 控え室の大きな三面鏡の前で、凛は自分の姿に息を呑んだ。
 纏っているのは、パリのオートクチュールで一ノ瀬が「凛の肌の透明度を最も際立たせる白を」と特注した、純白のウェディングドレス。数万個のスワロフスキーが、彼女が呼吸するたびに星屑のように瞬き、デコルテに輝くのは一ノ瀬財閥に代々伝わるロイヤルブルーのサファイアだ。
「……本当に、私なの?」
 鏡の中には、いつもの「氷壁の聖女」ではない、愛に潤み、熱を帯びた一人の女がいた。
 凛はそっと、自らの耳朶に触れる。そこには、かつて「ナイト」の声を追いかけていた安価なイヤホンではなく、一ノ瀬から贈られた最高級ダイヤモンドのピアスが揺れている。
(……三年前、深夜のワンルームで、ナイト様の声だけを糧に生きていた私が。……今、その声の主の『妻』になろうとしているなんて。……受理どころか、私の人生、これ以上の神回があるのかしら)
 感傷に浸る凛の背後に、気配もなく「彼」が現れた。
 鏡越しに目が合う。漆黒のタキシードに身を包んだ一ノ瀬駿は、冷徹な帝王の風格と、獲物を手に入れた悦びに満ちた獲食者の色気を放っていた。
「……美しいな、凛。お前を誰の目にも触れさせたくないという独占欲と、お前を俺だけのものだと世界中に自慢したいという虚栄心が、今、俺の中で激しく争っている。……正直に言えば、今すぐこのドレスを引き裂いて、ハネムーンの地へお前を連れ去りたい」
 一ノ瀬は凛の背中から腕を回し、その細い首筋に鼻先を寄せた。
「部長……いえ、駿さん。……今日は、さすがに大人しくしてくださいね? 全社員が見ているんですから」
「……善処しよう。だが、お前がそんなに完璧な花嫁の顔をしていたら、誓いのキスの前に俺の理性が爆死するかもしれないぞ。……凛。お前はもう、俺の声という檻から一生出られないことを、その身体に刻み込んであるんだからな」
 一ノ瀬は凛の耳朶を軽く食み、あの、五千万人を虜にしてきた「ナイト」の極上低音で囁いた。
「『……愛してる。……今日から、お前の戸籍も、身体も、その震える声も、すべて俺の所有物だ。……覚悟しろよ、俺の可愛いリスナー(奥さん)』」
「…………っ、ひ、ひぃい(通算百回目、本日一度目の尊死)」
 凛の膝から力が抜け、一ノ瀬の腕の中に崩れ落ちる。完璧な花嫁の仮面は、バージンロードを歩く前から、最推しの生ボイスによって粉々に粉砕された。
2. 史上最高の披露宴と、全社員の証言
 披露宴会場。そこにはサンスターツの全社員、一ノ瀬財閥の重鎮、そして業界の名だたる顔ぶれが揃っていた。
 扉が開き、二人が入場した瞬間、会場は割れんばかりの拍手と、あまりの美男美女ぶりに上がる悲鳴に近い歓声に包まれた。
「見てくれ、あの部長の顔。……仕事中より百倍怖いぞ。『俺の女に近づく奴は全員消す』って顔に書いてある」
「氷室さんも、見てよ。あの幸せそうな顔……。氷の聖女が溶けすぎて、もはや聖母(マドンナ)じゃないか。……でも、あの二人の空気、昨日今日付き合ったレベルじゃないわね。……三年前から仕組まれてたって噂、本当かも」
 社員たちの祝福(と畏怖)が飛び交う中、宴は進む。
 主賓の挨拶に立った一ノ瀬巌(父)が、「駿をここまで変えたのは、彼女の情熱だ。一ノ瀬の家にとっても、彼女こそが真の救世主である」と短く、けれど深い敬意を込めて語ったとき、会場には感動の渦が巻き起こった。
 だが、真のハイライトは、新郎謝辞のあとに用意されていた。
「皆様。最後に、俺から妻……凛に、サプライズを用意している」
 一ノ瀬がマイクを握る。その瞬間、会場の照明がすべて落ちた。
 漆黒の闇の中、会場を埋め尽くしたのは、一ノ瀬と凛が共同開発した『アロマスピーカー』の特別仕様から放たれる、凛が最も愛する「真夜中の静寂」をイメージしたアロマと――。
『……みんな、こんばんは。ナイトです』
 会場に響き渡る、あの「ナイト」の伝説の第一声。
 元リスナーの社員たちが絶叫し、凛は驚きで口元を抑えた。
3. 公開プロポーズ・ファイナルと、衝撃の伏線
 スポットライトが一ノ瀬だけを照らす。彼はマイクを持たず、地声で、けれどナイトのあのトーンで凛に向かって語り始めた。
「三年前、俺は名前も知らない一人の女性のために配信を始めた。……彼女が孤独な夜、俺の声を見つけてくれることだけを信じて。……そして今日、その彼女が、俺の隣で俺の苗字を名乗ってくれている。……だが凛。お前は知らないだろう」
 一ノ瀬は凛の前に跪き、彼女の左手を恭しく取った。
「お前が俺の配信に出会い、スパチャを投げ、俺に溺れていったそのすべては……実はお前が俺の正体に気づく前から、俺が裏でアルゴリズムを操作し、お前のタイムラインに俺の声を流し続けた結果だということだ。……俺は、お前を俺以外では生きられない身体にするために、三年間、お前の脳を俺の声で調教し続けてきたんだ」
(……えっ……? 部長、今なんて……? スパチャも、出会いも、全部計算だったの!? 尊い……いや、怖い! でもやっぱり、最高に尊い……!)
 会場が騒然とする中、一ノ瀬は凛の指先に深くキスを落とし、顔を上げた。
「凛。お前は俺の最高傑作であり、俺の全人生を捧げるべき唯一の推しだ。……これからは、マイクなんていらない。……毎日、お前の隣で、お前の耳元で、死ぬまで愛を囁き続けることを、ここで誓う」
「『……愛してる。……一生、俺に飼われていろ。……もう、どこへも逃がさない』」
「………………(全方位・再起不能の爆死)」
 凛の目から、大粒の涙が溢れ出した。
 完璧なヒロイン・氷室凛。彼女が長年、画面越しに夢見ていた「ナイト様」の愛。それが今、目の前の「一ノ瀬駿」という一人の男の、重すぎるほどの執着愛として、彼女を完全に飲み込んだ。
「……はい。……受理、いたします……! 駿さん、大好き……大好きです……!」
 凛はなりふり構わず一ノ瀬の胸に飛び込んだ。
 「氷壁の聖女」の完全な陥落。それは、会場にいる五百人の参列者と、そして(一ノ瀬が密かに裏で繋いでいた)「ナイト卒業記念・限定ゲリラ配信」を視聴していた数百万人のリスナーが見守る中での、最高に甘美な「終身契約」だった。
4. 結末:檻の中の、幸せな日常と「次なる舞台」
 それから、数週間後。
 サンスターツ社内では、今や「伝説」となった二人のオフィスラブが、もはや日常の風景と化していた。
 副部長室。そこには、二人の愛の結晶である「監禁ブース」をさらにグレードアップした、二人専用のプライベート・ワークルームが完成していた。
 凛は、一ノ瀬の妻として、そして副部長へと昇進した彼の筆頭プロデューサーとして、相変わらず完璧な仕事をこなしている。
「……一ノ瀬副部長。ハネムーンの最終行程表です。……行き先、秘密にされてたんですけど、……モルディブのプライベートアイランドを貸し切ったって本当ですか?」
 凛が資料を差し出すと、一ノ瀬はそれを奪い取る代わりに、凛を自分の膝の上に引き寄せた。
「ああ。あそこなら、二十四時間、誰にも邪魔されずにお前の声を録音できる。……お前が俺の名を呼ぶ声、波の音、そして俺の愛に喘ぐ声……すべてをサンプリングして、俺専用の永久保存版ライブラリを作るつもりだ。……楽しみだろう?」
「なっ、……変態です! 仕事中になんてことを! ……でも、その、アイランドには、最高級の防音設備があるって……聞きましたけど……」
「ふっ。……抜かりはない。お前のために、特別なマイクと、俺の声を最も美しく響かせる寝室を用意してある。……一週間のハネムーン、一秒たりともお前を寝かせるつもりはないからな」
 一ノ瀬は凛の耳元に唇を寄せ、あのアロマスピーカーから流れるのと同じ、最高密度の愛の言葉を落とした。
「『……準備はいいか、凛。……ハネムーン特別編は、配信禁止(R指定)の「実技」だけだ。……お前のすべてを、俺の声で塗りつぶしてやる』」
(……ああ。私の推しは、世界で一番執着心が強くて、世界で一番甘い、私だけの旦那様。……私は一生、この「ハイスペ溺愛」という名の極上の檻から、出られそうにないわ)
 凛は幸せな溜息をつき、最愛の男の首に腕を回した。
 完璧なヒロインと、最推しの上司。
 二人の恋の周波数は、これからも止まることなく、甘い吐息と共に響き続けていく。


(受理。――完。……そして、甘すぎる新婚旅行編へ。……お前の声を、もっと聴かせてくれ、凛)