1. 聖域から、因習の牙城へ
土曜日の朝。
昨夜の「伝説の配信」による甘美な余韻と、一ノ瀬の激しい愛によって、凛の体にはまだ熱が残っていた。朝の光に照らされたシーツの海で、氷室凛は自分の首筋に残された熱い「刻印」に触れ、呆然と昨夜の出来事を反芻していた。
(……受理、しちゃったんだ。全世界五十万人の前で、部長への愛を……。私はもう、ただのリスナーには戻れない)
だが、感傷に浸る時間は一秒も与えられなかった。
一ノ瀬の超高級マンションの車寄せには、一台の漆黒のロールスロイスが静かに、威圧感を持って横付けされている。運転席から降りてきたのは、一ノ瀬の秘書ではなく、家紋の入った漆黒の制服を纏った初老の男。一ノ瀬家の執事長だ。
「若旦那様、お迎えに上がりました。大旦那様が本邸にてお待ちです」
「……ああ。予定通りだ」
一ノ瀬は、戸惑う凛の腰を引き寄せ、当然のように後部座席へと導く。凛は、一ノ瀬が「お前に相応しい戦闘服だ」と昨夜のうちに用意させていた、シャネルのツイードスーツに身を包んでいたが、その内側では心臓がかつてないほど激しく警鐘を鳴らしていた。
(……待って。昨夜「卒業」して、今朝は「実家」? 展開が早すぎて、私のオタク脳が処理落ちしてる……! しかも、この車……この家紋。一ノ瀬部長って、ただの有能な上司じゃなくて、日本有数の巨大財閥『一ノ瀬家』の直系だったの!?)
凛は、一ノ瀬の隣でカチコチに固まっていた。
車内には、一ノ瀬が好むシトラスの香りと、凛の緊張を和らげるためのサンダルウッドのアロマが微かに漂っている。その香りに包まれ、一ノ瀬が凛の冷たくなった手を握り、指を絡めた。
「凛。顔色が悪いぞ。……怖いか?」
「……怖くないと言ったら嘘になります。私、ただの一般家庭出身の社員ですし……」
「お前はただの社員じゃない。俺の唯一無二のパートナーで、ナイト(俺)の魂だ。……俺の親父が何を言おうと、俺はお前を離さない。……むしろ、お前が俺から逃げ出さないように、今日中に逃げ場を失くしてやるだけだ」
一ノ瀬は不敵に微笑むと、凛の薬指の付け根に唇を寄せた。その瞳は、配信の時の包容力ある優しさではなく、一ノ瀬家の「帝王」としての冷徹で傲慢な光を宿していた。
2. 氷の城の主
一ノ瀬家の本邸は、鎌倉の広大な敷地に建つ、近代建築と伝統的な和が融合した巨大な屋敷だった。
重厚な扉を潜り、磨き抜かれた廊下を歩く。やがて案内された広大な広間で待っていたのは、一ノ瀬駿の父であり、一ノ瀬グループの総帥・一ノ瀬巌(いわお)だった。その威圧感は、会社の重役たちなど足元にも及ばない。
「……駿。配信などという、下俗な遊びをようやく辞めたと思えば、連れてきたのはどこの馬の骨とも知れぬ小娘か」
巌の声が、冷たく広い空間に鋭く響く。凛は足が震えそうになるのを必死で耐え、「氷壁の聖女」としての仮面を最大出力で稼働させた。
「……初めまして。氷室凛と申します。一ノ瀬部長の下で、企画プロデューサーを務めております」
凛は、完璧な角度で頭を下げた。三年前、面接会場で一ノ瀬に見初められた、あの「凛とした立ち居振る舞い」。
しかし、巌の視線は冷酷だった。
「プロデューサーだと? 女が職分を弁えず、駿の寵愛を利用して地位を築いたという噂は耳に入っている。駿。お前に相応しいのは九条家の娘だ。この女には、それ相応の手切れ金を用意してやれ。二度と俺たちの前に現れるなとな」
その瞬間、部屋の温度が物理的に下がったように感じられた。
一ノ瀬が、凛の前に一歩踏み出し、巌を真っ向から、そして蛇のように鋭い瞳で見据える。
「親父。勘違いするな。……俺が彼女を寵愛しているのではない。……俺が、彼女に跪いているんだ」
3. 公開処刑の、その先へ
「……何だと? 狂ったか、駿」
「狂ったのは三年前だ。お前たちが押し付けた見合いや政略結婚の道具にされるのが嫌で、俺は自分の力だけで今の地位を築いた。その暗闇の中で、俺を繋ぎ止めていたのは、彼女の声と、彼女の情熱だけだったんだ」
一ノ瀬は、凛の肩を壊さんばかりに強く抱き寄せ、巌に向かって断言した。
「彼女を侮辱することは、俺の人生そのものを否定することだ。……もし彼女を認めないと言うなら、俺は今この瞬間、一ノ瀬の姓を捨て、すべての資産を放棄しても構わない。……俺には、彼女(凛)の声さえあれば、一からでも世界を支配できる。彼女という唯一のリスナーがいれば、俺は神にでも王にでもなれるんだよ」
(……部長! 尊い……尊すぎて、脳内がスパチャの嵐で真っ白……! 私のために、名前も家柄も捨てるなんて、そんなのどんな配信の神回よりもドラマチックすぎる……!)
凛は、一ノ瀬の横顔を見つめた。昨夜の配信で見せた「ナイト」の甘い顔、そして今の「一人の男」としての、剥き出しの執着。そのすべてが、狂おしいほど愛おしい。
凛は、一ノ瀬の腕の中からそっと抜け出し、巌の前に凛然と立った。
「一ノ瀬総帥。……私は、部長の資産や家柄に惹かれたわけではありません。……私は、彼が孤独な夜に放った『声』に救われ、その『志』に惚れました。……もし、部長がすべてを捨てると仰るなら、私が彼を養います」
「……何?」
「三年間、オタクとして培った節約術と貯金、そして彼から叩き込まれた仕事のスキルがあります。彼を一生、不自由させずに贅沢に甘やかして見せる自信があります。……ですから、彼を『道具』として扱うのはお辞めください。彼は、私の人生のすべて(推し)なんです」
「…………」
沈黙が広間を支配する。一ノ瀬は驚きで目を見開き、その後、堪えきれないように、腹の底から低く笑い出した。
「……聴いたか、親父。……これが、俺の選んだ女だ。……最強だろう?」
4. 帝王の敗北、そして「刻印」
巌は、長く深い溜息を吐いた。その厳格な瞳に、微かな、本当に微かな「敗北」の色が混じる。一ノ瀬駿という化け物を御するには、これほどまでに狂った女が必要だということを、彼は悟ったのかもしれない。
「……駿。お前がそこまで愚かになれる女か。……よかろう。だが、一ノ瀬の妻になるからには、並大抵の覚悟では済まぬぞ。一族の因習、社交界の波……すべてを飲み込んでみせろ」
「覚悟なら、三年前からできています。……親父、礼を言うよ」
一ノ瀬は巌の許しを待たず、凛を連れて広間を後にした。
帰りの車中。凛は緊張の糸が完全に切れ、一ノ瀬の肩にぐったりと寄りかかった。
「……死ぬかと思いました。私、総帥に喧嘩売っちゃいましたよね……? オタクの貯金額とか言っちゃいましたよね……?」
「ああ。最高だったぞ、凛。……『俺を養う』なんて、全リスナーが聴いたら卒倒してサーバーが爆死するセリフだ。惚れ直した」
一ノ瀬は凛を強く抱き寄せ、その首筋に、昨夜よりも深く、赤く、一生消えないほどの熱量で刻印を刻みつけた。
「……凛。お前はもう、一ノ瀬の家の檻からも、俺の愛という檻からも逃げられない。……覚悟しろ。明日は、俺の全資産をかけて、お前を世界で一番『完璧な花嫁』に仕立て上げてやる。……俺の声だけを聴いて、俺の腕の中で、一生爆死し続けていろ」
「……はい。部長……いえ、駿さん。……一生、あなたの隣で、受理し続けます」
完璧なヒロイン・氷室凛。
彼女は、一ノ瀬家の高い壁をも、その「推しへの純愛」という名の特攻で粉砕した。
物語は、全社員が見守る中での「史上最高の披露宴」へと、最終局面を迎える。
つづく
土曜日の朝。
昨夜の「伝説の配信」による甘美な余韻と、一ノ瀬の激しい愛によって、凛の体にはまだ熱が残っていた。朝の光に照らされたシーツの海で、氷室凛は自分の首筋に残された熱い「刻印」に触れ、呆然と昨夜の出来事を反芻していた。
(……受理、しちゃったんだ。全世界五十万人の前で、部長への愛を……。私はもう、ただのリスナーには戻れない)
だが、感傷に浸る時間は一秒も与えられなかった。
一ノ瀬の超高級マンションの車寄せには、一台の漆黒のロールスロイスが静かに、威圧感を持って横付けされている。運転席から降りてきたのは、一ノ瀬の秘書ではなく、家紋の入った漆黒の制服を纏った初老の男。一ノ瀬家の執事長だ。
「若旦那様、お迎えに上がりました。大旦那様が本邸にてお待ちです」
「……ああ。予定通りだ」
一ノ瀬は、戸惑う凛の腰を引き寄せ、当然のように後部座席へと導く。凛は、一ノ瀬が「お前に相応しい戦闘服だ」と昨夜のうちに用意させていた、シャネルのツイードスーツに身を包んでいたが、その内側では心臓がかつてないほど激しく警鐘を鳴らしていた。
(……待って。昨夜「卒業」して、今朝は「実家」? 展開が早すぎて、私のオタク脳が処理落ちしてる……! しかも、この車……この家紋。一ノ瀬部長って、ただの有能な上司じゃなくて、日本有数の巨大財閥『一ノ瀬家』の直系だったの!?)
凛は、一ノ瀬の隣でカチコチに固まっていた。
車内には、一ノ瀬が好むシトラスの香りと、凛の緊張を和らげるためのサンダルウッドのアロマが微かに漂っている。その香りに包まれ、一ノ瀬が凛の冷たくなった手を握り、指を絡めた。
「凛。顔色が悪いぞ。……怖いか?」
「……怖くないと言ったら嘘になります。私、ただの一般家庭出身の社員ですし……」
「お前はただの社員じゃない。俺の唯一無二のパートナーで、ナイト(俺)の魂だ。……俺の親父が何を言おうと、俺はお前を離さない。……むしろ、お前が俺から逃げ出さないように、今日中に逃げ場を失くしてやるだけだ」
一ノ瀬は不敵に微笑むと、凛の薬指の付け根に唇を寄せた。その瞳は、配信の時の包容力ある優しさではなく、一ノ瀬家の「帝王」としての冷徹で傲慢な光を宿していた。
2. 氷の城の主
一ノ瀬家の本邸は、鎌倉の広大な敷地に建つ、近代建築と伝統的な和が融合した巨大な屋敷だった。
重厚な扉を潜り、磨き抜かれた廊下を歩く。やがて案内された広大な広間で待っていたのは、一ノ瀬駿の父であり、一ノ瀬グループの総帥・一ノ瀬巌(いわお)だった。その威圧感は、会社の重役たちなど足元にも及ばない。
「……駿。配信などという、下俗な遊びをようやく辞めたと思えば、連れてきたのはどこの馬の骨とも知れぬ小娘か」
巌の声が、冷たく広い空間に鋭く響く。凛は足が震えそうになるのを必死で耐え、「氷壁の聖女」としての仮面を最大出力で稼働させた。
「……初めまして。氷室凛と申します。一ノ瀬部長の下で、企画プロデューサーを務めております」
凛は、完璧な角度で頭を下げた。三年前、面接会場で一ノ瀬に見初められた、あの「凛とした立ち居振る舞い」。
しかし、巌の視線は冷酷だった。
「プロデューサーだと? 女が職分を弁えず、駿の寵愛を利用して地位を築いたという噂は耳に入っている。駿。お前に相応しいのは九条家の娘だ。この女には、それ相応の手切れ金を用意してやれ。二度と俺たちの前に現れるなとな」
その瞬間、部屋の温度が物理的に下がったように感じられた。
一ノ瀬が、凛の前に一歩踏み出し、巌を真っ向から、そして蛇のように鋭い瞳で見据える。
「親父。勘違いするな。……俺が彼女を寵愛しているのではない。……俺が、彼女に跪いているんだ」
3. 公開処刑の、その先へ
「……何だと? 狂ったか、駿」
「狂ったのは三年前だ。お前たちが押し付けた見合いや政略結婚の道具にされるのが嫌で、俺は自分の力だけで今の地位を築いた。その暗闇の中で、俺を繋ぎ止めていたのは、彼女の声と、彼女の情熱だけだったんだ」
一ノ瀬は、凛の肩を壊さんばかりに強く抱き寄せ、巌に向かって断言した。
「彼女を侮辱することは、俺の人生そのものを否定することだ。……もし彼女を認めないと言うなら、俺は今この瞬間、一ノ瀬の姓を捨て、すべての資産を放棄しても構わない。……俺には、彼女(凛)の声さえあれば、一からでも世界を支配できる。彼女という唯一のリスナーがいれば、俺は神にでも王にでもなれるんだよ」
(……部長! 尊い……尊すぎて、脳内がスパチャの嵐で真っ白……! 私のために、名前も家柄も捨てるなんて、そんなのどんな配信の神回よりもドラマチックすぎる……!)
凛は、一ノ瀬の横顔を見つめた。昨夜の配信で見せた「ナイト」の甘い顔、そして今の「一人の男」としての、剥き出しの執着。そのすべてが、狂おしいほど愛おしい。
凛は、一ノ瀬の腕の中からそっと抜け出し、巌の前に凛然と立った。
「一ノ瀬総帥。……私は、部長の資産や家柄に惹かれたわけではありません。……私は、彼が孤独な夜に放った『声』に救われ、その『志』に惚れました。……もし、部長がすべてを捨てると仰るなら、私が彼を養います」
「……何?」
「三年間、オタクとして培った節約術と貯金、そして彼から叩き込まれた仕事のスキルがあります。彼を一生、不自由させずに贅沢に甘やかして見せる自信があります。……ですから、彼を『道具』として扱うのはお辞めください。彼は、私の人生のすべて(推し)なんです」
「…………」
沈黙が広間を支配する。一ノ瀬は驚きで目を見開き、その後、堪えきれないように、腹の底から低く笑い出した。
「……聴いたか、親父。……これが、俺の選んだ女だ。……最強だろう?」
4. 帝王の敗北、そして「刻印」
巌は、長く深い溜息を吐いた。その厳格な瞳に、微かな、本当に微かな「敗北」の色が混じる。一ノ瀬駿という化け物を御するには、これほどまでに狂った女が必要だということを、彼は悟ったのかもしれない。
「……駿。お前がそこまで愚かになれる女か。……よかろう。だが、一ノ瀬の妻になるからには、並大抵の覚悟では済まぬぞ。一族の因習、社交界の波……すべてを飲み込んでみせろ」
「覚悟なら、三年前からできています。……親父、礼を言うよ」
一ノ瀬は巌の許しを待たず、凛を連れて広間を後にした。
帰りの車中。凛は緊張の糸が完全に切れ、一ノ瀬の肩にぐったりと寄りかかった。
「……死ぬかと思いました。私、総帥に喧嘩売っちゃいましたよね……? オタクの貯金額とか言っちゃいましたよね……?」
「ああ。最高だったぞ、凛。……『俺を養う』なんて、全リスナーが聴いたら卒倒してサーバーが爆死するセリフだ。惚れ直した」
一ノ瀬は凛を強く抱き寄せ、その首筋に、昨夜よりも深く、赤く、一生消えないほどの熱量で刻印を刻みつけた。
「……凛。お前はもう、一ノ瀬の家の檻からも、俺の愛という檻からも逃げられない。……覚悟しろ。明日は、俺の全資産をかけて、お前を世界で一番『完璧な花嫁』に仕立て上げてやる。……俺の声だけを聴いて、俺の腕の中で、一生爆死し続けていろ」
「……はい。部長……いえ、駿さん。……一生、あなたの隣で、受理し続けます」
完璧なヒロイン・氷室凛。
彼女は、一ノ瀬家の高い壁をも、その「推しへの純愛」という名の特攻で粉砕した。
物語は、全社員が見守る中での「史上最高の披露宴」へと、最終局面を迎える。
つづく



